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帰郷 7/7

全7話のうちの最終話です。

 視覚も、嗅覚も、聴覚も。

 自分の持つあらゆる感覚を研ぎ澄まして、アンバーは木々の生い茂る森の中を駆ける。


 間違えるはずなどない。突然吹いてきた夏風に混じって聞こえてきたのは、他ならぬ妖狐の声だった。

 それがかつての群れの仲間なのか、それとも別の群れなのかはわからない。しかし希望があると分かっている以上、こうして確かめずにはいられなかった。


 幼くして両親を亡くした自分を群れに迎え入れてくれた仲間たちにもう一度会えるのなら、彼女はせめてもの感謝の印として『自分は元気にやっている』と、それだけ伝えておきたかったのだ。


 ふと、アンバーは森の真ん中で足を止めた。

 肩で息を整えながらゆっくりと周囲を見渡すが、妖狐らしき姿はどこにも見えない。

 しかしこの場所には微かに、自分と同じ妖狐の匂いが残っている。近くにいるのは間違いなさそうだ。


 いっそのことこちらから呼んでしまおうかとも思ったが、人間として生活してきた時間があまりにも長いアンバーは、昔の自分が妖狐(きつね)らしい声をどのようにして出していたか忘れかけてしまっていた。

 咳ばらいをし、喉を震わせてみる。するとそれっぽい声は出たものの、なんだか思っていたものと違う気がした。


 ところが彼女の心配とは裏腹に、そんな間抜けな声でも十分事足りたようであった。

 気がつくとアンバーの背後には、茂みの陰からこっそりとこちらを覗く一匹の妖狐の姿があったのだ。

 その妖狐は随分若く、アンバーとの面識はなさそうであった。しかし気がつくと、二匹目、三匹目と新たな妖狐がこちらの様子を窺って顔を覗かせてきた。そしてその中には、かつてのアンバーの群れの仲間の姿もあったものだから、アンバーは感極まってまた泣き出しそうになってしまったのだった。


 すると、一匹の年老いた雌の妖狐がアンバーのもとへ歩み寄ってきた。

 彼女はその昔、アンバーを群れに引き込んで母親代わりに面倒を見てくれた妖狐だった。

 アンバーが両膝をついて手を差し伸べると、彼女はその手の匂いを嗅いでぺろりと舐め、頭を摺り寄せてきたのだった。


『……いきなりいなくなって済まぬ。……ただいま』


 うまく声を発せられず、きちんとそう伝えられたかどうかはわからない。

 しかしアンバーの周囲には、彼女との再会を喜ぶかのように懐かしい顔ぶれが続々と集まり始めていたのだった。




 *****




「まてまてー! うわっ!? こんどそっち!? まってー!」


 川の中の小魚を追いかけ回すサナの後ろを、ゆったり歩いてついていくジェード。

 時折転ばないか心配になるが、母親(アンバー)に似て好奇心旺盛なサナは、珍しいと思ったものには何にでも近づいていく。

 アンバーと違うのはやや飽き性なところで、サナは様々なことに興味を持っては途中で放り出し、また新しいものに近づいていく。

 それでも、自分の真似をして絵を描くことはやめようとしないものだから、ジェードはそれが少しばかりこそばゆいような、嬉しいような気がしていた。


「あれ? おかーさん?」


 耳をぴくりと動かしたサナが、ふと対岸の方へ目を向けた。

 するとそこには、少しだけ目元を赤く腫らしているようにも見えるアンバーの姿があった。

 そして、少し遅れて彼女の背後の茂みから顔を出したのは――


「……妖狐?」


 思わず声に出てしまったジェード。

 事情はわからないものの、アンバーはこの川辺に数匹の妖狐を連れて戻ってきたようなのだ。

 再び飛び石を渡ってきたアンバーは、ジェードに少し照れ臭そうに笑って口を開いた。


主様(ぬしさま)のように、わしも家族を紹介したくての。連れてきてしもうた。構わぬか?」


「僕は別に構わないけれど……彼らの方こそ大丈夫なのかい?」


 妖狐は同族に対して非常に強い誇りを持った尾人(ウェーバ)だ。特にこの森の妖狐たちは駆逐作戦のこともあって、人間に対して決してよい印象を持っているとは言えない。

 アルスアルテで多くの尾人(ウェーバ)たちと関わりを持っているジェードは問題ないが、人間と接触する機会の少ないこの森の妖狐たちが、彼を見てどのような反応をするのかはわからないのだ。


「平気じゃ。主様がわしと番じゃということは伝えてある。滅多なことはせぬじゃろ」


「なら、いいんだけれど」


 妖狐たちも川を渡ってこちら側へやってきた。

 野生の妖狐をこんなに近くで見る機会などなかなかないため、なんだか緊張してきてしまったジェード。

 アンバーやサナ、それからアルスアルテのハーティやハンナと接するのとは大違いだ。


「手を出してみてくれ、主様。心配はいらぬ。わしの家族じゃ」


 アンバーの笑顔で少し心持ちが軽くなったジェードは川辺に腰掛け、歩み寄ってきた妖狐に恐る恐る手を伸ばす。

 妖狐は少しばかり警戒していたようだったが、ジェードの手の匂いを嗅いだかと思うと彼の横にすとんと腰を落としたのだった。


「ほれ、平気じゃろう? この妖狐(もの)は森の群れの長だそうじゃ。わしがおった頃の長はもう死んでしもうたらしい。老いぼれじゃったから仕方ないといえば仕方ないがの」


「へえ、そうなのかい」


 ジェードの隣に座ったアンバーは仲間との再会を喜ぶ一方で、少しだけ寂しそうな顔も見せた。

 ジェードはそんな彼女を慰めるようにそっと頭を撫でる。すると逆側にいた妖狐の長はきゅーんと高い声を発し、ジェードの横腹に鼻をぐいぐいと押し付けて匂いを嗅いできた。


「あはは。どうやら主様は気に入られたようじゃ。これでわしの仲間たちも同じ家族ということじゃな」


「そうだね。妖狐たちが人の姿をしていないからかな。彼らが僕の義理の両親だなんて、ちょっぴり不思議な感じがするけれど」


 プラムの森の妖狐たちはアルスアルテにいる尾人(ウェーバ)たちとは違い、人間の姿に擬態することはめったにない。それは彼らの妖狐としての誇りの強さ故だ。

 そんな彼らが、人間である自分を身内として認めてくれた。その事実が嬉しくて、ジェードは先程から手のひらに頭をぐいぐい押し付けてくる妖狐の長を優しく撫でてやったのだった。


「やーッ! くすぐったい! ちょっとまってって!」


 楽しげな声に振り向いてみれば、サナが一匹の妖狐とじゃれ合っていた。

 相当舐められたのかサナの顔はよだれでべとべとになっているが、彼女はキャッキャと騒いで嬉しそうにしている。

 一度じゃれ合いを止めた妖狐は、今度はサナの横でごろりと横になると真っ白な腹を見せている。

 半分は自分らと同じ妖狐の血が流れているサナをいとも簡単に身内と認めるあたりは、同族愛に溢れる妖狐らしさが見受けられた。


「……本当によかったよ。こうして帰ってこられて」


「そうじゃな。やはり主様との旅は最高じゃ」


 アンバーの左手が、ジェードの右手にそっと重なる。

 ジェードが手のひらを返してそれをぎゅっと握ると、アンバーは嬉しそうに顔を寄せてきた。


「これからもいろいろなところへ連れて行ってくれるのじゃろう、主様よ?」


「もちろんさ。でも今度からは二人旅じゃない。サナも連れて三人で、美しい世界をもっとたくさん見に行こう、アンバー」


 ジェードの言葉を受け、満足げに微笑んだアンバーがそっと目を閉じる。それを合図にジェードは、彼女と自分の唇を優しく合わせてみせた。

 その行為の意味がわからず首を傾げた妖狐たちは、ふわふわと尻尾を揺らしながら二人をじっと見つめていたのだった。


「あーッ!! おとーさんとおかーさんチューしてるーッ!!」


 妖狐とじゃれ合っていたはずのサナが突然声を上げる。

 そして唇を離したジェードとアンバーは、鼻が触れる距離のままで照れ臭そうにくすくすと笑い合った。


「あらら。とうとう見られちゃったね」


「まあ、よいではないか。今日くらいは」


 両親がべたべたとくっついているのに嫉妬したのか、サナは仲間に入れろと言わんばかりにジェードの背に飛びついてきた。

 さらにはサナと遊んでいた妖狐がそれにつられて飛び掛かってきたものだから、ジェードは倒れ込みそうになってあたふたと両手を振り回していた。その様子が可笑しくて、アンバーがついに腹を抱えて笑い出してしまったのが、ジェードには非常に小恥ずかしかった。


 そんな変わり者一家の幸せな笑い声が、蒸し暑い風と涼しげなせせらぎに溶けて消えるようなひと夏の物語。

 幸せすぎるくらいに幸せな彼らの物語だが、これはそのうちのほんの一頁に過ぎないのだ。

お付き合いいただきありがとうございます。わさび仙人です。


今回のお話は、本編の連載開始当初からずっと「完結後の番外編で回収するんだ」と決めていた第一章の伏線に触れるものでした。

お読みいただいた皆様に、ジェードやアンバー、サナの幸せな日常を少しでもお届けできていたら嬉しいです。


以上一言だけ、わさび仙人でしたー!

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