第6話 あまりにも美しくない
迎賓館のステージの中央、ベルの頭上に振りかざされたのは、管理局の特級護衛たちが練り上げた、空間そのものを断絶させる暗黒の術式だった。
逃げ場はなく、防ぐ術もない。ベルは、死を目前にしながらも、村の大切な大樹を守るために、自分が最後に声を上げられたことに、不思議な安らぎさえ感じていた。
だが、その一撃が彼女の存在を消し去る直前。
広場に満ちていた「作られた優雅さ」を、「静寂」が塗り替えた。
「私の前で、そんな不格好な魔法を使わないでくれるかな? 術の構成が雑すぎて、見てるだけで目が腐りそうだ」
冷徹な、だが鈴を鳴らすように澄んだ声。
エターナが聖木の杖を軽く振るった。それだけで、ベルを襲った暗黒の魔力は、まるで水面に落ちた炭火のように、不快な音一つ立てずに消滅した。
それは単なる魔法の相殺ではない。構築された術式の糸口を瞬時に見抜き、最小限の魔力で対象の魔法の効果を無力化してみせる、神の領域の演算能力。管理局の魔導師たちが一生をかけて辿り着く『真理』のさらに先を、彼女は欠伸をしながら歩いているのだ。
「な、なんだ!? どこから入り込んだ!」
ガストンが狼狽して叫ぶ中、迎賓館の重厚な正面扉が、物理的な力を受けることなく音もなく左右に開かれた。そこから、エルムがゆっくりとステージへと歩み寄ってきた。
その隣には、銀髪を翻したエターナが立ち、死の淵から生還したベルを優しく自らの背後へと引き寄せている。
「ベルさん。よく言ったね。君の勇気が、この場の澱んだ空気を、一番先に変えてくれた。僕たちに預けてくれた、大切な茶葉への感謝を込めて、ここからは僕たちが引き受けるよ」
エルムが優しく微笑む。ベルは呆然と二人を見つめていた。管理局の特級魔導師たちが数人がかりで展開した術式を、指先一つで、それも無詠唱で無力化したエターナ。
そして、ただそこに立っているだけで、会場のすべての魔力の揺らぎを凪にしてしまうエルム。
「エルム。あの中途半端な魔導装置、私がバラバラにしていい? 幾何学回路も見た目のフォルムもお粗末で、見るに耐えない…」
エターナがステージ中央にある黄金の抽出機を忌々しそうに指差した。魔道具マニアの彼女にとって、人を操るために歪められた道具は、存在すること自体が許しがたい、ただのガラクタだった。
「もちろん、どうぞ。それと、ベルさんをお願いします。」
エルムがゆっくりと、さらに一歩前へ出た。
その瞬間、武装した管理局の私兵団十数名が、恐怖を打ち消すような怒号と共に一斉に彼に躍りかかった。百名の招待客たちは、あまりの出来事に息を飲み、その光景を注視している。
「死ね、不審者め!」
だが、エルムは刀を抜くことすらしなかった。
彼が靴底をステージの床に下ろした瞬間。
ズンッ。
物理的な衝撃ではない。だが、会場にいた全員が、自らの精神を直接叩かれるような、回避しようのない圧力に直立するしかなかった。招待客たちの手からクリスタルグラスが滑り落ち、極上の絨毯に琥珀色の液体が染み込んでいく。
「……ひ、がっ……!?」
襲いかかろうとした兵士たちの動きが、完全に止まった。身体の全細胞が『これ以上動けば死ぬ』と本能で絶叫しているのだ。
招待客たちもまた、あまりの圧力に、指一本動かせない。それは魔力による攻撃ですらなかった。ただ、エルムという存在が放つ覇気のみである。
(魔法ですらないじゃん…ただの気合いだけでこの場を制圧したの?)
背後でベルを守りながら、エターナさえも戦慄していた。
「これ以上、罪を重ねるな。…君たちに、お茶を語る資格はない」
エルムの声は低く、慈悲深かった。彼は腰の鞘を、鞘に収めたまま軽く一振りした。
パシィィィィィン!
乾いた音が響くと同時に、兵士たちが持っていた最高級の魔導武器が、まるで内部の結合を解除されたかのように粉々に砕け散り、砂となって床に積もった。
武器を構成する分子間の結合が、エルムの振るった微細な衝撃によって完全に分解されたのだ。管理局が誇る最新の兵装が、ただの塵へと還る光景を、ガストンは声もなく見届けるしかなかった。
「僕の大好きなテ・セレストの信頼を私欲のために悪用する…。 これが君たちの言う『管理』の実体なんだね。吐き気がするよ。エターナ。後片付けをお願いできるかな?」
「いいよ。この薄汚れた領主や管理局のやつら、思想も、作り出した魔道具さえも、あまりにも美しくない…エルムの言う通り片付けが必要だね。全部消しちゃおう。」
エターナが聖木の杖を床に突くと、彼女の周囲で幾何学的な魔法文字が光の環となって旋回を始めた。迎賓館内の偽りの照明が激しく点滅し、ガストンが用意した幻惑の結界が、紙細工のように無残に引き裂かれていく。
「いやいや、エターナさん、後片付けってそういう意味じゃなくて…」
エルムが、勘違いしたエターナを止めようとしたその時、迎賓館のガラス張りの天井が、外側から空間を圧し潰すような圧力によって激しく震えた。
地平線を揺らすような轟音が響き、整然と並んだ漆黒の重装騎兵団が迎賓館を取り囲んだ。その中央には、魔王軍の紋章ですら凌ぐ威厳を放つ、真紅の意匠が施された巨大な馬車が現れた。
「――そこまでだ。これ以上の無粋な真似は、テ・セレストの名において許容できぬ」
その重厚な声と共に、会場に満ちていた緊張が、また別の圧倒的な畏怖によって塗り替えられた。




