第二十五話 灯りの外で交わされるもの
小さな家に、夜が満ちていく。
薪がぱち、と小さく弾ける音だけが、静かな空気に溶けていた。
卓の上には、素朴な食事が並んでいる。
焼いた野菜と、少し固めのパン。それから、薄く甘い香りのする果実の煮詰め。
「……あれ、肉は?」
エルが首を傾げた。
男は少しだけ困ったように笑う。
「ああ……この人、食べないんだ」
その言葉に、ラグナとリオンがわずかに視線を動かす。
ルミナスは、すぐに口を開いた。
「……どうしてですか」
魔族の女は、少しだけ言葉を探すように目を伏せた。
それから、静かに言う。
「……命を、切り分けるのが嫌なの」
その一言は、小さくて――けれど、はっきりとした輪郭を持っていた。
エルの手が止まる。
パンを持ったまま、動かない。
ラグナはちらりとその様子を見るが、何も言わない。
代わりに、軽く息を吐いた。
「まあ、食えるもん食えばいいだろ」
あっさりとした声。
けれど、それは否定でも肯定でもなく、ただ“そこに置いておく”ような言い方だった。
男が少しだけ肩の力を抜く。
「……助かるよ」
リオンは穏やかに微笑んだ。
「どのような形であれ、命を大切に思う心は尊いものだよね」
女は、その言葉にわずかに目を上げる。
何かを言いかけて――やめた。
代わりに、静かに頷く。
ルミナスは、そんなやり取りをじっと見ていた。
違う考え。違う選択。
けれど、争ってはいない。
「……不思議です」
ぽつりと呟く。
誰も否定しなかった。
ただ、火の音だけが続いていた。
夜は、ゆっくりと深くなる。
寝床に横になりながらも、ルミナスは目を閉じきれずにいた。
胸の奥に、小さな引っかかりが残っている。
「……」
静かに起き上がる。
足音を立てないように、そっと外へ出た。
冷たい夜気。
空には、細かな星が散っている。
その下に――一人、立っていた。
魔族の女。
月明かりに照らされて、輪郭が淡く浮かび上がる。
「……眠れないの?」
気づいていたのか、女は振り返らずに言った。
「はい」
ルミナスは正直に答える。
少しだけ間が空く。
風が、木々を揺らす。
「……ここにいると、落ち着くの」
女が言う。
「でも同時に……怖くもなる」
ルミナスはその言葉を受け止める。
「……どうしてですか」
女は少しだけ空を見上げた。
「見つかれば、終わりだから」
短い言葉。
けれど、その中に重さがある。
「人間にも、魔族にも」
ルミナスの瞳がわずかに揺れる。
「……では、どうして」
言葉を探しながら、続ける。
「一緒にいるのですか」
女は、すぐには答えなかった。
ほんの少し考えてから、静かに言う。
「……選んだから」
その一言は、夜の中でやけに鮮明だった。
ルミナスは、黙り込む。
“選ぶ”。
その意味が、まだ完全には分からない。
「あなたは?」
女が問う。
「何を選んで、ここにいるの?」
ルミナスは、すぐには答えられなかった。
ラグナたちの顔が浮かぶ。
けれど、それを“選んだ”のかどうか。
「……分かりません」
正直な答え。
女は、少しだけ微笑んだ。
「それでもいいのよ」
「分からないままでも、歩いていけば……そのうち見えるものもある」
風が吹く。
その言葉は、どこか遠くから来たようだった。
ルミナスは、小さく頷いた。
「……はい」
しばらく、二人は何も言わずに立っていた。
同じ空を見上げながら。
小屋に戻ると、灯りはもう落ちていた。
静かな寝息。
その中で――一つだけ、起きている気配。
「……ルミナス」
低い声。
ラグナだった。
横になったまま、目だけをこちらに向けている。
「起きてたんですね」
「まあな」
ラグナはゆっくりと体を起こした。
「外、冷えただろ」
それだけ言って、少し間を置く。
問い詰めるような雰囲気はない。
ただ、待っている。
ルミナスは、少し迷ってから言った。
「……話をしました」
「魔族の人と」
ラグナは小さく頷く。
「そうか」
それだけ。
それ以上は聞かない。
ルミナスは、その沈黙に少しだけ戸惑う。
「……聞かないのですか」
ラグナは肩をすくめた。
「話したくなったら、勝手に話すだろ」
ぶっきらぼうな言い方。
けれど、それは突き放しではなかった。
むしろ――預けているような距離。
ルミナスは、少しだけ考える。
それから、ぽつりと言った。
「……“選んだから”だそうです」
ラグナの目が、わずかに細くなる。
「へえ」
短い相槌。
「……選ぶ、とは何ですか」
ルミナスはまっすぐに問う。
ラグナは少しだけ考えて、頭をかく。
「難しいこと聞くな」
小さく笑う。
それから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……まあ」
「他の道もある中で、“これがいい”って決めることじゃねえか」
曖昧な言い方。
けれど、ラグナらしい。
ルミナスはその言葉を噛みしめる。
「……私は」
言いかけて、止まる。
ラグナは急かさない。
ただ、静かに待つ。
「……まだ、分かりません」
「いいんじゃねえか」
すぐに返ってきた。
「焦る必要ねえだろ」
ラグナは、少しだけ視線を外す。
「旅は長いんだしな」
その言葉は、どこか軽くて――けれど、確かに支えになる重さを持っていた。
ルミナスは、ゆっくりと頷く。
「……はい」
少しだけ、胸の奥が静かになる。
横になると、さっきよりも目を閉じやすかった。
外では、まだ風が揺れている。
同じ世界にいながら、違うものを選んだ二人。
そして、まだ何も選んでいない自分。
それでも――
「……一緒にいる理由は、同じでなくても良いのですね」
誰にも聞こえないほどの声で、呟く。
火は消えている。
けれど、どこかに小さな灯りが残っている気がした。
その灯りは、まだ名前を持たない。
けれど確かに、胸の奥で揺れていた。




