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第12話 悪役聖女と嵐のあとさき

 深い眠りの底から、ふわりと意識が浮上する。

 最初に感じたのは、身体を包むシーツの柔らかな感触と、窓から差し込む陽光の暖かさだった。

 重く沈んでいた身体が、少しだけ軽い。空っぽだった器に、再び水が満たされていくような、穏やかな回復の感覚。

 ゆっくりと瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、豪奢な天蓋と、緻密な彫刻が施された天井だった。


(……アンスバッハ、邸)


 そうだ。クロードに半ば強引に連れてこられ、馬車の中で私は……。


「お目覚めになられましたか、リディア様!」


 傍らで控えていた侍女が、私の覚醒に気づき、ぱっと顔を輝かせた。見慣れない顔だ。アンスバッハ家の使用人だろう。


「すぐにクロード様をお呼びしてまいります!」


 彼女はそう言うと、慌ただしく部屋を出ていった。

 一人残された部屋で、私はゆっくりと身体を起こす。まだ倦怠感は残っているものの、あの極限の消耗状態からは、明らかに脱していた。


 ほどなくして、クロードが部屋に駆け込んできた。


「リディア様! ご気分はいかがですかな」


 彼の顔には、疲労の色はなく、ただ純粋な安堵と喜びが浮かんでいる。その表情に、私は少しだけ拍子抜けした。


「……わたくしは、どのくらい眠って……」

「三日です」

「みっか!?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。三日間も、意識を失っていたというのか。


「ご心配には及びません。我が家の侍医によれば、極度の魔力枯渇と疲労によるもので、命に別状はないとのことでした」


 クロードはそう言うと、安堵のため息をついた。


「クレスメント家には、侍女殿を通じて『賓客として手厚くおもてなししている』と連絡済みです。王宮にも、リディア様は体調不良により、我が家で静養中であると公式に発表させました」


 彼の言葉に、私は目を見開いた。

 つまり、あの断罪劇は、完全にうやむやになったということだ。


「アルフォンス殿下は、表立って手出しができず、相当ご立腹のようですが」


 クロードが、わずかに口の端を上げて笑う。その表情は、以前の彼からは想像もできないほど、生き生きとしていた。


 ……やったんだ。私は。命がけの行動は、無駄じゃなかった。最悪の結末を回避し、未来を変えるための「時間」を、確かに手に入れたのだ。


 安堵したら、急に空腹を覚えた。私の腹の虫に応えるかのように、食事が運ばれてくる。鶏肉と野菜がたっぷり入った、黄金色のコンソメスープ。見るからに胃に優しそうだ。


 一口、スプーンで掬って口に運ぶ。


(……うっっま……!)


 滋味深い、とはこのことか。野菜の甘みと、鶏の出汁が、疲れた身体にじんわりと染み渡っていく。これが公爵家の病人食……私の前世の給料日に食べていたディナーより、よっぽど豪華で美味しい。


 夢中でスープを飲んでいると、部屋の扉がノックされた。


「リディア様、お見舞いにいらっしゃいましたよ」


 エリーゼが、満面の笑みで部屋に駆け込んできた。その後ろから、なぜかライナーも気まずそうな顔でついてきている。


「リディア様、本当にありがとうございました!」


 すっかり顔色の良くなったエリーゼは、色とりどりの花束を私に手渡してくれた。その純真な感謝に、どう反応していいか分からず、ただ「ええ」と頷くことしかできない。


「なぜ君までここにいる、ライナー卿」


 クロードが、不機嫌そうな声でライナーを睨む。


「あんたに関係ねえだろ。俺は聖女様の見舞いに来ただけだ」


 ライナーはそう言うと、ずかずかと私のベッドの傍までやってきた。


「聖女様、顔色がだいぶ良くなったな。アンスバッハ家の飯も、まあまあ食えるみてえで何よりだ」

「当然だ。最高の料理人を用意している。君の領地でかじっている干し肉とは、訳が違うのでね」

「んだと、てめえ……!」


 また始まった。私のために、ではないのだろうが、二人の間で火花が散っている。その光景を、私は、どこか遠い世界の出来事のように眺めていた。


 孤独だった悪役聖女。誰からも愛されず、疎まれ、一人で戦っていたリディア。その彼女の周りに、今、人が集まり始めている。彼女を心から慕い、心配してくれる人たちが。


 窓の外に広がる、アンスバッハ家の美しい庭園を見つめる。


(破滅フラグは、回避できたのかもしれない)


 でも、この状況は、ゲームにはなかった、全く新しいルートだ。この先に何が待っているのか、もう、ゲームの知識は教えてくれない。


 私の本当の戦いは、あるいは、ここから始まるのかもしれない。一抹の不安と、そして、確かな希望を胸に、私は久しぶりに、穏やかな光の中で息をついた。

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