第33話:『アジャストメント』
「純血のネアンデルタール……旧来の人類システムそのものを塗り替える権利と義務が、私たちにはあるのよ」
神殿最深部、統括室。
古代の遺構と冷徹な近代サイバネティクスが歪に融合したその空間には、重力すら歪めるような濃密な威圧感が張り詰めていた。
ヘレナが放った傲岸不遜な選民宣言――その冷酷な余韻が静まり返る室内にまだ漂っていた、まさにその時だった。
室内のメインフレームが突如として脈打つように紅く発光し、甲高い割り込みアラートがけたたましく鳴り響いた。
――ピピピピピッ、ファン、ファン、ファン。
無機質なシステム警告音に呼応し、虚空へ幾重もの半透明ホログラムウィンドウが乱れ咲くように展開される。警告インジケータが激しく点滅し、通信プロトコルの強制割り込みを告げていた。
『――緊急通信。ジパングセクター中央局より、プトラセクター経由・優先回線接続』
『暗号化セキュリティレベル・オミクロンをバイパス。緊急プライオリティコールを受信』
ヘレナは不快そうに細い眉をひそめ、舌打ち混じりに細い指先で手元のコンソールをタップした。
「……こんな時にどこからの横槍かしら。私の認証領域に割り込んでくるなんて」
手元の端末に流し込まれる暗号化テキストをデコードし、ディスプレイに映し出された情報を一瞥した瞬間――ヘレナの美しい顔立ちが劇的な変化を見せた。驚きは即座に醜悪な嗜虐心へと塗り替えられ、その端正な唇が三日月のように吊り上がる。
「……あら。思わぬところから、実に興味深いデータが飛び込んできたわね」
ヘレナは愉悦に喉を鳴らしながら、ゆっくりと顔を上げた。
拘束具の電磁ロックによって自由を奪われながらも、微動だにせず直立し続ける俺へと、ねめつけるような視線を注ぐ。
「怜くん。あなたの生まれ故郷――ジパングセクターからよ。中央治安管理局および救急医療統括局から、至急の安否確認と直系親族への緊急対応要請が届いているわ」
「……何の話だ」
俺は眉一つ動かさず、平板な声音で問い返した。感情の起伏を一切排したその問いかけすら、ヘレナには強がりに見えたのだろう。彼女は大仰に肩をすくめ、嘲笑をたっぷりと含んだ吐息を漏らす。
「とぼけなくてもいいのよ? あなたの父親の話よ。――先ほど、ジパングセクター第13居住区の市街地路上で突然倒れ、意識不明の状態で救急搬送されたそうよ。バイタルデータは急降下。不可逆的な中枢神経および心肺機能の重篤な損傷……要するに、現代医学をもってしても生命維持が極めて困難な、重大な身体機能破綻だわ」
「なっ……!?」
息を呑み、絶句したのは俺の背後に控えていた歩実と由奈だった。
「怜くんのお父さんが……!? そ、そんな、急に……!」
歩実は青ざめた顔で両手を胸の前で握りしめ、信じられないといった瞳でホログラムを見つめている。
「怜! 今すぐジパングの回線に繋ぎ直して状況を確認しないと……! 救急の代理サインや延命措置の承認権限は、直系血族であるあなたにしかないはずよ!」
由奈もまた取り乱し、駆け寄ろうとして拘束フィールドの衝撃波に弾かれ、悔しげに床を踏みしめた。
仲間たちの取り乱し様を目の当たりにしたヘレナは、勝利を確信したかのように喉を震わせて笑った。その声音は極めて甘美で、毒々しい。
「ふふ……あはは! 見ていられないわね。これだから旧サピエンス特有の非合理的な血縁バイアスは厄介なのよ。遺伝子の乗り物に過ぎない個体に情動を縛られ、大局を見失う。……放っておけば、あなたの父親は数時間も持たずに『廃棄』されるわね」
ヘレナはゆっくりと歩み寄り、俺の眼前数センチの距離で立ち止まった。見下すような冷たい瞳が、俺の網膜を刺し貫こうとする。
「どうするの、怜くん? 今すぐ私に平伏し、ネアンデルタール復権の全権限を放棄してジパングセクターへ引き返したらどうかしら。今ならまだ、温かい父親の遺骸を抱いて泣き叫ぶ時間くらいは残されているかもしれないわよ? 親の死に目にすら立ち会えず、こんな地の果てで無意味な抵抗を続けて野垂れ死ぬなんて――あなたたち旧サピエンスの道徳基準に照らし合わせても、最悪の結末じゃなくて?」
精神の急所を抉り、思考を麻痺させ、戦意を完全に喪失させようとする心理的包囲網。
言葉のナイフが次々と突き立てられる。
だが――。
張り詰めた沈黙の中、俺の表情筋はピクリとも動かなかった。
動揺も、怒りも、焦燥も、悲哀すらも。コンマ1ミリの揺らぎすら、そこには存在していなかった。
俺の瞳に宿っていたのは、ただ冷徹に事象の推移を計算する、絶対零度の静寂だけだった。
「……」
「……何よ、その顔は? ショックで言葉も出ないかしら?」
怪訝そうに眉をひそめるヘレナに対し、俺はただ淡々と、喉の奥から乾いた声を落とした。
「……それだけか」
「なんですって?」
ヘレナの嘲笑が微かに引きつる。俺は感情を完全に切り離した観察者の眼差しで、彼女の双眸を真っ直ぐに見据えた。
「父親のバイタル低下、社会的機能の停止。その程度の事象、すべて想定のパラメータ内だ。あらかじめ予測される破綻データに基づき、ジパングセクターの公的医療費助成の申請、身元引き受けに関するサードパーティへの外部委託プロセスは、すべてスクリプト化して組んである。俺の直接介入コストはゼロ。すでに全て――『アジャスト(調整)済み』だ」
「な……アジャスト……? 父親の命が消えかけているのよ!?」
「生命維持の可否は確率論に過ぎず、俺がその場に物理的に存在したところで生存率の係数は変動しない。合理的感情論に基づかないタスクに割くリソースは、今の俺にはコンマ1ミリ秒たりともない」
凍りつくような俺の返答に、ヘレナは絶句した。
情動を揺さぶって主導権を握るはずだったプランが、根底から粉砕されたのだ。
旧サピエンスらしい情緒を盾にした攻撃が、完全にシステム化された論理の壁によって無力化された瞬間だった。
俺は凍りついたヘレナを見下ろし、不敵に口元の端を吊り上げた。
「――俺の家庭環境の心配をしてくれるのはありがたいが、そんな無駄なリソースを割く暇があるなら、自分の足元をスキャンしたらどうだ」
「……何が言いたいのよ」
「今すぐ、お前のその端末のウェブ閲覧アプリを開け。そして検索バーに――『HAYNSR』と入力してみろ」
「……は? 『HAYNSR』……?」
脈絡のない文字列を突きつけられ、ヘレナは不審に目を細めた。罠を警戒するように躊躇いを見せたが、俺の揺るぎない視線に気圧され、抗うようにコンソールへ指を滑らせる。
『HAYNSR』
独立隔離ネットワークであるはずの神殿内システムから、外部のグローバル・インフォメーション・グリッドへのクエリ送信。
エンターキーが押下された直後――ヘレナの指先がピキリと静止した。
「……これ、は……?」
ヘレナの瞳が大きく見開かれ、完全にフリーズする。
画面に表示された検索結果。
そこには、神殿の超高次セキュリティによって存在しないはずのインデックス、完全に隠蔽されていたはずのプロトコルをすり抜け――わずか1件の、極めて奇妙なデータがヒットしていた。
表示されていたのは、約30秒の極小音声ファイル。
統括室を支配する、重苦しい静寂。
ヘレナは得体の知れない悪寒に喉を震わせながら、警戒を剥き出しにして、恐る恐るそのサムネイルをタップした。
――カチリ。
次の瞬間。
冷徹を極めた統括室の全指向性スピーカーから、ノイズ混じりに、だが鮮烈な透明感をもって、その『音楽』が流れ始めた――。
(第34話へ続く)




