帰郷 3/7
前回の続き、全7話中3話目です。
平原を抜けると、自分らが乗っている馬車の他に荷馬車が増えてきた。
それらの荷台の上にはきつく縛って束ねられた大量の麦が載っていたり、色鮮やかな夏野菜が積まれていたり。
他にも動物の毛皮やら、磨かれる前の鉱石やら、様々な荷物を積んだ荷馬車の群れに混じって並走すること数刻。ジェードら一行はついに商人の街――プラムへと辿り着いた。
プラムの中心を真っ直ぐに突っ切った大通りは商人たちの戦場であり、街の心臓部。その両側は赤や白のレンガが積まれた高い壁のような、三角屋根の建物が並んでいる。これはジェードがアルスアルテを発つ前に描いた光景とそっくりだった。
「ほほう! 確かに主様の絵そのままじゃの! 久々過ぎて忘れておった!」
プラムの街に入り、ジェードが馬車の御者に報酬を渡していると、アンバーが無邪気な声を出した。
サナもそれにつられるように目を輝かせていて、誰が見ても親子だと丸わかりなほどに同じ反応なのが微笑ましい。
人目につく場所であるため二人とも人間の姿をしているが、ジェードには勢いよく振り回される二本の尻尾が見えるような気がした。
長かった馬車の旅も一旦終了。一週間も揺られていたため相当な運賃がかかったが、もう五年以上も旅らしい旅をしていなかったこともあって路銀は十分すぎるほどだった。
娘のサナを連れた初めての家族旅行。これをよい思い出にするためにも、ジェードは出し惜しみすることなく旅費を大盤振る舞いするつもりでいた。
「それじゃあ、行こうか」
そう言ってジェードが左手を出すと、サナの右手がそれを握った。
そしてサナの左手はアンバーが握る。両親に挟まれて手を繋いだ上機嫌なサナは、歩きながら下手な鼻歌を歌い続けていたのだった。
*****
さすがに十五年の月日が流れただけあって、一部の家屋が新しく立て直されていたり、区画が整理されたのか道が増えたりしていた。
それでも実家へ向かう道のりだけは十五年経っても覚えている自分の脚が、なんとなく心強くも感じる。
もうすぐだ。この角を曲がれば見慣れた小さな小料理屋が見えてくる。
胸が高鳴り、早まる脚をなんとか律し、ジェードたちはついにその角を曲がった――
「……あれ?」
すると、ジェードがふと拍子抜けした声をあげた。
何事かと彼の顔を見上げるアンバーとサナをよそに、ジェードはきょろきょろと忙しなくあたりを見回す。
この区画にあるはずの懐かしの我が家がどこにも見当たらないのだ。
両親から引っ越したなどという知らせは受け取っていない。この場所で間違いないはずなのだが、目の前の光景はジェードの記憶とはあまりにも異なっていた。
なぜなら彼の実家の店は――
「……大きく、なってる……?」
数少ない常連客からの収入で首の皮一枚繋がっていた貧しい小料理屋は、そこにはなかった。
代わりにその場にあったのは、飾らぬ素朴な看板が掲げられた真新しい大衆食堂だ。
その隣には従業員、もといジェードの家族が住んでいると思われる家が建っていて、食堂とは完全に分けられていた。
食堂は大きさの割に閑散としているが、入口には"店休日"と書かれた札が下がっている。息子夫婦が帰郷するとあって、急遽営業を中止したのだろう。
里帰りして早々予想外の出迎えに困惑を隠せないジェード。というより、まだ出迎えられてもいないという事実がまるで信じられなかった。
「ぬしさまー」
幼い声に呼ばれ、ジェードはハッと気がついた。
驚きすぎたとはいえ、実家を目の前に呆然と立ち尽くしている自分の姿は、娘の目には随分間抜けに見えたかもしれない。
「これ、サナ」
「えへへ。ごめんなさあい」
アンバーが低い声で諭すと、サナは悪戯っぽく笑ってみせた。
まったく、とため息をついたアンバーは呆れ笑いを浮かべると、続いてジェードの方へ目を向けた。
「ほれ、主様も。早う行くぞ。わしを自慢の伴侶じゃと家族に紹介してくれるんじゃろう?」
そう言って歯を見せたアンバーの笑顔に、ジェードはふわりと胸に風が抜けるような感覚を覚えた。
確かに、こんなところでぼうっとしていても仕方がない。わざわざ時間をかけてここまで来たのだ。これからすべきことなど、考えるまでもなくわかりきっている。
「――うん。じゃあ、行こう」
踏み出した一歩目は随分軽く感じる。
握った娘の手を引いて、そして娘が握る妻の手も間接的に引いて、ジェードは昼下がりの太陽に焼かれた玄関の石段に足を載せた。
扉の前に立ち、妻と娘は一歩後ろに控えさせる。そして一呼吸ついてから、見覚えのない新しい実家の戸を二回、叩いた。
何倍もの長さに感じられる、数瞬の沈黙。
どこかの建物の外壁で騒ぎ立てる蝉の声すら、今の彼の耳には届かない。
そしてうんざりするような夏の暑さで汗が額を流れると、目の前のドアノブが音を立ててゆっくりと回り出すのが見えた。
「はい、どちらさま――」
戸の隙間から覗いたその顔に、ジェードはぎゅっと胸を締め付けられる心地がした。
彼を出迎えてくれたのは、最後に覚えている姿と比べてしわも白髪も随分増えた、母のキャシーだった。
「ええと……ただいま、母さん」
自分の顔を見るなり絶句してしまったキャシーに、ジェードが照れ臭そうに笑いかける。
するとキャシーは何も言わずに歩み寄ってきて、彼女よりも背の高いジェードを背伸びして抱き寄せてきた。
「……おかえりなさい、ジェード」
ジェードがそっと抱きしめ返すと、母の身体は以前よりも少し小さくなっている気がした。
久し振りに再会した母に何か言葉をかけてやりたいが、気の利いた文句は何も浮かんでこない。
しかしキャシーは、ただこうして最愛の息子を再び腕に感じられただけで満足げな表情だった。
「――っと、私ったらごめんなさい。いつまでも玄関にいたら暑いでしょう。早く中に入りましょう。みんな待っているわ」
「ああ、そうさせてもらうよ」
ジェードから離れたキャシーは、彼の後ろに控えるアンバーに小さく頭を下げると家の中へ戻っていった。
それに続いて家に上がったジェードは、アンバーとサナのほうを振り返って頷き、入ってくるよう合図した。
どうやらアンバーは緊張しているようで、先程までよりも表情が固い。それに対してサナはなんとも気楽なもので、跳ねるような軽い足取りでジェードに続いた。
「あなた、ジェードが戻りましたよ」
ジェードたちを居間へと通すなり、キャシーはそう述べた。
その声に反応して、居間の奥からはジェードと同じ濃い紺色の髪の男が足早にやってきた。ジェードの父、エドガーだ。
「おお、やっと来たか。待ちくたびれたぞ、ジェード」
「ただいま。アルスアルテからくるんだから時間がかかるって手紙に書いただろう、父さん?」
エドガーも母のキャシー同様、十五年が過ぎて年齢相応に老けてしまっている。
あまり実感が湧かなかったが、旅に出て家庭を離れてからどれほどの長い時間が過ぎたのかを、ジェードははっきりと思い知らされたのだった。
アンバーとサナは変わらずジェードの背後に控えている。彼女らは家族水入らずの再会の邪魔にならぬよう空気を読んでいるらしい。
本当は妻子を紹介する必要があるのだろうが、ひとまず今は十五年ぶりの両親と挨拶をするのが先だ。
「まあ、手紙はちゃんと読んだんだけどさあ。父さんったら『時間がかかるってどのくらいだ?』とか、『せいぜい二、三日だよな?』とか、全然落ち着きがなかったんだ。だからそのへんは大目に見てやって、兄さん」
父と話していると、無気力でやる気のなさそうな声が聞こえた。
このゆるんだ口調も随分懐かしい。彼はジェードより一つ年下の弟、クリスだ。
「やあ、クリスも久し振り。……随分印象が変わったね……」
「あ~、髪? おしゃれでしょ~? そういう兄さんは、昔となあんにも変わってないね」
十五年の月日を感じさせず、まるで昨日の続きのように接してくる弟のクリス。
彼はジェードの記憶にある姿から様変わりしすぎていて一瞬反応に困ったものだった。
ジェードと同じくらいのの長さだった髪は背中まで伸びているらしく、それをうなじのあたりから結んで三つ編みにしている。
細身だった身体は筋肉質になっていて逞しく、並んで立つとジェードの方が弟に見えてしまいそうだ。
クリスは今、旅立ったジェードの代わりに父の跡を継ぐため料理人の修行をしているらしい。
まだまだ現役だと言い張る父も、年齢を考えればそろそろクリスに店を譲ってもいい頃合いだろう。
「――となると、あとは……」
両親と弟に挨拶を済ませると、ジェードは妙な胸騒ぎを抑えきれなくなった。
この家にいる家族は、あともう一人いる。そしてその人物は弟の後ろでもじもじと照れ臭そうにジェードの様子を窺っていた。
「……えっと……。久し振り、ジェード兄さん……」
「うん、本当に久し振りだ。大きくなったね、パール」
か細い声をかけてきたのは、出会った頃のアンバーと同じくらいの歳の少女。彼女はジェードが家を出たとき、まだたったの四歳だった妹のパールだ。
あれから十五年が経ったのだから、現在は十九歳だろうか。確か彼女の誕生日は春だったから、もしかしたらもう成人しているかもしれない。
どちらにせよ、最後に会ったのが娘のサナと同じ年齢のときだったのだから、ジェードの記憶にある妹とは別人のようにすら思えたのだった。
「えへへ。なんか、照れくさいね……?」
「そうだね。でも嬉しいよ。ちゃんと覚えていてくれて。家を出たときはまだ小さかったから、僕のことなんてもう覚えていないんじゃないか、なんて――」
「――そんなことないッ! 私、小っちゃい頃から兄さんのこと大好きだったもん。忘れたりなんかしないよ!」
卑屈になるジェードに慌てて詰め寄ってきた妹に、ジェードは少しドキリとしてしまった。
近くで見ると若い頃の母に似ている気がする。美人顔になったものだ、なんて思うのは、兄である故の身内贔屓だろうか。
「そ、そうかい、ありがとう」
「そうだよ! ほらほら兄さん早く座って! 奥さんと娘さん紹介してよ!」
何にせよ、妹がまだ自分のことを覚えていて慕ってくれているのは素直に喜ばしい――背中に刺さる嫉妬を含んだ妻の視線はなんだか少し痛々しくも思えるが。
大好きだ、なんて言っても、それは兄妹愛としての感情だ。妻のアンバーがそれに嫉妬するのはどう考えても的外れだろう。
しかし、実の娘に対してもやきもちを妬くような可愛げのある妻だ。義妹に嫉妬するな、なんて"無茶振り"が通用するかなど、期待するだけ無駄であった。