第8話 若き猛獣使いの覚醒
グランカレ村の空が、本来の清々しい黎明の色を取り戻した後のこと。
村を去る前、伝説の賢者エターナは、跪くヴァレリウス公爵を冷ややかな目で見下ろしながら、極めて事務的にこう告げた。
「ヴァレリウス君、今はだいぶ偉くなったみたいだけど、エルムに壊されたボロボロの図書室を直す予算と、エルムが使い果たしてしまった旅の路銀、どうにかしてくれないかな?」
苦笑いするエルムを横目に、エターナから要求があること自体がご褒美かのように、ヴァレリウスは快諾した。
「はっ! 勿体なきお言葉。エルム様とエターナ様の旅路に、塵ほどの手間もかけさせるわけには参りません!」
そう言ってヴァレリウスが差し出したのは、魔力を込めた特別な重厚な革袋だった。中には、一般家庭が数年は遊んで暮らせるほどの金貨と、一粒で城が建つと言われる最高級の魔力結晶が詰め込まれていた。
同時に、ベルにとっても大きな転機が訪れていた。ヴァレリウスは、管理局の腐敗を暴き、母樹を守ろうとした彼女の「管理官」としての卓越した実務能力を高く評価したのだ。
「ベル殿。君のような志ある者が、あのような腐った管理局で燻っているのは忍びない…。どうかな、我が『テ・セレスト』の本部所属として、エルム殿たちの旅を支える『外交管理官』に転籍しないか? 君の給与だけでなく、この村の復興もテ・セレストが保証する。」
ベルにとって、それは願ってもない申し出だった。大好きな村の復興をテ・セレストという巨大資本の傘下に置くことができ、同時に、自分の憧れた「本物の魔導と茶の世界」を間近で学べる。彼女は迷うことなく管理局の徽章を投げ捨て、テ・セレストの制服に身を包む決意をした。
――それからわずか三日後。
一行は、白亜の建物が波打つように坂道に沿って重なり合う、海辺の自由都市メルシナに到着していた。
潮風が街全体をレモンの香りで包み込み、石畳を叩く馬車の音が活気を奏でる。かつての魔王領の境界線でありながら、現在は全大陸の富が流入する、まさに「流通の心臓部」だ。
「素晴らしいな。海辺の街特有の、この『塩気を含んだ空気』。これが茶葉のタンニンの角を削り、驚くほどまろやかな後味を生んでくれるんだ。メルシナの水質に合わせたブレンドを考えなきゃいけないね」
エルムは、広場に面した高級茶葉専門店『テ・セレスト』メルシナ支店のショーウィンドウを、まるで宝石を見つめるような眼差しで凝視していた。
「見てくれ、エターナ、ベル! あれが、この街でしか手に入らない限定缶『メルシナ・シトロン』だ! 今期は地中海の潮風をたっぷり浴びた若葉に、特産のシトロンの精油を……。
保存用、鑑賞用、そして布教用に最低でも各三缶、合計九缶は確保しないと。あ、あとこの街の陶磁器は釉薬に微量の魔力を含んでいて、保温性が抜群なんだ。それも一式揃えないとね」
「エルム、能書きはいいから早く買ってきなよ。それより、あの店。貴重な魔導書が『インテリア』として無造作に売られている…。許せない。ちょっと私が買い取って保護しないと。」
二人は、ベルが止める間もなく、それぞれの「聖地」へと吸い込まれていった。
数時間後。
夕暮れの噴水広場に、山のような荷物を抱えたエルムとエターナが戻ってきた。
エルムの手には、一本で金貨十枚は下らない特注の魔導温度計や、伝説の職人が焼いた茶器セット。
エターナの背後には、浮遊魔法で運ばれる、革表紙の分厚い古書と、謎の古代遺物の数々。
「…………」
二人を待っていたベルは、エルムから返された小さな革の財布を、逆さにして振った。
チャリン……と、乾いた音を立てて落ちてきたのは、わずか五枚の銅貨だった。
「……あの、エルムさん。エターナ様」
ベルの声は、静かだった。だが、その背後に渦巻く威圧感は、先日のヴァレリウスの比ではない。彼女の額の二本の角が、怒りによる熱量でパチパチと青白い火花を散らしている。
「ヴァレリウス様からいただいたあの大金は…どこへ行ったんですか?」
「え? ……ああ、この茶器、水を入れるだけで理想の軟水に調律してくれる魔法回路が組み込まれていてね。少し高かったけど、美味しいお茶を淹れるための必要経費だよ」
「あの店主、なかなかいいやつだったよ。『この魔導書は非売品だけど、特別に金貨20枚で売ってやるよ』だってさ。………え、何…ベル、怒ってるの?」
「――必要経費!? 冗談じゃありません!! エターナ様に至っては完全にぼったくられてますし!!」
ベルが財布を地面に叩きつけた。その衝撃で、広場の石畳にヒビが入り、噴水の水がピシャリと跳ねる。
竜族の母とドワーフの父の間に生まれたベルは、その華奢な見た目に反して、とんでもない怪力の持ち主であった。
「いいですか!? 旅には食費も宿代もかかるんです! 神話に出てくるレベルのお二人なら、霞でも食べて生きていけるかもしれませんけど、私はお腹が空くんです! それに、このままじゃ今夜の宿すら泊まれません! 金銭感覚どうなってるんですか!!」
「エターナはともかく、さすがに僕は霞は…」
「いや、私も無理だよ…」
「何か言いました?」
「「いえ、何も…」」
1時間後
神話級の強者2人が路地裏の片隅で同時に正座させられていた。
当分の間は路銀に困ることはないと安心していたところ、数時間で使い切った2人にベルは本気でキレてしまい、一時間に及ぶ説教は、潮風に乗ってメルシナの街に響き渡った。
「ベル、反省してるよ。次にヴァレルにあったら、もう少し多めに路銀を用意してくれるように頼むよ。」
「私も反省したよ。あの店主、なかなかの手練れだね。そんな売り方のテクニックがあるとは…この反省を生かして、次は適正価格で買えるように努力するよ…」
反省の方向がズレている二人を見て、ベルは深いため息をつきながら、家計簿代わりの手帳をバタンと閉じた。彼女の頭は、この絶望的な収支報告をリセットするための「プランB」を弾き出していた。
「これから私が仕事を探してきますので、お二人の高い能力を生かして働いてもらいます。今夜の宿代と明日からの路銀を稼いでいただきますので、文句はありませんよね? 働かざる者、茶を飲むべからず、です!」
この出来事がきっかけとなり、世界を揺るがす最強の二人の出費は、テ・セレストの若き敏腕管理官ベルにより厳重に管理されることになった。
それから数日も経たぬうちに、メルシナのギルドには『どんな依頼でも解決する銀髪の美女と穏やかな青年のコンビ』の噂が広まったのだった。




