第17話:サピエンスたちの境界線(第1章総集編)
世界を隔てる因果律の数式が、コンマ1ミリ秒の間隙で書き換わったあの日から、私の世界は完全に一変した。私、穂波歩実の脳内インデックスには、あの歪んだ日本で起きたすべての事象が、未だ鮮烈な断片データとして記録されている。――事の始まりは、絶望の「クビ」宣告だった。社会の最底流、使い捨てのパーツとして虐げられてきた「派遣」の記号。それを背負わされていた漣怜という染色体XYが、世界のシステムそのものを掌握し、逆襲を開始したのだ。あの上流サピエンスどもが貪り食う欺瞞に満ちた社会システムに対し、怜くんが仕掛けた最初のカウンターは、あまりにも冷徹で、そして完璧な「大ザまぁ」だった。日本国政府の過半数と傲慢なマスコミが集まる秘密の円卓会議。彼らが超有能人材である私たちを拉致し、強制確保しようと目論んだ瞬間、彼らの手元のタブレットは強制ジャックされた。確定申告データと内部監査ロジックの暴露。そして日本人材派遣協会へ突きつけられた『即時登記抹消』の鉄槌。『お前ら派遣会社のお得意の切り捨てロジック、今度は自分たちが実体験しろ』あの時、日の丸のロゴをマウントした専用端末の前で、紙媒体の原稿しか持たない旧時代の評論家や議員どもがぐうの音も出ず完全沈黙した光景は、脳内メモリの特等席に今も格納されている。だけど、私にとって本当の「バグ」が起きたのは、日吉津の巨大複合商業モールでの出来事だった。世界的な超インフレで通貨価値が崩壊し、底流サピエンスが物物交換で飢えを凌ぐディストピア。そんな中で手に入れた旧世代の上司からの戦利品――仮想通貨ICカードの資金を、怜くんは海外取引所や国際的なマルチカレンシー送金口座、北方権力体の『現地の電子決済サービス』をハッキングして瞬時に『Patriot (パトリオット)』のルーブルへと多重偽装トランザクションしてみせた。そんな極限の戦いの最中だというのに、私は、怜くんに「普通の女の子」として見てほしくて、普段なら絶対に着ない量産型女子のアパレル記号に身を包んだ。彼の心のオアシスになりたいなんて、天才ヒロインの演算回路としては完全にオーバーヒート。心拍数150 OVERの警告ログが網膜を真っ赤に染めていた。『歩実のいいところ、自分で否定すんなよ。俺は俺。歩実は歩実なんだよ』ぶっきらぼうに私の存在を全肯定してくれたあの言葉が、どれだけ私の救いになったか、怜くんはきっと一生気づかない。そして、私たちは先代AIの罠に気づいた。まとまったアーカイブ情報を世界にマウントすれば、即座に修正パッチが割り込んで世界線ごと都合よく改変されてしまう。だからこそ、脳内メモリを断片化し、足跡のつくの新型電子渡航認証(E-クラス・マスター)を捨てて一般査証の特急取得へと切り替える、コンマ1ミリ秒のアジャストを仕掛けた。旅行会社から届いた、私たちの名前がキリル文字で綴られた確認メール。
『РЕЙ САЗАНАМИ / АЮМИ ХОНАМИ』現実の恐怖に震える私の手を引き、怜くんは言った。『大丈夫だ。だからもう心配するな』と。私がスマホの画面をタップした刹那、世界を縛っていた[192:00:00]の檻は爆破され、強固な二四日間のタイマー――[576:00:00]へと上書きされたのだ。だが、そこはゴールではない。先代AIが世界規模のデータセンターを徴用し、計算資源を逼迫させてまで仕掛けてくる追跡の包囲網。その先にあるのは、日本の甘い支配層とは格が違う冷酷な上流サピエンスが支配する、マイナス四〇度の完全ネットロックダウン都市――ヤクート・コア。潜伏先のホテルは『窓が南側』、申請したのは『ダブルビザ』。怜くんが仕込んだこの不可解な伏線が、一体どんな未来をこじ開けるのか、私の脳内インデックスはすでに、次なる極限のハッキング戦への高揚感で脈打っている。日本を捨てた旧世代サピエンスの、本当の反撃は、ここからだ。(第2章・ヤクート・コア編へ続く)
[最高設計者より世界線アナウンス]本データ(物語)の絶対座標は、すでに旧世界のグローバル・クローラー網(全方位の広域インフラ網)によって完全にロックオン(捕捉)されている。観測者は、旧世紀の検索アーカイブに本作の『識別コード(タイトル名)』をデプロイしてみるがいい。トップレイヤーに君臨する本作品の存在確率を、その目ですべて証明できるはずだ。




