【エピローグ】
丸豪バスを退職し、一通りの手続きを終えてしまうと、過去の事ばかりを思い出した。
定年まで働いたが、予想通り、形ばかりの役職をつけてもらっただけで、大して出世もしなかった。
西谷さんは、去年亡くなった。
亡くなる前の年、西谷さん宅を訪れた。夫婦で旅行が好きで、まだまだ行きたい場所があるのに、先に足が弱ってしまった、と、自嘲気味に笑っていた。
「名越君も、行きたい場所があるのなら、行けるうちに行っておいた方がいいよ」
それが、西谷さんと交わした最後の会話だった。
行きたい場所、といわれて、ずっと引っかかっていたことを、改めて思い出した。俺の人生の、小さな棘。
間もなく梅雨入りというある日、電車を乗り継ぎ、梶宮の故郷を目指した。
梶宮の故郷は、市街地から山を越えた場所にあり、田畑が広がっていた。
自宅の住所も、電話番号も控えてあったが、特に連絡はしなかった。
会って、話すこともないし。
ならば、俺は何をしにこんなところまで来たのだろう。
駅舎から見下ろすと、ロータリーをバスが行き交っていた。
といっても、さほど広くもなく、バス停の数も少ない。
ロータリーの周囲の店も、居酒屋やカラオケ、パチンコ店が入るビルがぎっしりと並ぶ俺の育った町と比べると、どこかのんびりとした雰囲気。
一応コンビニはあるものの、和菓子店に銀行、古い本屋。タイムスリップしたような長閑さだ。
と、思わず息をのんだ。
和菓子店から出てきたのは、梶宮。
さすがに、老けた。けれど、見間違いじゃない。休みなのだろう、Tシャツに薄手の綿のシャツを羽織っている。
偶然だな、と内心驚きながら、声をかけるべきか、迷っていた。
梶宮は、和菓子店の前のベンチに腰かけると、店内で買ってきたのだろう、白い紙の袋から、桜餅を取り出した。透明のビニールを剥がし、それをそのまま皿代わりにしてベンチに置く。
次に、ペットボトルの茶を取り出し、キャップを開けた。
そこまでは、「この時期に、桜餅?」という以外、特になんの違和感もない。が、次の行動には、きっと誰もが疑問を持つ。
梶宮は、外したキャップに、慎重にお茶を注ぎ、やはりベンチに置いたのだ。桜餅と、ペットボトルのキャップに注がれたお茶。あいつは、何をしているのだろう。
梶宮は、ペットボトルに直接口をつけて、茶を飲み、袋から黒い四角いもの――羊羹かと思ったが、どうやらきんつばだったらしい――を取り出して、口へ運んだ。
一人できんつばを食い、ペットボトルのお茶を飲む。その隣には、ビニールを剥がした桜餅と、キャップに注がれたお茶。
突然、慌てたようにきんつばと桜餅をビニールで包み直して紙袋へ戻し、キャップのお茶をすっと飲んでペットボトルに蓋をし、ベンチを立って小走りに駆けだして、そして、ちょうど入ってきたバスに乗り込んだ。
今の行動は、なんだったんだ? いい年をしたおっさんが、おままごと?
梶宮を乗せたバスが、ロータリーを出ていく。茫然と見送るバスの、そのとある一つの窓から、視線が外せなくなった。
にこにこと、桜餅を頬張る少女。高校生くらいだろうか、黒い、真っ直ぐな髪。あの日、夢で見た少女に、とてもよく似た。
バスは、西日を反射して一瞬金色に煌めき、灰色の煙を吐いて遠ざかっていく。
菓子などやったら、道ができてしまうだろうに。
離れられなくなってしまうだろうに。
彼女は、梶宮と繋がり、あの場所から離れることができたのだろう。
辞めると告げに来た日の梶宮を思い出す。
心ここに非ずというように、憔悴しきって、まるで、操られるように立っていた。今になって思えば、梶宮をあの地から引き離すための「なにか」があったのかもしれない。
けれど、これで、よかったのかもしれない。もうこれから先、枕森に誘われ、行方知れずになるヤツはいなくなるだろう。
梶宮。
お前は、お前たちは、そのバスに乗り、どこへ行こうとしているんだ?
安堵の奥で、なぜか無性に悲しくて、人通りから隠れるように俯いて顔を手で覆い、少しだけ泣いた。