第四十三話 『決意』
「彼は、わたくしどもで処理いたしましたから」
ヒカルは、しばらく黒岩の言葉を理解出来なかった。
「どういうことだよ……。お前、まさか……」
「いえいえ、彼を裏の世界線に戻したというだけです」
黒岩は、弁解するように言った。
「それって……、良の意志でやったのか?」
「それは、少し違います」
ヒカルはまた、理解に苦しんだ。それなら、何故良は元の世界線に帰されたのだろう。しかし、黒岩の次の言葉でヒカルはすべてを理解することになる。
「彼は……、自殺を図ろうとしました」
このプロジェクトにおいて、いくつかの規約がある。まず、他人にプロジェクトの存在を口外してはならない。次に、自殺してはいけない。そして最後は、この世界において結婚してはいけないということだった。良は、「自殺してはいけない」という規約を破ろうとしたのだ。
「なんで……、そんな……」
ヒカルはまた、この世界の不平等さを痛感してしまった。何故、限られた人間しか幸せになってはいけないのか。ヒカルの頬を、涙が伝った。涙が通った部分が、少しだけ熱く感じられた。
「ご安心ください。彼は、すぐに取り押さえましたから。記憶を消して、元の世界に強制送還しただけです」
黒岩は、構わずに続ける。ヒカルは、もはや何も答えられない。どうして良いか、自分でもわからなくなっているのだ。こんなことになるなら、以前のままで良かった。なにも、良に自分の夢を打ち明ける必要などなかった。しかし、時間はもう戻っては来ない。
「俺……、どうしたらいいのかな……」
「それは、貴方次第です」
黒岩からは、やはりという答えが返ってきた。これは、ヒカルにも予想済みだ。そして、ヒカルから笑みが漏れる。何故笑っているのか、自分にもわからなかった。ヒカルの人生は、何もかも狂ってしまった。いや、もうとっくに狂っていたのかもしれない。あの薬さえ飲まなければ、ヒカルはこの世界に来ることはなかった。それでも何故か、黒岩たちを責める気になれなかった。
ヒカルは、フッと溜息をついた。気温が低くなっているせいか、白い息が空中に消えた。それを見ていると、妙に切ない気持ちになる。
(いつ間違えたんだろうな、自分の生き方を)
その疑問だけが、ヒカルの全身を駆け巡る。そんなヒカルを見ながら、黒岩は話した。
「貴方も、よく考えてください。貴方が、ご自分の生まれた世界に帰るというなら、わたくしは最後まで全力でサポートいたします。貴方を助けるためにお声かけしたのに、このような結果になってしまい、本当に申し訳ないと思っております」
「いや、いいんだ。結果は最初からわかってた。でも、もしかしたら上手くいくかもって自分で思い上がってただけみたいだ。お前らのせいじゃねえよ」
黒岩も、ヒカルからそのような言葉を聞くなど予想していなかったのか、驚きの眼差しを向けている。それを見ていると、なんだか滑稽に思えてくる。
「もう少し、考えてみようと思う。だから、あと一日だけ時間をくれ」
「……いいでしょう。では、答えをお待ちしておりますね」
実を言えば、ヒカルはすでにこの時、答えを出せていたのだ。しかし、やり残したことがある。それ故に、すぐ帰るわけにはいかなかったのだ。
ヒカルはマンションに帰ると、深夜を回っていた。今電話しても誰も出るはずがないと思い、その日は寝ることにした。この部屋で寝るのも、あと一日だと思うと、名残惜しくなってくる。クローゼットを開けると、女性用の衣服が並んでいる。当たり前だが、この世界に来て初めて女性用の服を着た時、かなり着心地が悪かった。しかし恐ろしいことに、今では普通に違和感なく着ている。元の世界に持って帰れないかと思ったが、それは流石に無理な話だ。持って帰れるのは、自分の魂だけなのだから。
クローゼットの戸を閉め、ヒカルはソファーに腰かけた。テレビ以外、部屋のインテリアはすべて女の好みになっている。最初は、違和感だらけだった。それでも暮らしていくうちに、それも馴れてしまっていた。そしてヒカルは、ソファーに横になると目を閉じた。そして数分経たないうちに、眠りについた。まるで、何も悩みなど抱えていないかのように。
目を覚ますと、すでに七時を過ぎていた。その日、ヒカルは起きるとある場所に向かった。良がバイトを勧めてくれた、メイドカフェだ。
戸を開けると、まだ開店前ということもあり、物静かだった。初めて来た時は、かなり寂れていると思った。立地も悪く、本当に大丈夫なのかと不安に思ったほどだ。それでも真理子は、ヒカルに優しくしてくれた。気がつけば、その真理子ももうここにはいないのだ。ヒカルはテーブルに触れ、嫌々ながらも布巾で拭いていた時のことを思い出していた。
すると、店に誰かが入ってきた。
「あれ? あんた、今日入ってたっけ?」
それはハナだった。思えば、ハナとの出会いは最悪だった。今では、向こうもヒカルのことを認めてくれているようだ。
「……いえ。今日は、辞めに来たんです」
「え、あんたも?」
「はい。今まで、お世話になりました」
「そう……」
ハナの表情は、少し悲しそうに見えた。あんなに辞めてほしいと言っていたのに、人というのは小さなことで変わってしまう生き物だと、ヒカルは思った。
ヒカルはハナに辞表を出すと、店を出ていった。受け取る時、ハナは無言だった。それでも、ヒカルはこんなものだろうと思うことにした。
駅に向けて歩いていると、不意に立ち止まった。ついでに、大学にも寄って行こうか。ヒカルは急に、部室を覗きたくなった。もうすぐこの世界を去るわけだし、行ってもいいだろうと思ったのだ。
ヒカルは電車に乗り、大学に向かうことにした。最寄り駅に着くと、数人の学生とすれ違った。皆、ヒカルのことなど気にせず、通り過ぎていく。この世界に来た時、まず気になったのは周りからの視線だった。ちゃんと女として見られているかという不安が、そうさせたのだろう。
部室の前に行き、扉を開けた。しかし、中には誰もいない。隼は今頃、授業に出ているのだろう。良も、来ているはずがない。来ていたとしても、ヒカルの知っている良はもうこの世界にはいないのだ。ヒカルは扉を閉め、また歩き出した。
元の世界に帰っても、この大学や、ヒカルの寝起きしていたマンションなどは存在する。しかし、女の体の中に入って見ていた景色は、この世界線限定なのだ。そしてその景色をもう一度見ることは、恐らくこの先二度とないだろう。
最後に屋上に行き、キャンパス全体を見下ろした。冷たい風が、吹きつけてくる。外を歩いている学生も、厚着をしているのが遠くからでもわかる。
(もう十一月だもんな……)
ヒカルは心の中で呟くと、階段を降りた。そして建物を出ると、カップルらしき二人組の学生が何組か歩いているのが見える。ヒカルは、それをあまり見ないようにしながら、キャンパスを出た。自分も、いつかあのようになれる日が来ると思っていた。しかしそれは、到底叶えられそうにない、遥か遠い夢に過ぎないのだ。
努力でどうにかなるものではない。コミュニケーション能力という、生まれ持った才能がなければ叶えられないのだ。そう口実をつけておかないと、ヒカルは段々と自分が情けなくなるのだった。
自分の部屋に帰ると、ヒカルはコーヒーで一服入れた後、また出かける準備をした。
(他に忘れてることないよな……)
ヒカルはコートを羽織ると、部屋を出て鍵をかけた。その日はエレベーターではなく、階段を使って下へ降りた。半年間暮らしたこの世界に、一秒でも長くいたかったからかもしれない。小さな行動が、ヒカルの気持ちの表れだったのだろう。
路地に来る頃には、日は完全に沈んでいた。やはり、この季節は暗くなるのが早いと、改めて感じられた。ヒカルは路地にあるドアを開けると、中の階段を上った。上りきると、目の前には寂れた古いドアがあった。ドアの向こうには、きっと黒岩が自分を待っているだろうとヒカルは思った。そして、ヒカルはそのドアを開けた。
ギイィィという、嫌な音とともにドアが開く。そこには案の定、黒岩が立っていた。
「お待ちしておりました、真宮様」
黒岩はヒカルに対し、そう丁寧に言うと、また微笑んだ。




