第1話:サイリウムの海に消ゆ
男の人生のピークは、いつも薄暗い地下のライブハウスにあった。
30代のしがないシステムエンジニア。平日は理不尽なデスマーチと上司の叱責に耐え、ただ心をすり減らすだけの日々。そんな男が生きる意味のすべてが、週末のこの場所にあった。給料のすべてを推し(地下アイドル)の物販とチケットにつぎ込み、フロアの最前列で声を枯らす。それだけが、男の魂の証明だった。
「ありがとー! みんな大好きだよー!」
ステージの上で、汗をダイヤのように輝かせながら歌う推し。彼女のメンバーカラーである赤色のサイリウムを、男は体の一部であるかのように全力で振っていた。地響きのようなコールを叫び、周囲の仲間と完璧にステップを合わせる。この瞬間だけは、自分が世界の主役であるかのように思えた。
だが、その熱狂は唐突に、最悪の形で断ち切られた。
バチバチと、ステージ袖の古い配電盤から激しい火花が散った。次の瞬間、爆発的な轟音とともに黒煙が吹き荒れ、古いライブハウスは瞬く間に炎の海へと変わる。
悲鳴、怒号、押し寄せる人の波。地下ゆえに出口は狭く、パニックがパニックを呼んでフロアは地獄絵図と化した。
「逃げろ! 押すな、落ち着いて出口へ向かえ!」
男はサラリーマン時代に嫌というほど叩き込まれた(役に立たないはずだった)危機管理能力をフルに発揮し、周囲のファンを誘導した。逃げ惑う人々を押し戻し、出口への動線を確保する。
そして、ふとステージを見上げると、そこには腰を抜かし、恐怖で涙を流しながら立ち尽くす推しの少女の姿があった。
「しまっ……!」
男は炎の中に飛び込んだ。容赦なく肌を焼く熱気を突っ切り、ステージに駆け上がると、少女の細い腕を掴んで非常口へと力任せに押し出した。
「い、一緒に逃げよう……!」
泣き叫ぶ彼女に、男は顔を煤で真っ黒にしながら、親指を立てて笑った。
「お前は、こんなところで終わるタマじゃねえだろ。……武道館、絶対行けよ」
直後、メキメキと不穏な音が響き、天井の巨大な梁が激しく崩落した。
猛烈な熱気と、肺を焦がす煙。視界が真っ赤に染まり、男の意識は深い闇へと沈んでいった。だが、その胸中には恐怖はなかった。推しの安全を確信しながら、オタクとしての最高の引き際を迎えられたことに、どこか満足しながら、男の1つの人生は終わりを迎えた。




