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第百二十一話 夜明け前の王都

 まだ、夜が明ける前のことだった。

 王都の宿屋は静まり返っていた。

 窓の外には、薄暗い街並みが広がっている。


 昼間は大勢の人々で賑わっていた通りにも、今はほとんど人影がない。

 そんな景色を、ライカは窓辺に立って眺めていた。


 王都へ来てから、もう何日かが経っている。

 けれど、街をゆっくり眺める機会はなかった。


 到着した日は、スリの男と騒ぎになり、騎士団の詰所へ連れて行かれた。

 その後は神殿へ向かい、大勢の人間たちが見守る中で、ルミナスが勇者であることを証明した。


 翌日には王城を訪れ、人間の王と王女に会った。

 どこへ行っても、見知らぬ人間がいた。


 自分に向けられる視線が気になって、街並みを眺める余裕などなかった。


「……ライカ?」


 背後から声がした。


 振り返ると、ルミナスが寝台から身を起こしていた。


「……起こしちゃった?」


「いいえ。目が覚めただけです」


 ルミナスは微笑むと、ライカの隣へ歩いてきた。

 窓の外へ目を向ける。


「外が気になりますか?」


「……」


 ライカは少し考えた。


 人間の街。

 かつては、近付くことさえ考えられなかった場所。


 今も怖くないわけではない。

 けれど。


 窓の向こうに並ぶ家々や、石畳の道。

 遠くに見える塔。


 その一つひとつを、もう少し近くで見てみたいと思っていた。


「……少しだけ、気になる」


 ライカは素直に答えた。


 ルミナスは、その横顔を見つめた。


 王都へ来てから、ライカはずっと緊張していた。


 大勢の人間に囲まれ、時には敵意を向けられることもあった。

 そんな彼女が、自分から街に興味を持っている。


 ルミナスは嬉しそうに微笑んだ。


「それでしたら、少し歩いてみませんか?」


「……え?」


「この時間でしたら、人通りも少ないでしょうから」


 ライカは驚いたように目を瞬かせた。


「……いいの?」


「もちろんです」


 ルミナスは頷いた。


「皆様を起こさないよう、静かに参りましょう」


 ライカは少しだけ迷った後、小さく頷いた。


「……うん」


 二人は身支度を整えると、眠っている仲間たちを起こさないよう、そっと部屋を出た。


 ◇


 夜明け前の王都は、昼間とはまるで違う場所のようだった。

 石畳を踏む足音が、静かな通りに響く。


 閉ざされた店の扉。

 軒先に並べられた木箱。

 まだ明かりの灯っていない家々の窓。


 時折、早朝の仕事へ向かう人が通り過ぎる程度で、二人に目を向ける者はほとんどいなかった。


「……静か」


 ライカが呟いた。


「そうですね」


 ルミナスが微笑む。


「昨日とは、まるで違いますね」


「……うん」


 ライカは周囲を見渡した。


 昨日まで、人間の視線ばかりが気になっていた。


 けれど今は、建物の形や、道端に植えられた花にまで目が向く。

 石造りの家の壁には、細かな模様が刻まれていた。

 店先には、色とりどりの布が飾られている。


 ライカは足を止め、その一つひとつを不思議そうに眺めた。


 ルミナスは急かすことなく、隣で待っていた。


 やがて、二人は小さな公園へ辿り着いた。


中央には、丸い噴水があった。

 水が高く吹き上がり、弧を描いて水面へ落ちていく。


 ちょうどその時。

 建物の向こうから、朝日が差し始めた。


 柔らかな光が噴水へ届く。

 舞い上がった水滴が、きらきらと輝いた。


「……綺麗」


 ライカが小さく呟いた。


 ルミナスも噴水を見つめる。


「ええ。とても綺麗ですね」


 水の落ちる音が、静かな公園に響いていた。


 ライカは噴水へ近付き、石造りの縁から水面を覗き込んだ。

 朝日を受けた水が、絶えず形を変えながら揺れている。


「……海とは、違う」


「そうなのですか?」


「……うん」


 ライカは頷いた。


「でも……水が光るのは、同じ」


 ルミナスは、その言葉に微笑んだ。


 二人はしばらく、何も言わずに噴水を眺めていた。


 その時だった。

 背後から、足音が聞こえた。


 ライカとルミナスが振り返る。


 公園の入口に、一人の男が立っていた。


「……お前ら」


 低い声。


 見覚えのある顔だった。

 王都へ来た日に出会った、あのスリの男。


 男は二人を見つめ、露骨に顔をしかめた。


「……また会ったな」


 その表情には、苛立ちが滲んでいた。


 ライカは思わず一歩後ずさる。


 ルミナスが、そっとライカの前へ出た。


「おはようございます」


 静かに声をかける。


 けれど男は挨拶を返さなかった。


「……なんでだよ」


 男が呟く。


「なぜ、魔族なんかが……」


 その視線が、ライカへ向けられた。


「なんで魔族のお前が、勇者に守られてるんだよ!」


 声が大きくなる。


「俺たちのことは、守ってくれなかったくせに……!」


 ライカの肩が、小さく震えた。


 ルミナスが口を開こうとする。


「それは……」


「……ルミナス」


 小さな声が、その言葉を止めた。


 ルミナスが振り返る。


 ライカが、彼女の袖をそっと掴んでいた。


「……わたしが、話す」


「ライカ……」


 ライカは一度だけ頷いた。


 そして、ルミナスの隣へ進み出た。


 男の顔を見る。

 怖くないわけではなかった。

 今も、胸の奥が落ち着かない。


 けれど。


 男の怒りには、何か理由があるように思えた。


「……どうして」


 ライカが静かに尋ねる。


「……そんなに、怒っているの?」


「あ?」


 男が眉をひそめた。


「……何があったのか、聞いてもいい?」


「魔族のお前に話すことなんかねぇよ!」


 男は吐き捨てるように言った。


 ライカは、それ以上言葉を続けられなかった。

 その隣で、ルミナスが静かに口を開く。


「……話してみなければ、分からないこともあると思います」


 男がルミナスを睨んだ。


「何だと?」


「私たちは、あなたのことを知りません」


 ルミナスは穏やかに続ける。


「ですが、知らないままでは、あなたが何に苦しんでいるのかも分かりません」


「……」


「ライカは、それを知りたいのだと思います」


 男はライカを見た。


 ライカは何も言わず、ただ男を見つめていた。


 しばらく沈黙が続いた。

 やがて男は、苛立たしそうに頭を掻いた。


「……俺の村はな」


低い声で話し始める。


「王都から離れた、小さな村だった」


 ライカは静かに耳を傾けた。


「周りは森ばっかりでよ。木を伐って、運んで……それで暮らしてたんだ」


 男は足元へ目を落とした。


「大した村じゃなかったけど、仕事はあった。食っていくには困らなかった」


 少しだけ間が空く。


「……でも、ある日」


 男の拳が握られた。


「魔物が来たんだ」


 ライカは息を呑んだ。


「突然だった。森から何匹も現れて……家も、人も、何もかも壊していった」


 男は唇を噛んだ。


「俺は逃げた。何も持たずに、ただ逃げたんだ」


 その声が、わずかに震えた。


「気付いた時には、村はもう……」


 男は言葉を切った。


 噴水の水音だけが、静かに響いていた。


「……王都に来れば、何とかなると思った」


 男は続けた。


「でも、仕事なんか見つからねぇ。金もねぇ。知り合いもいねぇ」


 乾いた笑いを漏らす。


「それで、あんなことをした」


 スリ。


 人の金を奪うこと。


 男は、自分の手を見つめた。


「……分かってるよ。褒められたことじゃねぇってのは」


 そして、再びライカを睨んだ。


「でもな……」


 その声には、行き場のない怒りが滲んでいた。


「魔物に全部奪われた俺が、こんなところで苦しんでるのに……」


「……」


「魔族のお前が、勇者に守られて、平気な顔して歩いてる」


 男は歯を食いしばった。


「……納得できねぇんだよ」


 ライカは、何も言えなかった。


 魔物に襲われた村。

 失われた家。

 帰る場所のない人。


 その話を聞いて、胸の奥に古い記憶が蘇っていた。


 海底神殿。

 共に暮らしていた同胞たち。

 魔王に逆らうことができず、戦争へ駆り出された日々。


 そして。


 本来、同じ魔族であるはずの者たちにさえ、刻を狙われたこと。

 海底の民の命を繋ぐ大切なもの。

 それを、高く売れる宝石として奪われていった。


 失った同胞たちは、もう戻ってこない。


 どれほど願っても。

 どれほど待っても。


 ライカは、ゆっくりと俯いた。


 目の前の男も、大切なものを奪われた人なのだ。


「……わたしも」


 小さく声を出した。


 男が顔を上げる。


「……わたしも、たくさん失った」


「……何?」


 ライカは、ゆっくりと顔を上げた。


「わたしたちは……戦争に利用されたの」


 男は眉をひそめた。


「戦争?」


「……うん」


 ライカは頷いた。


「魔王に逆らえなくて……たくさんの同胞が、戦争へ連れて行かれた」


 言葉を一つずつ選ぶ。


「……帰ってこなかった人も、たくさんいた」


 男は黙っていた。


「それだけじゃない」


 ライカは胸元へ手を添えた。


「わたしたちにとって、大切なものを……同じ魔族に、奪われたこともあった」


「……魔族に?」


「……うん」


 ライカは静かに頷いた。


「だから……」


 少しだけ、声が震えた。


「奪われたものが、戻ってこない辛さは……わかる」


 男は何も言わなかった。


「どんなに願っても……どうすることもできない」


 ライカは、男を見つめた。


「……あなたの村を、元に戻すことはできない」


 男の拳が、わずかに震えた。


「……わたしも、失った人たちを取り戻せない」


 ライカは目を伏せた。


「……でも」


 再び顔を上げる。


「あなたが苦しんでいるのを……知らないままでいたくなかった」


 男は、しばらくライカを見つめていた。


 その表情から、怒りが消えたわけではなかった。

 失った故郷が戻ってくるわけでもない。


 けれど。


 目の前にいる魔族も、何かを失っていた。

 そのことを、男は初めて知った。


「……はぁ」


やがて、大きなため息をついた。


「……もういい」


 男は背を向けた。


「あんたの言う通り、こんなことしても失ったもんは戻って来ねぇもんな……」


 重い足取りで歩き始める。


 ライカは、その後ろ姿を見つめていた。

 何か言いたかった。


 けれど、何を言えばいいのか分からなかった。


 その時。


「……少し、お待ちください」


 ルミナスが声をかけた。


 男が足を止める。


「……まだ何かあるのかよ」


 振り返らないまま、男が答える。


「昨日、私たちは王城を訪れました」


「……それが何だ?」


「これから王都には、住まいや仕事を必要とする人々が増えるかもしれません」


 男が、わずかに顔を動かした。


「……人が増える?」


「はい」


 ルミナスは頷いた。


「遠く離れた土地で、今まで自由に暮らせなかった人々がいます。その方々が、これから新しい暮らしを始めるかもしれないのです」


「……」


「そうなれば、住む場所も、働く場所も必要になるでしょう」


 ルミナスは静かに続けた。


「その時には、あなたのように木を扱う仕事を知っている方の力が必要になるかもしれませんね」


 男は、ゆっくりと振り返った。


「……俺の?」


「はい」


 ルミナスは微笑んだ。


「家を建てるにも、家具を作るにも、木を扱う技術は必要ですから」


 男は、しばらく黙っていた。


 自分が村でしていた仕事。

 当たり前のように毎日続けていたこと。

 王都へ来てからは、もう役に立たないと思っていた。


「……そんな簡単に、仕事が見つかるわけねぇだろ」


「……そうかもしれません」


 ルミナスは頷いた。


「ですが、これから必要とされることがあるかもしれません」


 男は何も答えなかった。


 ただ、二人を見つめていた。


 そして。


「……変な勇者だな」


 小さく呟いた。

 その口元に、一瞬だけ笑みが浮かんだ。


 男は再び背を向ける。


 今度は、何も言わずに歩いていった。


 ライカとルミナスは、その姿が見えなくなるまで見送っていた。


 ◇


 朝日は、すっかり昇っていた。


 噴水の水面が、明るい光を受けて輝いている。


「……ルミナス」


 ライカが声をかけた。


「はい?」


「……ありがとう」


 ルミナスは微笑んだ。


「私は、何もしておりませんよ」


「……ううん」


 ライカは首を振った。


「一緒に、来てくれたから」


 ルミナスは、ライカを見つめた。


 ライカは噴水へ目を向ける。


「……人間は、まだ怖い」


 小さく呟いた。


「でも……」


 朝日を受けた水滴が、きらきらと輝いている。


「……知らないことが、たくさんあるんだね」


 ルミナスは静かに頷いた。


「ええ」


 そして、ライカの手をそっと取った。


「私も、まだ知らないことばかりです」


 ライカは、その手を見つめた。


「……一緒に、知っていける?」


「もちろんです」


 ルミナスは柔らかく微笑んだ。


「これからも、一緒に」


 ライカも、小さく微笑んだ。


 二人はもう一度、朝日に輝く噴水を眺めた。

 それから、宿屋へ戻る道を歩き始めた。


 ◇


 宿屋へ戻ると、ラグナたちは既に起きていた。


「お、帰ってきた」


 ラグナが顔を上げる。


「どこ行ってたんだ?」


「少し、お散歩をしておりました」


 ルミナスが答える。


「散歩?」


 ラグナは首を傾げた。


「こんな朝早くからか?」


「はい。街がとても静かでしたので」


「へぇ……」


 ラグナは、ルミナスの隣にいるライカを見た。


 王都へ来てから、ずっとどこか緊張していたライカ。

 人間の視線を気にして、ラグナたちの傍を離れようとしなかった。


 けれど。


 今のライカは、穏やかな表情をしていた。

 ほんの少しだけ、微笑んでいる。


 ラグナは、その顔を見つめた。


 何があったのかは分からない。

 けれど、悪いことではなかったのだろう。


「……そっか」


 ラグナは、安心したように笑った。


 それ以上は、何も聞かなかった。


「さて!」


 エルが元気よく立ち上がる。


「そろそろ出発するんでしょ?」


「ああ」


 ラグナは頷いた。


 それから、ふとライカへ目を向ける。


「……そうだ。ライカ」


「……なに?」


「一度、ガルドのところに戻らねぇか?」


 ライカが首を傾げた。


「……ガルドのところ?」


「ああ。リリアナの刻を預けたままだろ?」


 その言葉に、ライカは胸元へ手を添えた。

 そこには、リリアナの刻はない。


 大切な同胞が遺したもの。

 今はガルドに託している。


「……うん」


「そろそろ様子を見に行こうぜ」


 ラグナは笑った。


「ガルドなら大丈夫だと思うけどさ。ずっと預けっぱなしってのも気になるだろ?」


「僕も、そう思ってたんだ」


 リオンが頷く。


「刻を外す方法も、何か分かったかもしれないしね」


「そうね。それに、ライカも気になるでしょ?」


 エルが優しく尋ねた。


 ライカは、仲間たちを見渡した。


 自分が何も言わなくても。

 皆は、リリアナの刻のことを気にかけてくれていた。


「……うん」


 ライカは小さく頷いた。


「……見に行きたい」


「よし、決まりだな!」


 ラグナが笑う。


「じゃあ、ガルドのところに戻るか!」


「久しぶりだね」


 リオンが微笑んだ。


「ガルドさん、元気にしてるかな」


「元気だろ。あの人のことだし」


 ラグナは笑った。


「帰ったら、また何か言われそうだけどな」


「ふふっ。そうね」


 エルが笑う。


 仲間たちは、それぞれ荷物を手に取った。


 ラグナが扉を開ける。

 その向こうには、朝の光が差し込んでいた。


 ◇


 王都の門を抜ける頃には、街は少しずつ賑わい始めていた。


 店を開く商人たち。

 荷物を運ぶ人々。

 新しい一日を迎える街の姿。


 ラグナは一度だけ振り返った。


王都。


 勇者を待ち望む人々が暮らす街。

 魔族を恐れる人々がいる街。


 そして。


 大切なものを失いながらも、明日を生きようとしている人々がいる街。


 ここで出会った人々のことを、ラグナたちはまだ何もかも知っているわけではない。

 これから王都がどう変わっていくのかも、分からない。


 けれど。


 ルミナスが勇者として認められたこと。

 王と王女が、彼女たちの言葉に耳を傾けてくれたこと。


 そして、少しずつでも、人と人が互いを知ろうとしていること。

 その一つひとつが、何かを変えていくのかもしれない。


「……よし、行くか!」


 ラグナが前を向いた。


「うん!」


 リオンが頷く。


「次はどんなことがあるのかしらね」


 エルが楽しそうに笑う。


 ルミナスはライカの隣を歩きながら、静かに微笑んでいた。


 ライカは、もう一度だけ王都を振り返った。


 朝日に照らされた街並み。

 その向こうには、先ほど見た噴水のある公園がある。


「……綺麗だったね」


 ライカが小さく呟いた。


「ええ」


 ルミナスが頷く。


「また、見に参りましょう」


「……うん」


 ライカは微笑んだ。


 五人は、再び歩き始めた。

 王都の朝は、これからも変わらず訪れる。


 けれど、その街で暮らす人々の明日は、まだ誰にも分からない。

 失われたものは、戻らない。


 それでも。

 これから生まれるものまで、失われたわけではない。


 朝日は王都にも、旅立つ五人にも、等しく降り注いでいた。

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