第63章 宮廷が動く
権威には権威で。修道院と仲良くしておいて本当に良かった。
総督府の生体実験室に移送された牛と豚は、医師たちによって徹底的に調査された。そして驚くべき所見が提出された。心臓死ではないが脳死である。脳は完全に機能を停止しているので死体であるが、心臓とその他の臓器は動いていて呼吸も運動も可能だと。この検査は、不死(undead)の状態が医師たちによって観測された初めての事例となった。一方、拘束されたヴァンパイアの処置については、ことがことだけに総督府だけの判断で決定できるものではなく、ウィーンの王宮の指示を待つということになった。処置が決定するまでは、暫定的に厳重な拘束を施した上で、シュピールベルク要塞に収容されることになった。
シュピールベルク要塞は、その過酷な環境と処罰の厳しさから、「地獄の牢獄」といった異名で知られていた。まさに、「一度入ったら二度と出られない牢獄」だったのである。だがこの決定にフロムバルトは徹底的に抵抗した。従来の政治犯に対する処遇でこの未知なる異質の存在に対応するのはあまりにも無謀で的外れだと思えたからである。たとえ要塞の指揮官や看守たちに事情が説明され、収容所内に特別な警戒態勢が敷かれたとしても、この未知の怪物の行動はあまりにも予測不可能であり、完璧な対処は不可能だと思われた。最悪の事態、たとえばこの地獄の牢獄全体が魔物の手に落ち、魔王城に、悪魔のダンジョンになってしまったらどうするのか。
「ウィーンは一体何を考えている!?」フロムバルトは苛立っていた。「臆病で泥縄な保守主義が事態を最悪なものにする。現場を見ていないからこのような決定を下す。」
「牛や豚、いやそれ以上に徹底的にあの魔物にメスを入れませんと。」フリュッキンガーも焦りを隠さない。
フロムバルトの声は執務室に響き渡り、他の者たちもその怒りに黙って耳を傾けた。その焦燥感は、現場で積み重なる問題の深刻さを痛感している者たちの間で共有されていた。
「現場の実態を完全に理解せずにウィーンが決定を下すなら、それは災厄を座して待つのと同じだ。書簡だけでは伝わらない状況をどうすれば彼らに知らせることができる?」
「ならば、ウィーンから責任者を招くことにしましょう。」フリュッキンガーが提案する。
「その目で見て、その五感で感じて、これがどのような事件なのか知ってもらいましょう。」
「ならば、ハイリゲンクロイツの聖職者の方々に相談するというのは?」カイアが発案した。
「聖職者からの発議ならばウィーンも動くかもしれません。」
「それは良い考えだが、どうやって連絡する。修道院は遠いぞ。」
「ここから鳩でブダペストまで書簡を飛ばし、ブダペストからウィーンまでさらに鳩で書簡を飛ばします。ウィーンにいる協力者が書簡を修道院まで届けてくれます。3日もあれば修道院から王宮に使者が駆けつけるでしょう。」
「何と、そんな通信網を構築していたのか。」フロムバルトが少し不審に思った。
「私たち、“鳩の友“という伝書鳩愛好会なんです。」カイアは取り繕った。
「伝書鳩やってて良かった~!」ミネルネがユニゾンでフォローする。
フロムバルトは懐疑心が一瞬表情を曇らせたが、すぐに口元をほころばせた。強化蜘蛛糸といい聖餅といい次々に奥の手を繰り出せるカイアたちが頼もしくてしかたがない。
カイアは聖餅を融通してくれた村の教会に行って事態を説明し、ハイリゲンクロイツ修道院へ送る書簡に口添えの一筆をお願いした。カトリック教会のネットワークを頼れば話は早くなる。カトリック教会と啓蒙主義の科学、必ずしも仲が良いとは思えないこの2つの勢力が、手を取り合って未知の災厄に立ち向かうときが来たのだ。
「これは手をこまねいて傍観できる事案ではないと思われます。」ハイリゲンクロイツ修道院の院長ヴァルタザール・グロックナーは宮廷侍医総監ゲラルト・スヴェーテンに迫った。そして鞄から2冊の書物を取り出した。「これは尊父ドン・オーギュスタン・カルメの『ハンガリー、ボヘミア、モラビア、シレジアのルヴナンとヴァンパイアについての論考』とアッシンディウム・ギムナジウムの学監ヨハン・ハインリヒ・ツォプフの『セルビアのヴァンパイアに関する論述』です。いずれも哲学的および神学的に真剣にヴァンパイア問題に取り組んだ書物です。こうした権威ある学匠によって書かれた書物は、かの魔物の実在を前提としております。セルビアの地にいる我が修道会の友人たちがこの魔物との遭遇および対決について詳細な報告を送ってくれました。そして、ウィーンの宮廷から誰かこの問題について現地で判断できる人物を派遣してほしいと願ったのです。」
天下のハイリゲンクロイツ修道院が権威ある書物を二冊も持ち出してセルビアからの要請を受け入れるように促してきたので、宮廷も放置するわけには行かなくなった。この責任を果たすべき適任者といえば宮廷侍医総監ゲラルト・スヴェーテンをおいてほかにはいない。
「わかりました。私自身が赴きましょう。」
ついに大物が動く。ちなみにこのゲラルト・スヴェーテンという人も実在した人物です。ヴァン・ヘルシングのモデルとされています。




