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とある朝

完結後のお話です。本編未読の方はご注意ください。

 新しい一日の始まりを告げる鳥たちの歌は耳に届かない。

 それでも、真っ白で心地よい朝の日差しがほんのりと部屋の中を照らしている。

 この部屋に響いたのは微かな衣ずれの音だけ。鋭敏な聴覚を持つ妻をうっかり起こしてしまわないよう、絵描きは慎重にベッドから立ち上がった。


 ほとんど何も着ていないこともあって、早くも布団の温もりが恋しくなる。

 絵描きはごそごそと厚めのズボンを履いてから、シャツ、革のジャケットの順に袖を通した。

 その過程で自分の首筋の異変に気づいた絵描きは、まるでそれを隠そうとするかのようにシャツの襟を立てる。

 そして自分の鞄を肩にかけ、足音を立てぬようゆっくりと歩き出すと、部屋の戸に手をかけた。


「……随分と早いんじゃの」


 背後から聞こえた小鳥のさえずるような澄んだ声に、絵描きが思わず立ち止まる。

 振り返ると、ベッドに横になったまま眠そうな片目でこちらを見る妻の姿があった。


「今日は店を開ける予定はないのじゃろう? ならばそんなに早起きせずとも、たまには昼まで寝ておってもよいではないか」


「それも悪くないけれどね。ちょっと調味料の在庫が心許なくて。ほら、明日はアーロンさんが来ることになっているから」


 まだ半分夢の中にいるようにとろんとした視線を向けてくる妻だが、彼女の頭上にある大きな耳が垂れ下がっていて、内心面白くないと思っているのがわかってしまう。

 そんな彼女をこのまま放置して外出するのはどうにも極まりが悪い気がして、絵描きは妻のいるベッドの横まで戻ってきてしまった。


 夫が寄ってきただけのことがよほど嬉しかったのか、妻が被っている毛布のちょうど尻尾のあたりが微かにうごめく。

 彼女の美しい琥珀色の髪はだらしなく乱れてしまっており、毛布の陰から見え隠れする白い肩や鎖骨がどこか妖艶な雰囲気を醸し出していた。


 絵描きのジェードと妖狐のアンバー。夫婦の契りを結んだこの二人が芸術の街(アルスアルテ)で暮らし始めてから、もうすぐ十年が経とうとしていた。

 街の南端に位置する小さな丘の上で、ジェードが小料理屋を営み始めたのは八年前だ。

 家の一室をアトリエとし、そこで描いた絵が数多く飾られた居間は、街の人々が時折立ち寄る小さな食事処となっている。


 食に無頓着なアルスアルテの奇人たちは味覚音痴で料理が下手な者が多く、ジェードの作る料理の味は頭一つ抜けて評価されていた。

 もともとは小料理屋を営むつもりなどなかったのだが、客としてやってくる住民たちは次第に増え、今では二人の家は"画廊食堂"なんて呼ばれるようになっているのだ。


 アルスアルテで暮らし始めた当初は、街の住民たちに無償で料理を振る舞っていたジェード。しかし、こんな美味い飯をタダで食っていいもんかと皆が金を支払い始め、従業員として働きたいと言い出す者まで現れたものだから、今ではジェードの職業としてすっかり板についてしまった。

 目指してもいなかった、父と同じ料理人という職に落ち着くなど、過去のジェードが知ったらどれほど驚くだろうか。縁とは不思議なものである。


「君こそ、いつまでも寝ていていいのかい? 最近は机に向かっている時間が少ない気がするけれど」


「書けぬときはいくら筆を握っておっても書けぬのじゃ。それならこうして寝ておるほうがいくらかよい」


 アンバーは特に手に職を持っているわけではなかったが、ジェードと共に見つけた夢を追う物書き見習いだった。

 子ども向けのお伽噺を書いては、定期的に街の広場で披露する。今では街の子どもたちから大人気の語り部だ。


 そんな彼女は最近、新たな挑戦として大衆向けの小説を書き始めていた。

 まだ草稿の段階ではあるが、出来上がれば首都(カピタラ)の活版印刷所で数冊分発行し、試しに販売でもしてみる予定だ。

 その小説の挿絵は僕が描いてあげようか、というジェードの提案には、アンバーは飛び上がって喜んでいた。主様(ぬしさま)と一緒に作品を作り上げるのはいつぶりじゃろうか、と。


 しかし、最近の彼女には執筆作業の妨げとなっている心配事があった。

 それは彼女だけでなく、ジェードにとっての不安要素でもあるのだが、すぐに解決できそうなものでもなさそうだから厄介だった。


 そっと手を伸ばし、アンバーの頭を撫でる。

 するとアンバーは気持ちよさそうに目を閉じて、毛布の中の尻尾を揺らしながらうっとりとしていた。


 この手に触れられると、心配事も少し和らぐ気がしたアンバー。

 二人ならきっと何もかもうまくいくと、夫婦の契りを結んだあの日の言葉を思い起こし、彼女は少し胸が軽くなった気がした。


「じゃあ、僕は首都(カピタラ)まで買い出しに行ってくるからね。君もたまには早起きをして、良妻らしいことの一つでもしてみたらどうだい? 例えば――」


「――例えば毎晩亭主の隣で寝る、とかのう?」


 少しからかってやるつもりが、意表を突く切り返しに言葉を失ったジェード。

 微睡んで目を細めながらもしてやったりな表情の彼女の言うことは、確かに良妻らしいことではあるのだが。

 しかしそれは二人が結婚する前と何も変わっていない。ああ言えばこう言うというか、売り言葉に買い言葉というか、どうあってもアンバーはまだベッドから起き上がる気はないらしい。


「まったく。仕方がないなあ、君という人は」


「疲れておるのじゃ。身体が重たいというか。むしろなぜ主様だけそんなにけろりとしておるのかが不思議なのじゃが」


「あはは。そんな簡単なこともわからないのかい?」


 そう言ってジェードはアンバーと顔を寄せ、そっとキスをした。

 眠そうにしていながらもそれに応え、嬉しそうに尻尾を振ったアンバーは、薄目でジェードを見上げながら口を開いた。


「……いいや、既に知っておった」


「なら、よし」


 そう言って満足げに頷いたジェードはそっと立ち上がり、自分のシャツの襟が立っていることをもう一度確かめながら歩き出す。

 部屋の戸を開けてもう一度振り返った彼は、ベッドの上のアンバーと視線を交えるとそっと呟いた。


「行ってくるね、アン」


「気をつけての、主様」


 部屋の戸が閉じ、愛しい人の姿が消える。

 ジェードを見送ったアンバーは、くすりと小さな笑いをこぼすと、再び毛布の中で身体を丸めたのだった。

わかった方はわかったのではと思います。

十年が経ち、二人もちょっぴり大人になった……というお話でした。笑

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