とある男のプロローグ
「はぁ....................はぁ....................」
地面に重なってきた雪が、俺の足裏に踏み潰されている。
足元のロングブーツから伝わってくるものといえば、氷と水が混ざったようなジョリジョリという感覚と、ツンとした不快感をもたらす冷たさ。
生地の分厚い帽子とロングコートには、ふわふわと落ちてくる雪がまとわりつき、手袋や袖の隙間から容赦なく侵入してくる冷気がとても冷たく感じられる。
俺の口から吐かれた吐息は真っ白に染まっていて、俺がいかに冷たい環境に置かれているのかが嫌というほどにわかる。
俺自身が俯きがちに歩いていることもあり、俺の視界に映される景色は、地面の雪と吐息と雪で真っ白。
ブーツの黒だけが、異様なほどに目立っていた。
手袋越しではあるけれどさっき買ったホットミルクコーヒーの缶だけが温かい。
早くこれを開けて飲んでしまいたいが、手袋は脱ぎたくないものだ。
あと少しだけでも、我慢しよう。
時刻は深夜。
道行く人はとても少なくて、俺と、ガラの悪そうな人が騒ぎながら歩いているくらいだ。
乱立している建物の電気もほとんどついていなくて、明かりの灯る部屋にもカーテンやシャッターがかけられている。
高い建物もあれば低い建物もあれば、個人住宅も集団住宅も混じっている。
雑居ビルの看板には全く違うジャンルが立ち並び、マンションの最下層にあるコンビニからは【24h】と、人工的な光が放たれている。
ああ、人が歩いてくる。
このままだとぶつかってしまうだろうか。
避けるのも面倒くさいな。
いっその事、肩くらいは当たってもいいから、謝った方が楽だろうか。
「どこ見て歩いてるんだ、てめぇ!?」
「..............................すみません。」
「ったく、前見て歩けよな。」
明らかに酔っている歩き方をした通行者とぶつかるのも、もはや日常茶飯事。
もうこういうのは、避けるよりも、一言謝ってしまった方が楽なものだ。
まあ、ついさっきまで関わっていた相手と比べれば、あんなチンピラはかわいいものだ。
笑って見逃してあげようじゃないか。
金属製の柵を錆の音を聴きながら開け、その門をくぐる。
適当な場所へ置かれている車両やバイクが、雪を被って白くなっている。
夏や春にはそれなりに整えられた景観をしている街路樹も、これでは何も見えない。
....................明日はちょうど暇だから、雪かきの手伝いでもしてやろうか。
いいや、ほとんど部屋から出ることのない俺がそんなことを申し出ても、不気味がられるだけだろう。
俺の目の前にはボロボロの白いアパートがある。
雪を被っていることに変わりはないが、その隙間からはシミとホコリで薄汚れた白色の塗料が顔を覗かせている。
これも、まだ新築だった頃は、降り注ぐこの雪と照明によって、それなりによい景色を作っていたのだろうか。
まあ、今となっては汚れや"すす"のほうが目立ってしまっているオンボロアパートだけど。
俺は外に作られた階段で2階部分へと登り、その廊下の一番端の部屋のドア前で止まる。
昔ながらのカードキーでドアのロックを解除し、俺は部屋へと入った。
暖かくなんて全くないが、それでも外よりは何倍もマシだ。
主に、気分的に。
よし。
これで、命を狙われることがあっても大丈夫だ。
室内であれば、俺のやりたいようにできる。
さて、足りない栄養を補給したいから食事を..............................。
「うっ。」
あっ、急に吐き気が。
........................................うっぷ。
「....................ッッ!!がはッ!!オ"エッ!!」
気が抜けたせいなのか、急な吐き気が俺を襲った。
口内から血と涎が溢れ出る。
多量の血が体外に排出されてしまったことで意識が薄くなり、視界が歪む。
思わず足から力が抜け、床へと倒れ込んでしまう。
ああ、身体中が痛い。
ようやく、俺の脳が怪我のことを認識したらしい。
外を歩いているときだと、いつ襲われるかわかったものじゃないからだ。
警戒中は痛みなどまるで無いかのように誤認するように、そう作られているのだから。
筋肉が痛いというよりも、臓器からの痛みだ。
たぶん。
腹のあたりに手を添えて、今日負った傷を確かめてみる。
確かこのあたりに、銃弾の貫通した傷が3つあったはず。
....................いや、こっちは治っている。
脇腹のナイフの刺し傷は、肝臓が近いから、優先的に治癒した。
だとしたら、まだ内部の傷が治っていないのだろうか。
どうしようもないな、少し待とう。
口に蔓延する鉄の味。
床にしみ広がっていく赤黒く粘っこい液体。
四つん這いになり、痛みを感じながら傷の再生を待つ。
「もう、辞めたい........................................。」
手袋の中が湿っていて気持ちが悪い。
俺は四つん這いの体勢から床に肘をつけ、手袋を脱いでみる。
これは防寒としての手袋、そして付着している血を隠すための手袋。
「うわ....................。」
やはり、手袋の中は血でドロドロだ。
仕事がら、帰宅する度に毎回こうなんだけれど、いつになってもいつになっても慣れない。
慣れたくなんてない。
返り血や自ら拭った血を、手袋によって無理やり閉じ込めているから、手のひらに結晶のように固まった血が関節の自由な動きを悪い方向へと制御してしまっている。
ふと口内に意識を向けると、先程まで体内から滲み出続けていた鉄の味が薄まっていることが感じられた。
舌で口内をまさぐってみれば、空いていた傷はだいたい塞がっているし、内部からズキズキと与えられていた痛みも引いてきた。
「よし。」
立ち上がれそうなので立ち上がってみる。
さっき崩れかけてた平衡感覚もほとんど元に戻っていて、スタスタと問題なく歩くこともできそうだ。
俺は仕事用のロングブーツを脱ぎ、下駄箱から室内用のラフな靴を取りだし、靴をそれに履き替える。
そして、玄関より少し奥に作られている照明のスイッチをオンにし、真っ暗だった室内に灯りをともす。
相変わらず、狭い部屋だ。
リビングルーム、キッチン、トイレと風呂のたった3つの部屋しかない。
一応、クローゼットがあるけれど、そこにはナイフや銃や常温保存がオーケーな毒たちが大量に保管されている。
フリースペースにはなり得ない。
まあ、俺にはこのくらいで十分だ。
部屋が狭いから、手に持っていた荷物を向こう側へ放り投げれば、俺が普段過ごしている場所へと楽々配置することができる。
このくらい手軽でも良いだろう。
キッチンに赴き、うがいをして口内の血を洗い流す。
鉄分の味が消えたら手を洗って、結晶みたいになっている血液たちを綺麗さっぱり落とす。
水とハンドソープでゴシゴシやれば、すぐに落ちてくれる。
とにかく、この気持ちの悪い不快な感触が消えてくれるのならば、なんでも良いのだ。
体に付着した血を洗い流した俺は、シャワーを浴びて、部屋着に着替える。
鏡で俺の体を見てみれば、外部から確認できる傷口は、ほとんど繋がっていた。
違和感がなくなるのは明日あたりになるだろうけど、これ以上の出血がなければ死ぬことはないだろう。
失血死はごめんだ。
風呂上がりの俺は、普段の居場所と寝床を兼ねている長椅子に倒れ込む。
俺は腕に着けていた、そこそこ重量のある黒い腕輪を外す。
その腕輪はまだ電源がオンになっていたので、それをオフにし、近くの机に置いた。
ここまで済まして、俺は長椅子の前に吊り下げられている鳥かごへ向き直る。
そして、その鳥かごの主へと話しかけた。
「ただいま。」
俺は、かごの隣にある餌の袋の中身を、パラパラと無造作に鳥かごの中の皿に盛り付けた。
鳥がかごの床部分に降りてきて皿の餌をつつくのを見届けると、俺自身も適当に買ってきた栄養食を口に放り込み、水で流し込む。
まずい。
そしてポケットから連絡用の端末を取り出し、雇い主に対して、仕事が終わったという旨の連絡をした。
俺の意識はミルクコーヒーを飲む前に、ここで途切れた。
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例えるならば、どんな音だろうか。
耳元で爆薬が破裂するような音?
とんでもない高さから落とされた石が地面に激突して、粉々に割れてしまう音?
とにかく俺は、とてつもない物音で目を覚ました。
はっとして目を覚ました俺は、既に宙ぶらりんになっていてた。
足をジタバタしても何も起こらない。
ここで、喉の辺りに謎の違和感を感じた。
俺の首を何かに掴まれていて、それで持ち上げられていることを理解した。
「かはっ!!!」
せっかく再生した喉がまたぐちゃぐちゃに壊れ、口に鉄分の風味が広がる。
首に巻きついているそれは、動物の尻尾のようでもあり、植物のくきのようでもある。
触手、と呼ぶのが良いだろう。
とにかくそれは、俺の首をガッチリと締め空中に持ち上げているのだ。
そうすることで、俺がその触手へと力を込めにくいようにしている。
このまま死ぬのは嫌だ。
それを引き剥がすために手をかけてみたり、爪を食い込ませてみたり、足をバタつかせて暴れてみたりする。
しかし、どれもこれもが上手くいかなかった。
「どれだけ動こうが無駄だ。生身の貴様に、これは引きはがせん。」
声が、聞こえた。
人間の声だ。
ハッとしてその触手の根元に目を向ける。
そこには大柄の人間、伊那、人の形をした何かが立っていた。
俺の本能が、コイツは人間ではないと叫んでいた。
そして、背中の方からだろうか。
この触手はやつから伸びていることがわかる。
バラの茎のような、トゲのついた触手だ。
しかし、アイツの言う通り。
俺にこれを外すことはできない。
せめて、アレに手が届けば。
手を伸ばし、机に置いた黒い腕輪に手を伸ばそうとする。
届かない。
手の長さが足りない。
すると、俺のその思いに呼応したのように、あの鳥が、かごの隙間から抜け出して、その腕輪を口に抱えて俺に向かって飛んでくる。
しかし。
「母上が懸念していたのは貴様か。」
もう1本、新たな触手が伸びてきて、その鳥を刺す。
無慈悲に、ひとつの生命が終わりを迎えた。
俺の希望の星である漆黒の腕輪も床へコトンと落てしまい、俺は抵抗のすべを失った。
「さて。今から私はこの喉を捻り潰す。当然、貴様の生命はここで終わりだ。」
「..............................ッ、ゲホッ!
き、君はっ、誰なんだ?!」
「それに答える義理はない。」
俺の心臓の場所に、ドロドロの血をまとった針のような触手が当てられる。
このドロドロした血は、あの鳥を刺し殺したときのものだろう。
それが押し当てられることて、俺の胸の皮膚が少し傷つき、痛む。
あぁ、そっか。
俺。
「ここで死ぬのか..............................。」
「物わかりが早くて助かる。」
その刹那、一陣の風がふいた。
俺の恩人となるその人物とともに。




