1.異世界は突然に。
一部、キャラの呼び方など修正しました。
「お疲れ様でーす!」
17時。いつも通り挨拶をして、パート先のフラワーショップを後にする。
これから急いでスーパーに寄って、帰って夕食の支度をしなきゃ。洗濯物もいっぱい干してあるし、やることは山のようにある。
通勤用ママチャリの前かごにバッグを放り込み、飛び乗るようにしてそのままペダルを勢いよく踏み込んだ。
信号で停まったついでに首をゴリゴリッと回す。花屋の仕事は終わったけど、主婦の仕事はこれからだ。
私は大きく息を吐いて、気合いを入れ直した。
首藤恵美子、50歳。
近所のフラワーショップでパートしながらこなす家事は、忙しいながらも嫌いではなかった。可愛い娘や息子のためになら頑張れる、なんて綺麗事は言わない。
単純に性に合ってるんだと思う。時々ご褒美で楽しむ推し活だって充実している。
「さて、今日の夕飯、何にしようかなー? すき焼きいっちゃう? すき焼きぃ!」
独り言を言いながら自転車をこいで角を曲がる。
こんな毎日が普通に、当たり前のように続くと思っていた。
——この時までは。
「……ミル、エミル! 大丈夫ですか!?」
遠くで声がする。
まだ若そうな男の声。
「す……き、やき……」
うっすらと目を開ける。
そこには、まだあどけなさの残る青年の心配そうな顔があった。
私、どうしたのかしら。
確かさっきまで、夕飯を何にしようか考えながら自転車を漕いでいて……。
「メトスさま! エミルが目を覚ましました!」
私の様子を見て、安心したような笑顔を浮かべると、青年は背後の老人の方を見る。
……メトスさまって、どこの国の名前かしら。なんだかおしゃれね。
ぼんやりとそんなことを思っていると、荒くて生臭い鼻息のようなものが顔にかかって、そしてべろりと頬を舐められた。
え?
今の何?
私は慌てて起き上がる。
そして、あたりを見回した。
「な、なんじゃこりゃあーーー!!!」
あたりは一面、緑深き森。
そばには、なんか布を巻きつけただけのあられもない格好のジジイと青年(可愛い)。そして、二頭の馬……。
顔が生臭いのは馬に舐められたからだろう。
って。
なんで馬?
「ううむ。だいぶ混乱しておるようじゃの」
「そのようですね」
「エミル、何があったか覚えておるかの? まあ、その前にヒールじゃな」
ジジイが近づいてきて、私に手をかざした。体がふわっと暖かくなって淡い光に包まれる。
何これ!?
ビビったけれど、思いのほか心地よくて妙に安心する。例えるなら、それは温泉。極楽極楽。って、そんなこと言ってる場合じゃない!
「あ、あの!」
「少しは落ち着いたかの?」
優しく声をかけられて、意を決して質問した。
「あ、はい。ありがとうございます。……って、ここは、どこですか!? そしてあなたたちはどなたさまですか?」
「エミル! メトスさまに失礼ですよ!」
それを聞いた可愛い青年が私をたしなめる。
ってか、私そんなに失礼な言い方してないと思うけどな。
「これ、リッカ。状況が状況じゃ、仕方あるまい。ふうむ。やはり打ちどころが悪かったかの? ここは首都ミソシール南方の森、コンフタシの森じゃ」
私はメトスさまと呼ばれるジジイの顔をまじまじと見る。
味噌汁とか昆布だしとかふざけてんのか?とは思うけれど、心配そうにするその様子はとてもそんなふうには思えない。
それにさっきの温泉……、じゃなくてヒールも正直現代ではありえない。
そして唐突な森とジジイと美青年&馬×2。
もしや……。
ちらつく厨二病な考えを頭から追い出すように首を振る。その様子を見ていたリッカが私の顔を覗き込みながら言った。
「エミル、大丈夫ですか?」
「多分大丈夫じゃない、かな」
この状況で大丈夫と返事できるやつがいたら、それはそれで大丈夫じゃないだろう。
「わしらのことも忘れておるのかの?」
「はい。綺麗さっぱり」
忘れてるっていうか、知らないよ。
「仕方ないのう。わしはメトス・シューレン、クックゥ教の司祭じゃ。これはリッカ・ヴィーン。エミル、お主の兄弟子じゃ」
「ええと、メトスさま? 実は私、自分の名前もわからないっていうか、何もかもわからないっていうか……」
顎に手を当てて、メトスさまは考え込むように言った。
「困ったのう。お主はエミル・シュトー。クックゥ教の僧侶じゃよ」
私、知らぬ間に出家してたよ。
「そもそも、名前もエミル・シュトーじゃなくて首藤恵美子だし。それにしても奇跡的に名前がガチ似なのはなぜ……」
頭を抱えて顔にまとわりつく髪に違和感を覚える。妙に長い髪は金髪だった。
薄々気がついてはいた。
だって、声が低いんだもの。
ふらつきながら立ち上がって、異常に見晴らしが良いことに気がついてクラクラする。
「エミル?」
はるか下にあるリッカの顔を見た。
どう見ても日本人じゃないっていうか、そもそも名前が違いますけどね。
「あの……、鏡とかって、ありますか?」
「鏡? ああ、姿が見たいのか? 待っておれ」
そう言うと、メトスさまは脇の岩に杖で何か図形のようなものを書いた。
ぱあっと図形が淡い光を放つと、そこに水が満たされてゆく。
「鏡なぞ高価なものは持ち歩いておらぬからの。水鏡でどうじゃ」
「メトスさま、わざわざ魔法を使わずとも……」
「いいじゃろう、それに顔をゆすげば意識もはっきりするかもしれん」
ヒールに続いて、突然使われた魔法に私は覚悟する。でもその前に自分の姿だけでも確認したかった。
「……ありがとうございます」
お礼を言ってから、恐る恐る岩に溜まった水を覗き込んだ。
——そこには。
長い金髪を後ろで一つにまとめた、見目麗しいどイケメンが水面に映っていた。
50年間見慣れた顔があるとは思っていなかった。思ってはいなかったけど。
まさかこんなにイケメンになっちゃうって、そんなことあるーーー?
日が落ちて、辺りは夜の闇に埋もれて息を潜めている。
目の前の焚き火に切り取られたこの場所と、月明かりで照らされた辺りだけが私たちの居場所だった。
あのあと、要領を得ない私を心配したメトスさまは早々に野営を決めた。
リッカは手慣れたもので手早く準備をして、あっという間に食事まで用意されていた。
私も手伝おうとしたものの、今日は休んでいるようにと申しつけられていて、お言葉に甘えてのんびりさせてもらっている。
まあ、のんびりしてる場合じゃないけどね。
でも今は慌てたところで何かできるとは思えない。
「これからどうすっかなー」
食事を終えた私は大きくため息をついた。
メトスさまはすでにテントに入っている。リッカは後片付けを終え、魔法の練習をしているようだ。
時々パチパチッと色とりどりの火花が散るのが遠巻きに見えた。
私は焚き火に当たりながら空を見上げた。
空いっぱいの星と、満月が美しい。
こんな夜空、ずっと見ていなかったな。
この夜空は、私が元いた世界のものじゃない。そうわかっていても、なぜだかしんみりした。
あの後、メトスさまとリッカに私のことを説明し、反対に2人の今の状況とこの世界について簡単に教えてもらった。
最初は疑われていたけれども、過去に同じような事件(転移や召喚)があったらしく最終的には信じてくれた。
私はエミル・シュトーという17歳の僧侶の中に入ってしまったらしい。『らしい』と表現したのは確定ではないからだ。
エミル・シュトーはメトスさまとリッカと共に、ミソラメンの街から首都ミソシールを目指して移動していた。
なんでも、リッカとエミルが勇者パーティー候補に挙がり、その選抜を受けるのだそうだ。
その道中、魔物に急に襲撃され、なんとか撃退したものの、エミルはうっかり馬から落馬して意識を失ったとのこと。
大事なことだから2回言うけど、馬から落馬したエミルが目を覚ましたと思ったら、中身が私に変わっていたのだそうだ。
それを聞いた時、正直やばいと思った。
勇者パーティーの選考も、魔物との戦闘もどうにもできそうにない。
だって魔法使えないし。
ちなみにメトスさまやリッカの指導のもと、色々やってみたけど魔法は使えなかった。っていうかそもそも魔法陣が描けない。知らないから。
そもそもこの体の持ち主のエミル・シュトーはどこに行ってしまったのだろう?
17歳の若者だと思うと余計に心配で、なんなら自分の家族や体のことよりも心配だった。
今日の出来事を思い返してみる。
私、首藤恵美子はいつものようにパートを終えて、ママチャリでスーパーに向かっていた。すき焼きのことを考えていたのは覚えている。
角を曲がろうとして何かにぶつかった——?
「エミコ、もう夜も更けます。そろそろ横になったほうがいいですよ」
リッカに声をかけられて、ふと我に返る。中身が首藤恵美子とわかった今、話し合った末に私は元の名前でエミコと呼ばれている。
「ありがとう。考え込んじゃって」
「気持ちはわかります。知らない世界に突然きてしまったのですから。明日は早めに発って街を目指しましょう。街の方が情報もありますから」
「うん。そうだね」
私は素直にリッカに従った。
実際、疲れてる自覚があった。
「リッカ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
挨拶をしてテントに入った。
一応中身は女性ということで、本来メトスさまが1人で使っていたテントを私1人で独占していた。
硬い地面に簡素な寝袋に入って横になる。やっぱり疲れていたみたいで、こんなに寝心地が悪いのに眠れそうだった。




