手を取る魅力
本編第五章のあとくらいの時間軸です。
「アンバーをナンパされてムキになるジェード」というお蔵入りネタの供養です。笑
冬は間近。空の一番高いところから見下ろす太陽も、薄っすらと雲がかかって白く寒く見える。
震えるほどではないものの、内側に着こむ服を一枚増やさなければ少々辛い。
目には見えないはずの吐息が視認できるようになる季節は、そう遠くないうちにやってくるだろう。
真っ赤に色づいていた木々は、足元にはらりはらりとその葉を脱ぎ散らかしていく。
そのまま散らさないでいた方がこれからの季節は過ごしやすいだろうに、なんて的外れなことを考えてしまうのは、種々の防寒具でぶくぶくと膨れ上がっていく人間ならではなのだろうか。
足元でかさかさと乾いた音をたてる落葉。それらと同じ色をした髪の少女――アンバーは、ある建物の外壁にもたれて鼻歌を歌っていた。
厳密には、鼻歌と呼べるかどうかもわからない。この瞬間の思いつきに任せて適当な音を鼻から漏らすだけの澄んだ音色。
娯楽としてはあまりにも物足りないが、妖狐である彼女にとっては、こうして何でもない旋律を奏でるだけの茶番が少しばかり楽しくも感じられていたのだった。
「おや。これは驚いた」
若い男の声にアンバーが振り返る。
その視線の先には、やや光沢のある薄手のジャケットを羽織った赤髪の男が立っていた。
「美しい歌声に誘われて妖精を探していたら、まさか天使に出くわすなんて誰が想像しただろう。よければそれが何という歌か、教えてはもらえないかな?」
パチン、と指を鳴らした赤髪の男は、アンバーに向けてウインクしてみせた。
人間独特の風習や所作というものに未だ詳しいとは言えないアンバーは、片目だけを瞑るその行為の意味が理解できずにいたのだった。
「題などないし、そんなに大したものではないぞ。思いつくままに、適当に鼻を鳴らしておっただけじゃ」
「なんと、即興であの美しさだったとはね。僕はなんて幸運な出会いに恵まれたんだ。君に二物も三物も与えてしまうような、おっちょこちょいな神様に感謝しなければ」
男の問いにアンバーが答えると、彼は長い前髪を掻き上げながら歩み寄ってきた。
そして男は上着の内ポケットから一輪の小さな花を取り出すと、それをアンバーに差し出しながらまたウインクした。
「僕はジョナサン。可憐な歌を止めてしまった罪深い僕を、どうか許してくれるかな、子猫ちゃん」
「ほう、わしが子猫か。面白いことを言うのう」
とりあえず、といった風に花を受け取るアンバーの反応を見た赤髪の男――ジョナサンは穏やかな微笑みを彼女に向けた。
実際のところアンバーは猫ではなく妖狐なのだが、ジョナサンはすっかり人間だと思い込んでいるらしい。
それもそのはず。妖狐であるなどと知られれば、周囲の人間からはどのような仕打ちを受けるかわからない。そのためこれまでの旅でも彼女は、耳や尻尾といった特徴的な部位を隠し続けてきたのだ。
その擬態はまさに完璧。一目見ただけで妖狐だと見抜くことなど絶対にできはしない。
「ところで子猫ちゃん。君は旅の身の上であるように見えるけど、当たっているかな」
「うむ、その通りじゃ。この街にはついさっき着いたばかりでのう」
「そうだったのか。最近は物騒なことも多い。女性の一人旅はさぞ大変だっただろう?」
ジョナサンの言葉に、アンバーは「む?」と小さな声を漏らした。
どうやら彼は、街の中で一人佇むアンバーを見て一人旅をしていると思ったようだ。
しかしアンバーには旅の連れがいる。今は別行動をしているが、そろそろ戻ってくるはずなのだ。
「いや、違うぞ、一人ではない。わしの連れならもうすぐ――」
「――ごめん、お待たせ、アン」
噂をすれば、と言うには絶妙の折。
アンバーとジョナサンの元へ小走りでやってきたのは、微かに湯気の漏れ出る紙袋を持った翡翠色の瞳の青年――ジェードだった。
彼は二人分の昼食を買いに出ていて、ちょうど今戻ってきたところだった。
しかし、戻ってきてみれば見知らぬ赤髪の男がいる。
状況がわかっていないジェードは、ジョナサンとアンバーの顔を交互に見て目を丸くしていた。
「アン、彼は?」
「うむ、主様。この者はジョナサン。さっき声をかけられて、少し話をしておったところじゃ」
アンバーに紹介され、ジェードが「へえ」と答える。
そんなジェードを見て、ジョナサンは口をあんぐりと開けて絶句していた。
「……なるほど、そうか。この試練を乗り越えてこそ、僕は君の隣に相応しいと、そういうことだね、子猫ちゃん?」
「……? 主は何の話をしておるのじゃ?」
思わずアンバーも首を傾げる。
咳払いをして表情をキリリと引き締めなおしたジョナサンは、紙袋を持ったまま呆然と立ち尽くすジェードを勢いよく指差しながら「おい、そこの青髪!!」と声を張り上げた。
「お前が子猫ちゃんの連れだと……? 田舎くさくてぱっとしないこんなヤツが……!?」
「ええと、初対面なのにひどい言われようだね……? 否定はできないけれど」
ジェードは頬を掻き、笑って誤魔化した。
状況は未だわからないのだが、どうやら少し面倒なことに巻き込まれたのかもしれないという予感がする。
そしてジェードのこの手の予感は、残念なことに当たってしまうことが多い。
「これは幸運だよ子猫ちゃん。こんなヤツとなんて縁を切って、僕のところへくるといい」
「主と……? わしがか?」
ジェードの眉がぴくりと動いた。
このジョナサンという男はあろうことか、ジェードの目の前でアンバーを口説こうとしているのだ。
先程までの失礼な態度は笑って流したジェードだったが、これにはさすがに苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「僕はこの街の革産業を牛耳る商会の最高責任者の妹の婿養子の弟だ。家も大きいし金もある。そんな残飯同然のものよりもっと美味いものをたくさん食わせてやれる。そんな安っぽい古着なんかよりもっと豪華な服もたくさん買ってやれる。こんなヤツ、君となんてとても釣り合わないよ。僕ときた方が絶対に幸せになれる。そうは思わないか? 思うだろ? 子猫ちゃん?――」
「――少しいいかい」
にじり寄ってくるジョナサンにアンバーがたじろぐと、ジェードがその間にすっと割り込んでみせた。
ジョナサンは邪魔をするなとでも言いたげな、あからさまな嫌悪の視線をジェードに投げかけてくる。
それでも、ジェードはジョナサンの前に凛と立ちふさがったまま動かなかった。
「どういう経緯でこんな話になっているのか知らないけれど、あまり勝手なことばかり言わないで欲しいな。彼女は"僕の"連れなんだ。ちょっかいを出されて黙っていられるほど、僕はよくできた人間じゃないのだけれど」
「ははん。だからどうするって言うんだ? 別に顔もよくない。力があるようにも見えない。金も持ってない。僕に勝てるものなんて何もないくせに、よくもそんな大口が叩けたもんだ。そうだろ、子猫ちゃん?」
「今君と話をしているのは僕だ。彼女を巻き込むのはよしてくれないか」
「最初からお前なんかに用はないんだよ。さあ、僕と行こう子猫ちゃん。そうすれば君の望みはなんだって叶えられるんだから、迷う必要なんかないんだよ」
ジェードの背後にいるアンバーを覗き込んで声をかけるジョナサン。
その度にジェードは身体をずらしてジョナサンの視界を遮った。
「――すまぬのう、ジョナサン」
ふと、アンバーが一声呟いた。
その一言目で敗北を予感したジョナサンは、またも口をあんぐりと開けて固まってしまった。
「主がどんなものをわしに用意しようとも、きっとわしは満足できぬ。どんなに豪華な飯よりも、わしはこの者と食べる残飯の方が美味く感じるじゃろうし、どんなに綺麗な服よりも、わしはこの者が選んでくれた古着がお気に入りなのじゃ」
そう言ってジェードの陰からひょっこり顔を出したアンバーは、もう言葉も出ないジョナサンに向けて少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「じゃからわしは、主についていくことには何の魅力も感じられぬ。本当にすまぬな」
それだけ言い残すと、アンバーは「行くぞ、主様」とジェードの手を取って歩き出した。
ジェードから見てもこれは意外な結末だった。まさか彼女がジョナサンを選ぶなどと思ってはいなかったが、あそこまできっぱりと言い切って断ってみせるとは。
「なんで……」
固まっていたジョナサンがぽつりとつぶやき、去っていくアンバーの背に向けて叫んだ。
「なんでソイツなんだ!? 僕の何がいけなかったっていうんだよ!? なんでなんだ!!」
「一番の理由は、そうじゃのう――」
もう十分なほど答えたはずの問いを、ジョナサンが再び繰り返す。
その声に、ジェードの手を引いていたアンバーは一度立ち止まり、そっとジョナサンを振り返った。
彼女を見つめる、一人の男の泣き出しそうな顔。そんな情けない男に向けて、彼女は一言答えてみせた。
「――主がわしのことを"子猫"と呼んだから、かの? 口説くならその相手のことはちゃんと見てやったほうがよい。もしかしたらその者は猫ではなく、"妖狐か何か"かもしれぬのじゃからな」
最後の情けで微笑んだアンバーは、ジョナサンからもらった一輪の花をぽいっと投げ捨てた。
ジョナサンはアンバーの言葉の意味をわかりかね、膝から崩れ落ちたままきょとんとしていた。
*****
「……なんでそんなに嬉しそうなんだい、アン?」
「む? そう見えるかの?」
「うん。なんだかにやけているし」
二人で手を繋いで街を歩く。
赤髪の男の姿はまったく見えなくなるほど進んだところで、ジェードがアンバーに問いかけた。
「ふふ。だって主様、少しムキになっておったじゃろ」
アンバーの指摘に、ジェードの顔が熱を持つ。
確かにそれは自覚している。というか、目の前で自分の愛しい人を口説かれて、気分のいい男などいるはずがない。それは当たり前のことだ。
なのにジェードは、それをアンバーにからかわれているような気がしてどうにも極まりが悪かった。相手方についていくはずなどないのに、何をそんなに焦っていたのだ、と。
「おかげで主様がどれほどわしを好いておるかよくわかったからの。嬉しくないはずがなかろう?」
「本当に君は、そういう小恥ずかしいことをよくも堂々と言えるものだよ……」
「先に言うたのは主様じゃろうに」
「あれは……少しムッとなってつい……」
ジェードは顔だけでなく、アンバーが握った手まで真っ赤になっていた。
そんな彼の体温が嬉しくて、可愛らしくて、愛おしくて、彼女はつい歩調を早めていた。




