第四十四話 『帰還』
部屋には、黒岩一人だった。
「やっと決心がつきましたか。では、こちらに」
黒岩は、世界線を入れ替えるための機械を指し示した。それは、まるでヒカルが来るのを待っていたように置かれてある。ヒカルは最後に、本当にこれで良いのだと自分に言い聞かせ、その機械の側に行った。
ヒカルはそれに腰かけようとすると、また黒岩に呼びかけられた。
「お待ちください。これで、本当に良いのですね?」
「何だよ、俺が決めたんだ。もう、ここにいる意味はないんだって」
「そうですか……。貴方がそう決めたのなら、私は何も言いません。ではまた、どこかでお会いしましょう」
黒岩は被っていた帽子を脱ぎ、一礼した。その恰好は紳士のようで、ヒカルは可笑しくなって思わず笑ってしまった。その笑顔も、次第に引いていくのがわかった。
コンクリートでできたその部屋の壁は、外からのあらゆる音を遮断し、まるでそこだけの空間を創り出している。ヒカルは目を閉じ、心を落ち着かせた。耳に入ってくるのは、コンピュータのような電子音だけだ。これは多分、ヒカルが今座っている機械の音だろう。再び目を開けると、そこには黒岩の姿があった。
「ご準備の方は、宜しいですか?」
「あぁ。ちょっと……、これまでのこと思い出してた」
「そうですか。ご準備ができましたら、またお声かけくださいね。それまで、ごゆっくりお寛ぎください」
黒岩が言うので、ヒカルはまたこの世界に来てからのことを思い出していた。メイドカフェのこと、大学での出来事、すべて思い出していたらきりがない。
「もう、いいよ」
ヒカルは小さく言った。それを、黒岩も聞き逃さなかったらしい。
「……わかりました。では、横になってください」
言われた通り、ヒカルは機械の胴の部分に仰向けになった。次に、黒岩はヒカルの頭に何かを取り付ける。それはヘルメットのようで、ヒカルの頭を覆った。
「これで、貴方の肉体と魂を分離させます。ですが、ご安心くださいね。一瞬意識が飛びますが、すぐに戻りますから」
黒岩は、機械の電源を入れる。その時、ヒカルは自分の頬が熱くなっているのを感じた。きっと涙が流れているのだろう。その意味を考えたが、あまりよくわからなかった。
また、以前と同じ生活に戻れる。しかし、それはこの世界で何も得られなかったことを意味していた。異性として暮らしたことに、どのような意味があったのだろう。これまで、自分は何をしていたのだろう。様々な疑問が、またヒカルの脳裏に現れては消えていく。
「それでは、参ります」
黒岩は、機械に付いているレバーを引いた。これにより、ヒカルを元の世界に戻すのだ。しかし、ヒカルはこの期に及んでまだ迷っていた。
(俺、貴重な時間を無駄にしたのかな……)
今までに感じたことのない悔しさが、全身を駆け巡る。何のために、この世界に来たのだろうか。そんな自問自答が、ヒカルの中に根強く渦巻いていた。
「待ってくれ!」
ヒカルは身体を起こすと、黒岩が叫んだ。
「動いてはなりません!」
次の瞬間、機械から光が放出した。その光は一気に部屋中に広がると、そこにあるものすべてを飲み込んだ。そして、爆音が部屋の中に轟いた。
ヒカルは、目を覚ました。起き上がって周りを見渡すと、室内に白い煙のようなものが立ち込めている。頭が、妙にクラクラする。ヒカルは頭を抱え、何が起こったかを思い出そうとしたが、よく思い出せない。黒岩が、何かを叫んでいた。その瞬間、意識を失ったのだ。その時、ヒカルは何か違和感を覚えた。
……髪が短い。咄嗟に、身体のあちこちを触った。着ている服も違う。これはまさか、男に戻ったということだろうか。ということは、帰還成功だ。そうすると、煙の中に人影が浮かんだ。
「……成功したようですね」
黒岩は、ヒカルに話しかける。やはり、元の世界線に戻って来たのだ。
「帰って、来れたんだよな……?」
「はい、おめでとうございます」
思えば、声も男の声に戻っている。次に、黒岩からこんな言葉が出た。
「しかし……、一つだけ問題があるのですよ」
「問題……?」
黒岩が言うので、ヒカルは疑問を抱いた。「問題」とは、一体何なのか。しかしその疑問は、すぐに解消されることとなった。黒岩の足元を見ると、煙の中に腕が見える。白く、細い腕だった。そして、先程まで煙たかった部屋が喚起されたのか、視界が晴れてくる。
ヒカルの目の前には、女のヒカルがいた。この半年間、交換していたもう一つの身体が、そこにあったのだ。ヒカルは何が起きたのか、全く理解出来ずにいた。
「お、俺……?」
向こうも、驚きの目をヒカルに対して向けている。ヒカルは立ち上がり、黒岩に尋ねた。
「どういうことだよ」
すると、黒岩はこう説明するのだ。
「あの時、送還中に貴方が起き上がったため、恐らく不具合が生じたのでしょう。よって、決して交わることのない二つの世界線が、何かの衝撃で収束されたものだと思われます」
「収束……?」
「えぇ。世界線は、いずれ収束します。しかし、最初から与えられた人生が異なる場合、永遠に交わることはありません。しかし、どうもそれが交わってしまったようです。現に今、同一人物が異なる性別で二人同時に存在しているのですから」
「じゃあ、交わった二つの世界線は、もう切り離せないのか?」
ヒカルの質問に、黒岩は難しい表情をする。それを見て、ヒカルは察してしまったのだ。もう、元の暮らしには戻れないかもしれないと。すると、黒岩は言った。
「取り敢えず、彼女を貴方が預かってくれませんか?」
「彼女を、預かる? 俺が?」
「はい。しばらく、貴方が面倒を見てあげてください。その間に、わたくしは対策を考えましょう。必ず、彼女を元の世界線に帰す方法を探してみせます」
それを聞き、ヒカルは考えた。今は、黒岩を信じるしかない。でも、もはや何を信じて良いかわからなくなっていた。
「……わかった」
「では、よろしくお願いしますね」
黒岩は彼女を立ち上がらせ、ヒカルと引き合わせた。ヒカルは彼女の手を引き、部屋を出た。
(これだから、誰も信じたくないんだよ……)
ヒカルは、後ろからついてくる彼女の気配を確認しながら、ただ下宿に向かって歩いていた。これから起こる、悲劇のことなど知らずに。




