第六十三話 『迷走』
ヒカルはマンションに帰り、良から渡されたメンズファッション誌を読んだ。ヒカルが今までほとんど興味を抱いてこなかったファッション。しかし、それは恋愛とは密接不可分の関係なのだ。だから、嫌でも身につけるしかない。
ヒカルはページをめくり、自分に似合いそうな服はないかと考えたが、今ひとつピンとくるものがなかった。デートの日まで、もう日にちがない。挙句には、良から予行練習の話まで出されている。それまでに、少しでもスキルとして身につけておかねばならない。
ヒカルは焦燥感に駆られながらも、只管に考え込んでいた。一通り読み終わった後、立ち上がってクローゼットのところへ行き、扉を開けた。すると、ずらっと並んだ服が目に入る。中は、ヒカルの洋服とヒカリの洋服で二分割されている。ヒカルは自分の服だけを取り出すと、ソファーの上に並べてみた。
色褪せたジーパンが二、三枚。服はポロシャツやチェック柄のものが多い。改めて見ると、非常にダサいコーディネートばかり揃っていた。それらを眺めていると、ヒカルは思わず苦笑してしまった。良が言ったことも、今となってはわかる気がする。
しかし、どうしてもヒカルには自分のセンスに自信が持てなかった。それもそのはず、部屋にある服を見ればセンスがないことが一目瞭然なのだから。どのような服が、女性に受けるのだろうか。ヒカルはもう一度、ファッション雑誌を開いては考えていた。
だが、考えれば考えるほど頭の中が混乱してわからなくなっていく。まるで、出口のない迷宮の中を当てもなく彷徨っているようだった。時間が経てば経つほど、ヒカルの思考は迷走していってしまう。何か良い方法はないものだろうか。
すると、ふとある考えに辿り着いた。誰か、近くに相談に乗ってくれそうな人はいないものだろうか。男性のことをよく知っており、かつ女性の視点から話が出来る人物……。ヒカルは、そのような人物を一人知っていた。真理子だ。
真理子は性同一障害。体は男、心は女なのだ。彼女もヒカルと同じ夢現法人ハピネスの被験者として、異世界線に行って女性の身体を手に入れていた。しかし、こちらの世界線に来ていたもう一つの魂の性別が女だとわかり、戻って来たのだった。ヒカルも、真理子の気持ちはよく察しているつもりでいた。どれほど悩んだのかと思うと、心が痛む。
それでも、今はどうしても真理子の力が必要なのだ。彼女も、精神的にだいぶ回復していることだろう。ヒカリが熱を出した時、病院で会ったが、思ったよりも元気そうな印象であった。
早速、ヒカルはインターネットで「品川病院」と検索し、真理子が院長をしている内科の閉院時間を調べた。その結果、平日は午後八時であるとわかった。その時間帯であれば、商店街にある洋服店も開いている。もしも閉まっていたら、最悪ショッピングモールの方へ行けば良い。
ヒカルは良に、真理子のメールアドレスを知っているかと確認をとると、すぐに送ってきてくれた。それを自分の携帯で打ち込み、真理子にメールを送った。事情もすべて話した。ヒカリとのデートのために力を貸してほしい、と。
一時間後、真理子からの返信が来た。OK、という旨の内容にヒカルは飛び上がるほど喜んだ。正直、返信すらも来ないのではないかと危惧していたのだ。病院で働いていると多忙につき、携帯を開く暇すらないのはヒカルも知っている。それ故に、返ってきたこと自体が嬉しかったのだ。
ヒカルも更に返信し、八時にそちらへ行くとだけ伝えた。その頃にはヒカリが帰宅するため、もしかしたら入れ違いになるかもしれない。ヒカリにも念のため、出かけることをメールで教えることにした。しかし、真理子に会いにいくとは伝えにくかった。ヒカリには、ファッションを研究していることはあまり知られたくない。デート当日に、センスを磨いた成果を見せて驚かせたいのだ。そのため、「レストランのオーナーから電話が来て、人手が足りないから急遽シフトを入れることになった」という嘘を吐いた。そのことに対しては多少の罪悪感もあったが、やはり本当のことは言えなかった。
八時前になっても、ヒカリは帰って来なかった。仕方なく、ヒカルは部屋を出ることにした。鍵をかけ、早足で真理子の病院へと向かう。向かい風を受けながら、ヒカルは足を進めた。自分から用事を作らせたのだから、真理子のためにコーヒーでも買ってこようか、という考えが浮かんだ時、前方から声がかかった。
「真宮君?」
頬に直接風が当たらないよう、俯きながら歩いていたヒカルは、その声に反応して顔を上げる。目の前には、真理子……品川零の姿があった。
「あ……こんばんは」
「こ、こんばんは」
真理子は、少し緊張しているようだ。この世界のヒカルと話すのは、実質これが初めてだった。あの時は、ヒカリのことで手が一杯であったため、ちゃんと話すことが出来なかったのだ。
「今日は……、一人なんだね」
男性姿の真理子は言う。羽織っているのは白衣ではなく、ベージュのコートであった。言葉遣いも出来るだけ男性に近づけて喋っているようだが、それでも少しの違和感がある。
「じゃ、行こうか。おすすめのお店があるんだ」
「……はい」
ヒカルも、真理子の声に合わせて頷く。やはり、真理子は女性の好みを知っているのだと安堵した。
真理子に連れてこられたのは、洋服の専門店であった。洒落たデザインの冬物の服が店頭に並び、季節感を醸出している。
「いらっしゃいませー!」
女性の店員が、笑顔で二人を迎えてくれた。それを見るとヒカルは、ふとメイドカフェでバイトをしていた時のことを思い出した。裏の世界線で女として生きていた時、そこで女性姿の真理子と知り合ったのだ。あの頃の真理子は、毎日が本当に楽しそうだった。
「何かお探しですか?」
店員がきいてくるので、真理子がヒカルの肩に手を置いて言った。
「彼に似合うお勧めの服を教えていただけませんか」
その瞬間、ヒカルは全身痒みに襲われたような感覚になった。店員は一瞬、少し不思議そうな顔をしたが、笑顔で「畏まりました」と答え、服を取りにいった。
待っている間、真理子がこんな話をしてくれた。
「私、いつもこの店に買いに来てるんだ。季節物の服も充実しているし、店員の人も優しくしてくれるから」
「そうなんですか……」
ヒカルはどう返して良いかわからず、それだけ答えた。しかし真理子は、笑顔を貫いている。その時、真理子は本当に強いのだと実感した。重い障害があるにも拘わらず、笑っていられるのだから。見習わなければならないところがいくつもある、とヒカルは感じてしまった。これからは、真理子を少し手本にしてみようとすら思うのであった。
しばらくして、店員が洋服のかかったハンガーをいくつか手にして戻って来た。それらを二人見せ、洋服の説明をしてくれた。ヒカルは、その中から数枚を選ぶと試着してみた。店員や真理子からの意見を聞きながら、どれを買うか悩んだ。どれが、よりヒカリの心をつかめるのだろうか。
そして、一番気に入ったものを購入した。それは店員も「お勧めの商品です」と言い、真理子からも褒められた。次にズボンのコーナーに行き、そこでも真理子の意見を聞いた。そして、上の服に合う色のものを購入することにした。ヒカルが改めて全身試着してみると、自分でも見違えるほどになっていた。
これならば、ヒカリも気に入ってくれるはずだ、とヒカルも自信を持つことに成功した。真理子とともに店を出ると、妙に心が軽くなったような気分になった。
「今日は、遅くまでありがとうございました」
礼を言うと、真理子は少し照れ笑った。
「いいよ。気に入ってもらえて良かった。これでデートはバッチリだね!」
改めてのその言葉を聞くと、ヒカルは恥ずかしくなった。異性とのデートは、ヒカルにとって初めてのことなのだ。それ故に、少し不安もある。だが、それだけに必ず成功させたいという気持ちも強かった。
「真理子さんのおかげで、助かりました。それに、なんか安心出来ました」
「安心……?」
「あれから、どうしたんだろうってずっと気になってたんです。でも、思ったよりも楽しそうだったので良かったなって」
その言葉を聞いた真理子は、また嬉しそうな表情になる。歳は三十歳ほどだが、子供のように目を輝かせている。
「ありがとう。君も、頑張ってね」
「はい」
真理子はヒカルに手を振ると、そのまま帰っていった。ちゃんと話せて良かった。これも、もしかしたら良のおかげなのかもしれないとヒカルは思った。良がファッションの話をしてこなければ、真理子と会うこともなかったかもしれない。そのきっかけをくれた良には、感謝すべきだろう。ヒカルは帰る途中、心の中で礼を言った。
帰宅すると、すでにヒカリが帰ってきていた。リビングからヒカリが心配そうな表情で出てくると、
「ヒカ君、今日バイトだったの?」
と、尋ねてきた。
「うん……、まあな。そうだ、飯は食ったか?」
ヒカルがそうきき返すと、ヒカリは頷いた。
「ヒカ君は?」
「あぁ、さっき食ってきたよ」
ヒカルは部屋に上がると、鞄を置いてソファーに座り込んだ。洋服は気づかれないように、鞄の中に入れてあるのだ。
すると、ヒカリも隣に座った。そして、ヒカルの方へ身体を傾ける。その瞬間、ヒカルの心はまたドキッとする。しかし、それもすぐに治まった。ヒカルはヒカリの手を握ると、彼女に声をかける。
「なあ、ヒカリ」
「何?」
「俺、今度のデートすげー頑張るから。だから……その……、期待しててくれよ」
「……うん!」
ヒカリは笑ってくれた。ヒカルも安心し、またヒカリを抱いた。彼女も、甘えるようにすり寄ってくる。まさに至福の時であった。疲労さえも、彼女を抱くことによって癒しへと変わる。ヒカルにとって、それは良薬よりも良薬だったのだ。
必ず、彼女を幸せにする。その目標が、また一段と強さを増した瞬間でもあった。




