第六十二話 『接吻』
リア充……、リア充……。
ヒカルは、改めてその言葉の意味を調べてみた。隣には、ヒカリがすやすやと寝息を立て寝ている。パソコンの画面には、このようなことが書かれていた。
『リア充、それは他人から羨まれる存在。リア充かどうかを決めるのは自分自身ではなく、他人なのである。他人が羨ましいと思えば、それは立派なリア充なのだ』
これが、最近の一般的な見解であると言えよう。ヒカルはパソコンの画面を消し、目を閉じて熟考した。
(俺は今、リア充なのだろうか―――)
そうであってほしい、それがヒカルの今の気持ちだった。
あの時、ヒカリに「自分たちはリア充なのか」と問われた際、ヒカルは何も答えられなかった。ずっと手に入れたかった称号、それ即ち『リア充』であった。リア充になれば、優越感に浸り、恋人ナシのぼっち人間から妬まれる。
しかしリアル、即ち現実が充実していれば誰でもリア充になれるというわけではない。前述したが、リア充かどうかを決めるのはあくまで他人である。つまり、現状に満足していて、自分の生活が充実していると自負していようがいまいが、恋人がいなければリア充にはなり得ないのである。
恋人がいるかいないかが、リア充と非リア充の大きな違いである。それでは、ヒカルの場合を考えてみよう。ヒカルは、確かにヒカリと現在つき合っている。だが、経緯を思い返せば普通ではない。
ヒカリは、別の世界線のヒカルなのだ。性別は違うが、生まれた世界線が違う同一人物。
ヒカルにとって、それは厄介な問題だったのかもしれない。ヒカルは、いつかヒカリが元の世界線に帰れる日が来ると信じている。それを見越した上で、つき合い始めたのだ。だから、いつかは別れが来るだろう。そう思うと、ヒカルは神妙な気持ちになった。
一方、ヒカリの方はどう思っているのだろうか。彼女も、やがてヒカルとの別れが来ることを予想しているのだろうか。それとも、ずっとこの世界線に留まるつもりなのだろうか。今のヒカルには、どちらなのかわかり兼ねた。彼女自身にきけば良いとも思ったが、恐ろしくてきけずにいる。
ヒカリは、これからどうするつもりなのだろう。ヒカルは、目の前で幸せそうに眠っている彼女の寝顔を見て思う。その時、黒岩が言っていたことを思い出した。
ヒカルはプロジェクトの被験者であるため、幸せになってくれなければ困るのだと、黒岩はそう言っていた。そうでなければ、例のプロジェクトは失敗に終わる。黒岩も紅も、それを危惧しているのだろう。自分は今、幸せなのだろうか。そう、ヒカルは考えてみたがよくわからない。確かに、ヒカリといる時間だけは色々な嫌なことを忘れられる。ただ、それと同時に不思議な心地もするのだ。これは、果たして幸せだと言えるだろうか。仮に自分が今、「幸せかどうか」を問われた際、何と答えたら良いのか見当もつかない。しかし、こればかりは自分で答えを導き出さなければならない。答えを出せるのは、ヒカル自身でないといけないのだから。
「ヒカ君、まだ起きてるの……?」
不意に、ヒカリの声が聞こえた。見ると、ヒカリが横になったままヒカルだけをじっと見つめてきている。
「あぁ、悪い。起こしっちゃったかな」
ヒカルが言うと、彼女は身体を起こした。そして、そっとヒカルの手を握る。慣れてきたのか、最近は不意に手を握られてもドキドキしなくなった。その時、ヒカルは彼女と目が合った。その瞬間、ヒカルの動悸は急激に速くなる。ヒカリの顔は、少しだけ寂しそうにも見えた。それを見た時、ヒカルは反射的に何か声をかけようと思った。
その時に、出た言葉がこれだった。
「ごめんな……」
「どうして謝るの……?」
ヒカリは、真面目な顔をして尋ねる。ヒカル自身も、何故謝ったのかわからなかった。ただ、自分が彼女の心を不安定にさせているのではないかという気がしたのだ。
「なんか……、毎日、余計な心配かけてるからさ。お前も、本当は帰りたいんだろ? 元の世界に。俺は、その試練を全うする。いや……、させてくれ」
彼女は、何も答えなかった。やはり、彼女の中にもその気持ちはあったということなのだろうか。表情が雲って見えたのも、それが原因だったのかもしれない。ヒカルはヒカリを安心させるため、彼女を自分の肩へ抱き寄せようとした。
……その時、予想もしていなかったことが起こる。それはヒカルにとって事件ともいえる、人生で初めて体験する出来事であった。
ヒカリが突然、唇をヒカルの唇に合わせてきたのだ。ヒカルは頭の中が真白になり、何をしているのかさえもわからないほどだった。まるで時間が静止したかのように、部屋の中はまるで無音の世界に感じられた。
ヒカルの動悸は、ますます加速する。このまま心臓発作を起こしてしまうのではないかと疑うくらい、はっきりと心臓の音が聞こえた。ヒカリの手は、しっかりとヒカルの両肩に置かれている。そして彼女の柔らかい唇が、ヒカルの心を魅了していた。あまりの出来事に気を失いそうになるのを、ヒカルは必死に堪えた。
彼女が身体を離すと、俯きながら言った。
「ごめんね……」
顔を赤く染めて、羞恥心に苛まれたような顔をしている。ヒカルも、声をかけるべきかどうか逡巡した。
「いや、なんていうか、その……」
「好きだから……」
ヒカリの声が、ヒカルの言葉を遮った。彼女は顔を上げると、さらに言葉を繋げた。
「大好きだから! それだけは、わかってほしくて。好きなの、ヒカ君」
「ヒカリ……」
ヒカルも、徐々に平静を取り戻していた。彼女の気持ちを、受け止めなければならない。そう思ってまた、彼女を強く抱きしめる。
「……俺もだ」
ヒカルから出たその一言は、本音そのものであった。今まで考えていたことが、とても小さなことのように思える。この時のヒカルには、彼女と一緒にいられること以外もはやどうでも良かったのかもしれない。
「ありがとう……」
ヒカルは、いつの間にか自分の肩が濡れていることに気づいた。彼女の目から零れ落ちた大粒の涙が、ヒカルの肩を濡らしていたのだ。
これ以上、彼女を苦しめない。何があっても、最後まで守り抜く。ヒカルが、そう心に決めた瞬間であった。
翌日、ヒカルは良と会った。珍しく、ヒカルから良に連絡したのだ。それが意外だったらしく、良は初め驚きながら、どういう風の吹き回しかという反応を示していたが、結局会ってくれた。ヒカルが良に電話した理由は、一つだけである。
「な、何? お前、今なんつった? キスしただとおおおお!?」
喫茶店の中に、良の声が響く。ヒカルは焦りながら、口許で人差し指を立てる。半立ちになっていた良もそれを見て、座り直した。
「いやあ、悪い悪い」
笑いながら、足を組んでいる。その店には幸い、ヒカルと良の二人だけしか客がおらず、従業員がたった一人いるだけで、その従業員もレジで二人には目もくれず、売上金の勘定を行っている。その様子を見ると、ヒカルはホッと胸を撫で下ろす。
「それにしても、まさかたった一ヶ月ちょっとでキスまでいくとはなあ……」
良は腕を組みながら、大袈裟に感心している。それはいかにもわざとらしく、冷かしているようにも思えたが、ヒカルは軽く無視して流した。
「んで、なんで俺に言おうと思ったんだよ」
「あ、いや。理由がまだよくわからないんだよ。好きだって言ってくれたけど、あいつが何を思って俺にキスしてきたのか……」
「そりゃあ、やっぱりお前のことが好きで好きでたまらなかったんじゃね?」
「けど、いきなりするかなあとも思うんだよな……」
ヒカルは首を傾げる。しかし、それを良にきいたところで返ってくる言葉は大体予想がついたのだが、一応相談してみることにしたのだ。
「それはお前の考えすぎだと思うぜ。第一、キスに正当な理由なんてあるのか? 俺は好きな相手になら、つき合ってなくてもするがな」
「変態かよ!」
「まあ、今のは冗談だけどな。じゃあ、彼女に直接きけばいいじゃん」
「きけるかよ」
やはり、良に相談するのは間違いだったとヒカルは深く落胆する。
「んで、どうだった? キスされた瞬間」
不意に、良が話を掘り下げてきた。ヒカルは動揺を抑え、出来るだけ平静を装いながら答えた。
「なんていうか……。時間が止まったような……」
「お、ドラマやラブソングでよくあるフレーズだな!」
「うるせーよ」
「で、で、他にどうだったんだよ?」
何故か、良は興味津々に食い下がってくる。
「どうって……、なんせ初めてだったから、どうしていいかわからなくて。つまり、変な気分だったよ。嬉しいって気持ちもあったけど、戸惑いの方も強かったから……」
「ちぇっ。なんだよ、抽象的だなあ。もっと具体的なことが聞きたかったのによう。そんなら、俺が今からお前にチューしてやろうか?」
「断る! 気持ち悪い!」
「まあ、そんなカッカすんなって。冗談だから」
「お前が言うと本気に聞こえるからやめろ」
「はいはい」
ヒカルにとって、良の態度は意外であった。まだリア充駆逐隊の頃の印象が強いせいで、嫌味を長々と聞かされるものとばかり思っていた。それ故に、相談して良かったと少しは思うのである。
「そうだ。今度のデート、どうするんだ?」
良がまた、唐突に話題転換してきた。
「どうって……、普通に映画見て、食事して帰るだけだけど」
「なんだよ、つまんねーの。せっかくつき合ってるんだし、もっと自分を磨けよ。デート用に新しい服を買いにいくとか、色々あるだろ」
(お前にだけは言われたくないんだけど……)
ヒカルは思ったが、敢えて口には出さなかった。確かに良の言う通り、そんな気もしたからだ。ヒカルは彼女とのデートに、既存の服を着ていこうとしていた。しかし、それではあまりにも残念だと、良に言われて初めて気がつく。デートらしくするためには、まずこれまでの自分を変えてみようと考えた。
「そうだ、こんなのあるぞ」
良は自分の鞄から、何かを取り出している。良が出してきたのは、メンズファッションの専門誌であった。それをヒカルに見せながら、
「実は俺も最近、こういうの見て研究してるんだよ。顔が悪くても、ファッションセンスがあるやつはモテやすいからな」
と、熱く語る良。ヒカルも、雑誌のページをめくる。確かに、中にはたくさんの洋服が紹介されている。ヒカルは、これまであまりファッションには興味を抱いてこなかった。それもまた、ヒカルに彼女ができなかった一因でもあったのだが。
「まあ、見た目は気にしなくても、お前なら顔は割と冗談抜きで上位の方に入るんじゃないかな。あとは、やっぱファッションだよなー」
また良が言う。ヒカルはこれまでに、「顔はそこそこいい」と友人などから何度か言われたことがある。それを聞く度、ヒカルの心にグサッと何かが刺さった。
「じゃあ、しばらくこれ貸しとくからさ、お前なりに研究してみろよ。そうだ、デートの予行練習とかしてみない? いきなり奇抜なファッション見せられたら、彼女だって卒倒するかもだからさ」
まるで、ファッションのセンスが皆無だと揶揄しているような良の言種が、ヒカルは癇に障ったが、やはり良の言う通りだとも思えた。そして、良の言うように、ヒカルは自分なりに研究してみて、自身のファッションセンスを磨くことにした。ヒカリとの初デートを、成功させるためにも。




