その男、限界につき
均衡が崩れたキッカケは、律と佑の会話だった。
夜更け。
論文を書いていた遥は、必要な資料を佑に貸していたことを思い出した。
(アイツ、まだ起きてるよな)
”子供は22時には寝ろよな、22時から2時までには就寝して。8時間の睡眠が脳を活性化させるんだぞ”と。
いつも言い聞かせていたが。
世界への関心覚めやらぬ佑は、こっそりと朝の4時近くまで起きていることも珍しくはなかったからだ。
わざと詰ったら、”それを知ってるって、どうなんだよ”と逆襲されたっけ。
そのあと、二人でリビングの床で大の字になって眠っていたのだった。
くすり、と遥は微笑んだ。
--その後。誰かが二人にブランケットを掛けてくれていたのには、知らんふりをしたが。
少年の部屋に近づくと、ぼそぼそと佑の部屋から話声が聞こえた。
(アイツだ……!)
瞬時に心臓が轟いて、遥はくるり、と元の道を戻りそうになった時、あの男の言葉が耳に飛び込んで来た。
「佑。私は覚悟を決めた。私はもう一度恋に堕ちた。彼女を全力で口説く」
(っ!)
遥は咄嗟に身を隠して。慌てて口を塞いだ。
--そうしなければ、叫び出してしまいそうだった。
「……今までの母さんのことは、諦めるの」
覚悟を問う、少年の低い声。
(やっぱり、佑は”俺”の子供だったんた……!)
湧き上がる誇りと愛おしさ。
だが、まだ続いている男と子供の会話に、遥は注意深く耳をそばだてた。
ぎゅ、と握り込んだ掌に爪が喰い込む。
「ああ」
決然と答えた男の声に、諦めたような。それでいて熱がこもっているのは気のせいだろうか?
(あの男がっ。”俺”のことを諦める……?)
朗報だった筈なのに、躰の半分が引きちぎられるような痛みを憶えた。
はあ、と少年がため息がてらに応えた。
「好きにしてよ。……それで父さんが幸せになれるのなら、僕に文句はないよ」
「佑、お前は。新しい母さんを迎え入れることは出来るのか?」
緊張を孕んだ男の声。
遥の心臓も厭な拍動を刻む。
そのランダムな動きに、吐きそうになった。
「仕方ないよ。父さんがそう決めたのなら。僕は……、今までの母さんを諦めたくはないけど。従うよ」
ふう、と吐き出した少年のため息に、遥は母への決別を感じ取った。
(佑がっ、新しい母親を、あの男が次の妻を娶るのを認めた……っ)
佑は、自分の100%味方だと思っていた。
何があっても、”律より自分を選んでくれる”と。根拠なくそう信じ込んでいた。
だが、佑は。
(俺より、アイツの幸せを取った……)
「ありがとう」
男の声が、穏やかに息子に感謝を述べるのを聴きながら、遥は足元が崩れ落ちるような気持ちになっていた。
月が青く、辺りを照らしていた。
日中は太陽の光に温められて生命の賛歌を力の限り謡っている庭は、銀色の妖精の粉を振りかけられたように、幻想的な世界になっていた。
しんしんと、冷たさが降ってくる。
ほろほろと流れる、遥の涙だけが温かい。
ぎゅ、と遥は自分の膝に顔を埋めた。
さく、と草が鳴った。
(また、あの夢が来た)
もう夢じゃないことはわかっていた。夢の中の人間が、”あの男”だということも。男が、遥の隣に腰かける気配がした。
「月が綺麗だな」
「……」
「遥。この数週間、君は何を考えてた?」
(アンタのことを)
遥は更に深く顔を埋めた。
男が静かに尋ねてきた。
「……数週間、一緒に暮らしてきて。私の事を、どう思った……?」
(答えられる訳がない!)
この世で一番憎たらしくて一番愛おしいなんて。
(新しい妻を娶ると決めた、アンタにっ!)
「私は。君のことをずっとこの数週間見つめていた」
(……っ、)
見つめて……諦めた、と言いにきたのか。
(仕方がない。”俺”は俺で。かつてアンタの妻だった久遠 遥とは別人なんだからっ)
もう、遥と律の路は分かってしまったのだ。
(俺がコイツを拒まなかったら。記憶を失くしても”妻”としてコイツの傍に居られたのだろうか)
自分を見ながら素通りして、過去の幻影を視ようとする律と暮らして。微笑んで生きていけるのだろうか。
きっと、人形のように笑みを貼りつかせたまま、生きていくに違いない。
(厭だっ)
死者でも太刀打ち出来ないのに、相手が過去の自分では。
どうあっても勝てる気はしなかった。
律の前に、自分は生きて動いてるのだから。
(まるで。一卵双生児の代わりに、と乞われて嫁になったようなものだ)
律も、そんな幻影に見切りをつけた、ということなのだろう。
「君は記憶を喪っても、輝いていて。生き生きとしていて。研究への情熱を燃やし続けて。私達親子に心を砕いてくれていた」
君が食事当番の時に、こっそりと早起きして私の分を作ってくれてたのは知ってたよ、と男は言った。
(知ってたのか)
ほわ、と遥の胸が温かくなった。
それだけでも、この家から出ていける、と遥は思った。
(そうだ。新しい奥さんが来るのなら、俺は出て行かないと)
慰謝料代わりに、自分の預金通帳を持っていっても、文句は言われないだろうか。
「君を見続けて、私は決心したんだ」
遥は自分の考えを追っていて、律が呟いたことを聞き逃してしまっていた。
(え?)
「私は君に、また恋してしまったんだ」
(!)
遥は膝の間で眼を見開いた。
「今までの久遠 遥ではなく。この数週間一緒に暮らしてきた、吉住 遥に。私はもう一度恋をしてしまった」
(嘘……っ)
嘘というには、男の声はあまりに甘く切ない声だった。
「遥。これからの人生を私にくれないか?新たに、”久遠 遥”として私と人生を共に歩んでくれないか?」
どきどきどき。
心臓の高鳴りが納まらない。
「遥」
律の手が、そっと遥を抱き起した。
遥の真っ赤な瞳を見て、男が眉を顰めた。
「……遥?泣いていたのか?」
遥はそれには答えず。
「……に?」
「え?」
「本当に、俺を選んでくれるの?」
そうか細い声で遥が尋ねると、律が破顔して答えた。
「君がいいんだよ。私には君と佑しか要らないんだ」
「律司さん……っ」
遥の双眸から、また涙があふれた。
しかし、今度の涙は、先ほどの苦い涙ではなく、甘い歓喜に満ちた涙だった。
律の手が、そっと遥の頬から涙を掬う。
そして。
「「……」」
男の唇が、遥の唇を覆った。
ふわ、と男のフレグランスが薫って。
長い睫が、さわさわと遥の顔を擽った。
くるくる、と遥の髪を指に巻き付ける仕草。
(あ)
このキス。憶えてる
瞬間。
『なっまいきだなーなんだよ、オマエっ』
『オマエとはなんだ、年上に向かって!生意気なのはそっちだろう!!』
『年上ぇえ?ふざけんな、私はここの大学院生だっての!』
『え……中等部生の間違いじゃないのかっ?!』
『むっきーーーっ!そっちこそ高等部のくせに生意気なっ』
『誰が童顔だ!私はここのドクターもオーバードクターも卒業してるッ』
『わ、私だって22歳なんだからっ映画だってちゃんと大人料金払ってるんだからねっ!』
『『……マジ?』』
律とのファーストデート。
初めてのキス。
初めて……、夜を共にした後、二人で見た暁の空。
『吉住 遥嬢。私、久遠 律司の妻になって貰えませんか』
『……謹んでお受け致します』
ブライダルシャワーと祝福の嵐。
そして二人の生活を始めてから数か月後に、新たな生命が宿ったことを告げた、あの神聖なる夜。
戦火の中、遥は夫が怒鳴り散らすのを初めて聴いた。
『遥っ、なんでついてきたっ!!』
『貴方が居る処が私の生きる場所なんだからっ当然でしょっ』
『~~~っ!危険な場所なんだ!命を落とすかもしれないっ』
『そんな処に、たった一人で。私を置いて、行かないでよッ!』
『……あんのー。俺も一緒なんだけど』
『『黙っとれ!!』』
ほぎゃあっ、ほげぁああっ
疲れ切っていたが、命の誕生を知らせる力強い泣き声に、涙がとめどなく溢れた。
覗き込んで来た夫の双眸も涙に濡れていて。
『遥っ生まれたっありがとう……っ!!』
『……どっち?』
『可愛い男の子だよ』
『残念なことに律にクリソツ。ほんと、律のミニチュア版』
『ああ、本当に残念だ。遥に似て欲しかった……て、静!神聖なる産褥に勝手に入ってくるなっ』
『なんだよー、もう処置終わったんなら大丈夫だろー。それより看護士と助産師が苛々してドアの外で待ってるぞぉ』
佑のおむつ替えもお風呂も自分がやるんだ、と言ってきかなかった夫。
しまいには『授乳をしたい』とまで言い出して、周囲に生暖かい眼で睨まれていた。
律と研究について激論を戦わせた日。
二人でピザの端から食べ合って、唇が触れ合い、そのままキスをしたこと。
喧嘩をして仲直りのキスをするのが暗黙の約束になった。
おはようのキスと、「行ってらっしゃい」のキスと「お帰り」のキス。
そして、おやすみのキス。
怒涛のように、記憶の奔流が脳内を渦巻いた。
「遥……」
「律」
妻の言葉に、律はは、と眼を見開いた。
「遥っ!思い出したのかっ?」
「タッキーに言ってたのは、記憶を喪った私を口説いて再婚する、てことだったの?」
遥は、悪戯めいた光を双眸に宿らせた。
”タッキー”。
記憶を喪する前の遥は、息子の佑をこう呼んでいた。
(以前の遥だっ)
「遥っ!!」
律は遥をがば、と抱き上げると、庭をぐるぐるを回った。
バン!と荒々しく上から窓が開く音がして、二人の愛しの息子が怒鳴った。
「そこの馬鹿親父っ煩いよ、安眠妨害だろっ」
遥は律の腕の中から、陽気に息子に呼びかけた。
「はーい、タッキー!一緒にあそぼ―!!」
は、と佑が眼を見開いた。
すると、律が怒鳴った。
「戻ったんだよ、遥の記憶が戻ったんだ!!」
すると何を思ったか、佑は首を窓からひっこめた。
「親のバカ騒ぎに付き合ってられるか!僕は寝るからねっお休みっ!!」
そして開けた時以上に荒々しく窓を閉め切ったのだった。
「「……」」
二人の男女はしばし、息子の部屋を仰ぎ見て。
やがて、顔を合わせてふふ、と笑いあうと。
また、唇を重ね合わせた。
「遥。愛してる」
「俺も、愛してる。律……」
「君ねえ。記憶が戻ったのなら、”俺”はやめたまえよ」
はああ……、と夫がわざとらしくため息をつくと、妻は。
「やだっ!!」
陽気に叫んだのだった。
そうして、いつまでもくるくるとお互いの腕の中で、はしゃいでいる二人を、月がじっと見降ろしていた。
Fin.




