第15話 失われた命の循環
翌朝、ラピス・ポートの宿の一室には、ジャスミンとレモンの爽やかな香りが漂っていた。
「昨日のお店で買った『ラピス・メモリー』、やはり美味しいですね。爽やかな香りで、朝にぴったりです。」
ベルが淹れた一杯を口にし、エルムは満足げに頷いた。非の打ち所がない、管理局公認のブレンド。だが、エルムの視線はカップの中の透明な茶水から、窓の外の透明な湖へと向けられた。
その隣で、エターナは昨日古書店で見つけた分厚い地誌を広げ、無造作にページを捲っている。
「……ねえ、ベル。この街の『瑠璃色の屋根』の塗料、何から作られているか知ってる?」
「え? 確か、人工的な魔導顔料だと伺いましたけど……」
「50点。……今はそうなんだけど、300年前までは『湖の泥』を精製して作っていたみたいだよ。……じゃあ、昨日見たあの剥製はどう思った?」
エターナの問いに、ベルは少し考えてから答えた。
「……鋼のような毛並みで、とても強そうでした。でも、剥製にする時に成分が変わったのか、どこか脆そうな気配も感じましたが」
「……流石だね。管理局出身にしては、観察眼がある」
エターナは椅子を浮かせたまま、くるりとベルの方を向いた。その瞳は、何か重大な「欠陥」を見つけた時の学者のように、冷徹で知的な光を宿している。
「ベル。フィアの絵でこの湖が瑠璃色だったのは、正しいと思う。……かつてこの場所には、残酷で完璧な『歯車』が回っていたんだよ。それを、今の管理局が良かれと思って止めてしまった。……エルム、昨日言っていた『足りないもの』の正体、わかったかもしれない」
† † † † †
三人は再び、湖畔の浄化プラントへと向かった。そこでは、ラウルスが不自然なほど背筋を伸ばし、額に汗を浮かべて一行を待ち構えていた。彼は昨夜、ベルの同行者が「あの」第一賢者エターナ・ルミナスであるという報告を受け、一睡もできなかったのだ。
「え、エターナ様……! 本日は、どのようなご用件でしょうか。我ら管理局の施設に、何か不備でも……?」
ラウルスは伝説の賢者を前に、隠しきれない畏怖を抱きながらも、管理者としての義務を果たそうと必死だった。エターナはそんな彼に興味を示すこともなく、聖木の杖を軽く振った。
刹那、何もない空中に、光の線が走り出した。それは魔法による「即興の図解」だったが、エターナはまるでキャンバスに落書きでもするような手軽さで、複雑な術式と生態図を描き込んでいく。
「君、なかなか面白い間違い方をしたね。……少し、解説してあげる」
空中に浮かぶアイアン・ベアの図。
「アイアン・ベア。彼らがなぜ、この湖の周辺にだけ群生していたか、考えたことはある?」
「そ、それは……この辺りの森の生態系の頂点として……。管理局の古い記録にも、危険な害獣として記されています」
「違うよ。彼らはこの湖の『毒ガス』を浴びるために集まっていたんだ。彼らの鋼のような毛並みは、湖から湧き出る特殊な成分を吸収することで維持されていたからね。……でも、面白いことに、ガスを浴びている間だけは、その鉄の毛並みは一時的に『軟化』する。最強の防御力がゼロになる、唯一の瞬間だ。当時の人間は、そのタイミングだけを狙って熊を仕留めていた」
エターナが杖の先で空中の図を叩くと、熊の毛並みが赤く変色し、弱点を示した。
「この街の住人は、仕留めた熊の『骨』を必ず湖に返していた。……君たちの記録には『供養の儀式』として残っているかもしれないけど、魔導学的に言えば、それは『触媒の還元』だよ」
エターナがさらに杖を動かすと、空中の図解がさらに詳細な物質循環の数式へと書き換えられていく。
「ガスを浴びて軟化した熊の体には、湖の成分が超高濃度で蓄積される。その『骨』が湖の成分と反応することで、水中に目に見えないほど微細な結晶……天鏡石の鱗片が生成される。それが太陽の光を散乱させて、あの『瑠璃色』を作っていたんだ。……死と生が循環することで、初めてこの湖は青く輝いていた。……でも君たちは、300年かけて毒ガスを消し、熊を殺し、骨を捨てた」
エターナが空中の図解を杖で払うと、光の循環がプツリと途切れ、灰色に消えた。
「……結果として、君たちは湖から『瑠璃色』を剥ぎ取ったんだ。……これのどこが、サタンの言う『生態系を守れ』への正解なの?」
ラウルスは絶句した。膝が笑い、呼吸が浅くなる。彼自身がこれを作ったわけではない。彼はただ、先人が「正しい」と定義したシステムを維持してきただけだ。だが、その「正しさ」の正体が、解釈の違いから生まれた、歴史ある神秘のサイクルに終止符を打っていたという事実に、打ちのめされていた。
「あ、ああ……。私は、これが街を守るための最善だと教わってきました。しかし……もう熊はいません! ガスも浄化してしまった! 手遅れだ……この街の誇りは、もう戻らないのか……」
「……思考停止だね。絶望する前に、技術者なら頭を使いなさい。代替案を考えなさい。」
「だ、代替案……?」
「アイアン・ベアの代替品なんていくらでもある。例えば、街で消費される家畜の骨。それを特定の粒度に粉砕して、抽出した湖の成分と反応させる『魔導攪拌機』を、その浄化プラントの横に併設すればいい。……毒ガスをそのまま出すのが危ないなら、水中で反応を完結させるクローズドな回路を組みなさい。……今の管理局の技術なら、設計思想さえ正しければ造れるはずだよ」
エターナは空中の光の「落書き」を、一瞬で「新しいプラントの設計思想図」へと書き換えた。
「これをベースに、君たちが自分たちで設計しなさい。……管理局の意地を見せてごらん。」
ラウルスは、空中に浮かぶ輝く設計思想に釘付けになった。それは彼が今まで学んできたどの教科書にも載っていない、けれど完璧に理に適った『未来の循環』だった。
「……できます。これなら、先人の過ちを正し、安全性を保ったまま湖に『色』を戻せる……! エターナ様……! ありがとうございます。まさか、私のような若輩に、これほどの知恵を……」
「……勘違いしないで。私はただ、この画集の中の景色をこの目で見たいと思っただけだから。」
† † † † †
それから数日間、ラピス・ポートの浄化プラントでは、ラウルスを中心とした不眠不休の魔改造作業が始まった。管理局の職員たちは、エターナが空中に残した『光の残像』を必死に書き写し、一睡もせずに装置の組み上げに没頭していた。
エルムとエターナ、そしてベルは、その様子を少し離れた場所から見守っていた。
「……お二人とも。ラウルス君、目が血走っていますね。でも、どこか楽しそうです」
ベルが、泥にまみれて作業する元同僚を見て微笑んだ。
「まあ、彼は彼なりにこの街を、そして自分が守るべきシステムを愛していたんだろうね」
エルムは穏やかに答え、それから隣のエターナを見た。
「エターナ、お疲れ様。……準備は整いそうだね」
「まあね。あとは私の『おまけ』を流し込むだけだよ。……明日には、この透明なだけの水溜りともおさらばかな。」
エターナは聖木の杖を弄びながら、朝日を浴びる湖を見つめた。水面はまだ透明なままだ。だが、その底では、新しく設置された攪拌機が、数百年の時を超えて「骨」と「成分」の再会を準備し始めていた。




