第14話
夕食の後、10冊ほどの絵本を抱えた美沙が書斎へやって来て、
「発声リハビリのやり方について色々考えたんだけど…、絵本を読み聞かせるなんてどうかしら?」と遠慮がちに切り出した。
それは鳴き声翻訳機を通じて絵本を読み聞かせるというもので、登場するキャラクターの感情を表現しようとすれば複雑な発声が出来るようになるという美沙の考えから生まれたものだった。
隆はリハビリについて真剣に考えてくれた事を心の底から感謝し、
「あぁりがぁとぉう、こぉんなぁに考えてぇいてぇくれたぁなんてぇ…」人間だったら涙が出ていただろうと思いながら美沙の足にすり寄ってお礼を言った。
「いいの、これは私の役目なんだから。明日からリハビリ頑張ってね!」美沙は両手で隆の前足を持って優しく告げた。
隆は美沙が造ってくれたアスレチックコースで毎日頑張った。
始めた頃はまだ運動能力が低かった為、足を踏み外して床に落ちたり体力がなくてすぐにバテてしまったが、ひと月ほど経つと50周しても息が上がらなくなった。
そして、2ヶ月が過ぎる頃にはネコの鳴き方と身のこなしの両方をほぼ完璧に習得した。
「2ヶ月間、美沙が毎日リハビリを手伝ってくれたお陰ですっかりネコらしくなれたよ。これまで本当にありがとう」午前のリハビリを終えた隆が最初の頃とは違う正確な発声で礼を言った。
「このアスレチックじゃもう、チビちゃんには簡単すぎるわね。発声の方も翻訳機からは正しい言葉しか出てこないし、読み聞かせだって感情が表現出来ているわ…」美沙は隆の背中をゆっくり撫でながら、「もうリハビリをやる必要はないわ。よく頑張ったわね、チビちゃん…」自分の助けが不要になったと実感して寂しそうに下を向く。
美沙を喜ばせようとして言った隆は反対にがっかりさせてしまったと気付き、
「ネコだって太り過ぎは良くないから、健康を維持する為にアスレチックはずっと必要だよ」と慌てて付け加えた。
「そう…」俯いたままの美沙から元気のない返事が返ってきて、
「それより、毎日の食料調達は大丈夫? 大変じゃない?」隆は話題を変えることにした。
「食糧危機がさらに悪化していると、新聞で読んで気になっているんだ」先日読んだ記事を思い出しながら伝える。
「うん、今はまだ何とかなっているわ…」美沙は普通に答えたつもりだったが隆は違和感を持ち、
「ネコ缶の入手が困難なら僕は残飯でもイイ…」そう言おうとしたが、
「いいの! チビちゃんの分はなんとかするわ!! 私のわがままでこうなったんだもの…」涙目になりながら途中で言葉を遮るのでその話しは終わりにした。
夕食後、いつものように一眠りしようと書斎の椅子で丸まったが、普段なら耳に響いてくる筈の食器を洗う音が聞こえてこないせいか、隆はなかなか寝付けずにいた。
食料調達について訊ねた時の美沙の答えに違和感を持ったことも手伝い、何をしているのか気になり出した隆はトイレに行く振りをして様子を見に行くことにする。
背中を見せ、リビングのパソコンに向かっていた美沙が気配を感じて振り返った。
急いで椅子から立ち上がると、
「チビちゃん、やったわ! 選ばれたの。受賞したのよ!!」隆を両手で高く抱き上げて大きな声で告げ、「良かった! これでしばらくは心配しなくてイイのよ。チビちゃん!」とすごく嬉しそうにしている。
「ど、どうしたんだい。何を受賞したんだ?」隆が聞いても、「ニ、ニャオーン。ニャオニャーオ」としか耳に響かないので鳴き声翻訳機がオフになっているようだ。
「あ、ごめん」美沙はそう言ってすぐにスイッチを入れたが隆が何か言う前に再び高く抱き上げ、「賞品で~、貰えるのよ~、ネコ缶1年分なのよ~」と節を付けて歌いながらクルクルと踊るように回り始める。
その後、隆を顔の前まで降ろして見詰め、
「ネコちゃんのポエムで賞をもらって、その賞品がネコ缶1年分なの!」「しかもチビちゃんが好きな、キャットヤミー3種類の詰め合わせよ!!」と発声リハビリの早口言葉みたいに一気に話した。
「ポエムって?」目を丸くしながら訊いても、今度は胸にギュッと抱いた隆に頬ずりを始めてしまい、何も答えてくれない。
その後も頭にキスをしたり背中を撫でたり、お腹に顔を埋めたりして無茶苦茶に隆をいじってからようやく落ち着いて、
「キャットヤミーを製造しているのは『やなせフーズ』っていう会社なんだけど、そこが先月ネコのポエムを募集していたのよ。ネコたちへ送る手紙を書いて応募してみたら、賞をもらったの!」詳しく説明した後、「賞品がなかなか手に入らないネコ缶だと知って私、思いっきり頑張っちゃった…」と美沙は照れくさそうに舌を出した。
「なかなか手に入らないのか…、ネコ缶を入手するのは大変なんだね…」隆は早くネコの生活に慣れようと一生懸命になるあまり、その苦労に気付けなかった自分を責めた。
結婚前はフリーのポエム作家として活躍していたのでその受賞も当然に思えたが、
「あら、もうこんな時間。お風呂に入らなくちゃ…」美沙は照れ臭そうにそそくさと何処かへ行ってしまった。
そのまま残されたパソコンの画面には『優秀賞』の文字が添えられた斎藤美沙の名前と受賞作のポエムがあった。
* * * * * * * * * * * * * *
『猫たちへの手紙』
猫たちに囲まれて私はとても幸せ。
でも、あなたたちはどう思っているの?
野良でいれば味わえるはずの、
土の地面に寝転がる心地良さも知らず、
屋根の上で草を揺らす風の音を聴くこともない。
清らかな川の淵に野良猫たちと並び、
乾いた喉を潤すこともなく、
雑草の陰に隠れて昆虫を追いかけることもない。
何がしたいかよく分かっているのに、
外は危険だからと家に閉じ込めてしまうの。
注射なんて大嫌いと知っているのに、
心配だからと病院へ連れて行ってしまうの。
その償いとして精一杯の愛情を捧げるから、
どうかわがままな私を許して…。
* * * * * * * * * * * * * *
そのポエムはネコに変身した隆への複雑な想いそのものに見えた。
ネコへ変身してから美沙が自責の念のようなものを心の内に抱き始めたと感じてはいたが、たった今それが何だったのか判った気がした。
それは隆に変身することを望み、2人の人生の続きを手に入れてみて初めて自分がどんなに残酷なことをしたのか気付いてしまった、美沙の後悔のようなものだった。
ネコの姿になった自分を見る度にその罪の重さを感じて心を傷めているのだと知った隆は、心が激しく動揺して書斎の椅子の上で丸くなるしかなかった。
人間の脳がそうさせるのか、隆には以前と同じように感情がある。
心を大きく揺さぶられて泣きたい時が今まで何度もあったが、実際に涙が出る事はなく、そのせいで心の動揺を収められずに体力を激しく消耗してしまうのだった。
人間が感情を表現する手段だとしか思っていなかった『泣く』という行為が、実は心と身体が疲弊してしまうのを防ぐ反応だったのだと隆はネコになって初めて知った。
その感情がある限りネコとして生きて行くのは難しいとわかったが、それなしで美沙の心の内を理解できる筈がないとも思え、隆はどうすれば良いのかわからなかった。
前足で頭を抱えるようにして丸まり、心の動揺に耐えていると、
「寝てるの、チビちゃん?」お風呂から出た美沙が書斎にやって来て声を掛けた。
泣くことが出来ず、心が激しく揺れ動く苦しみにひたすら耐えていた隆は、飛び起きて美沙の胸に飛び込んだ。
「どうしたのチビちゃん、寂しかったの?」美沙はそう言うと隆を抱き上げ、その額にぎゅっと顔を押し付けるようにキスをする。
ゴロゴロと隆の喉が自然に鳴り始め、気付けば自分の顔を美沙の頬に何度も強くこすりつけていた。
そのままリビングまで抱かれて行きソファの上で身体や頭をたっぷり撫でてもらい、ついでにブラッシングまでしてもらうと先程感じた悲しい気持ちはすっかり消え失せた。
隆の背中をやさしく撫でながら、
「ねぇチビちゃん。さっきのポエムの話なんだけど、来月授賞式があるの。行ってもいいかな…?」と美沙が遠慮がちに訊ねる。
受賞の晴れ舞台に立たせてやりたかった隆は
「僕はおとなしく留守番してるから、心配せずに行っておいでよ」すぐにそう返事をして、「さっきは言いそびれてしまったけど…、受賞おめでとう。僕も心から嬉しいよ」と自分の素直な気持ちを伝えた。




