第14話 透明な湖
馬車が石畳を叩く軽快なリズムと共に、一行を待っていたのは、宝石箱をひっくり返したような鮮やかな街並みだった。
「着いたよ。ここが画集にあった、瑠璃色の湖のほとりにある街『ラピス・ポート』だ」
エルムが扉を開けると、爽やかな風と共に、統一された色彩の景観が目に飛び込んできた。街の全ての建物の屋根や窓枠は、深い瑠璃色で統一されている。白壁との対比は眩しく、行き交う人々も身なりが良く、活気に溢れていた。
「わあ……凄く綺麗な街ですね! どこを見ても瑠璃色が溢れてる。まさに『ラピス』の名に相応しい場所です」
ベルが感嘆の声を漏らす。元管理局員の彼女にとって、このように高度な都市計画に基づいて維持された景観は、ある種の理想形に見えた。だが、馬車から降りたエターナは、銀髪を揺らしながら周囲を一度見渡し、それから遠くにある湖へと視線を向けた。
「ねえ、エルム……。あそこ。あれを見てどう思う?」
エターナが指差した先。 そこには、底に沈む小石の形までが数えられるほど透き通った、極めて美しい湖が広がっていた。だが、それはどこまでも味気ない「無色透明」だった。フィアの画集に描かれていた、あの吸い込まれるような、心臓を鷲掴みにするコバルトブルーの輝きは、どこにも見当たらない。
「透明だね……。透き通りすぎていて、まるで大きな水槽みたい」
エルムが穏やかに、けれど不思議そうに呟く。ベルが慌てて画集を広げ、目の前の風景と見比べた。
「たしかに……おかしいですね。画集では、湖そのものが発光しているような瑠璃色です。でも現実は……」
「……この絵と現実。何か噛み合っていないね」
エターナが、レモンピールを噛み砕きながら淡々と、けれど鋭い眼差しで言った。
「光の屈折率も、水質も、今のこの世界では『透明』であることが正解だとされているみたい。……フィアが見ていた景色は、今の私たちの目には映らない波長の中にあるのかもしれない」
† † † † †
三人が最初に向かったのは、街の中央広場に店を構える『テ・セレスト』ラピス・ポート店だった。そこには、この街の景観を模した深い瑠璃色の「限定茶缶」が並んでいた。
「いらっしゃいませ! こちら、当店の限定ブレンド『ラピス・メモリー』です。この街の美しい屋根の色をイメージした、爽やかなジャスミンとレモンの香りが特徴ですよ」
店員が差し出した試飲の茶を、エルムが一口啜る。
「……美味しいね。街の景色にぴったりの、完成された味だ」
エルムが満足げに頷く。ジャスミンの気品ある香りと、レモンの清涼感が完璧なバランスで調和している。ベルもその洗練された味に、旅の疲れが癒やされるのを感じた。
「このお茶の名前にある『メモリー』っていうのは、何を指しているの?」
「ああ、それは古いお伽話ですよ」
店員はにこやかに、窓の外の透明な湖を指差した。
「三百年以上前、この街がまだ小さな村だった頃、あの湖は本当に瑠璃色に輝いていたっていう伝説があるんです。今は透明で美しい湖ですが、せめてお茶の名前だけでも、その伝説の色彩を残そうとした……というわけです。今のこの『透明さ』こそが、管理局が誇る最新の浄化技術の成果ですからね」
三百年。その単語に、エターナの耳がわずかに動いた。
次に向かったのは、街の片隅にある古びた書店だった。エターナは「少し調べたいことがある」と言って、歴史書の棚へと吸い込まれていった。エルムとベルが古書特有の匂いに包まれながら待っていると、彼女が一冊の分厚い地誌を抱えて戻ってきた。
「面白いことが書いてあったよ」
エターナは淡々とした口調で、そのページを開いた。
「三百年以上前、この森には『魔剛熊』っていう凶暴な魔物が、数え切れないほどいたらしい。でも、ある時期を境に、管理局の前身組織が一斉駆除を行った。それとほぼ同時期に、湖の『瑠璃色』が消えた、という記述がある」
「熊と、湖の色? 何か関係があるんでしょうか……」
「さあね。でも、少なくともフィアの絵は、三百年以上前の景色を描いたか……あるいは、何か別のものを見ていたことになる。……今のこの街は、何かを捨ててこの平和を手に入れたのかもしれない。」
† † † † †
夕食時、三人は街で評判のレストランへと入った。入り口には、一体の巨大な剥製が鎮座していた。鋼鉄のように硬い毛並みを持つ魔剛熊だ。
「珍しいですか? そいつはこの街が誇る『平和の象徴』なのです。」
現れたのは、白い制服を完璧に着こなした青年、ラウルスだった。ベルが驚いて声を上げる。
「ラウルス君!? どうしてここに……」
「あ!ベルじゃないか!急に管理局を辞めて旅に出たって聞いたよ。元気そうだね。僕は今、ここの環境管理プロジェクトの責任者をしているんだ。サタン閣下の指示でね、この湖の安全と清潔さを守っているのさ。」
ラウルスは胸を張り、剥製を指差した。
「昔、三百年も前には、こんな怪物が街を襲っていたなんて信じられないだろう?先人が残した記録によれば、当時の住民は常にこの魔物の脅威に晒され、湖から漂う原因不明の毒ガスに苦しんでいたという。まさに暗黒の時代だよね。」
ラウルスは、熱心に解説を続けた。
「だからこそ、管理局は動いたんだ。まずは湖底の成分を徹底的に分析し、毒ガスの原因となっていた不規則な魔力共鳴を中和した。さらに、生態系のバランスを著しく損なっていたこのアイアン・ベアを計画的に排除したんだ。彼らが絶滅したことで、森の草食動物は増え、人間は夜でも外を歩けるようになった。これこそが閣下の望まれた『秩序ある自然』の姿だよ」
ラウルスの笑顔は、一点の曇りもない「正義」に満ちていた。彼は窓の外の湖畔を指差し、さらに得意げに語る。
「浄化施設が稼働して以来、水質は不純物ゼロの数値を維持している。キャンプに来る旅人たちも、『こんなに透明な水は見たことがない』と喜んでくれる。観光資源としても、安全性としても、今のこの『透明な湖』は完璧なんだ。昔の伝説にあるような、毒々しい瑠璃色のガスが立ち込めていた頃とは比べものにならないほど、豊かでクリーンな環境だよ」
かつてのベルなら、手放しで賞賛したであろう「理想の管理」の形がそこにはあった。
「お湯を沸かそうか、ベル。エターナ、君の調べた『三百年』と、この剥製……何かが、繋がっている気がするね。」
エルムは穏やかに微笑みながらも、その瞳はラウルスの誇る「透明な景色」の奥にある、何層にも重なった歴史の澱みを見抜いているようだった。
「フィアが何を信じてあの筆を動かしたのか……。そして、この世界が『クリーン』という言葉の裏で何を忘れてしまったのか。……確かめてみる価値はありそうだね。」
エターナは最後の一粒のレモンピールを噛み砕き、推理小説を楽しむかのような、透明な湖に隠された何かを見据えるように呟いた。




