終章
二ヵ月後。
惑星居住参画特区を中心に、地球のあらゆる国々で、大きな二つのニュースが報じられた。
一つは、第五十二回【舞闘会】・クライマックスシーズンの結果発表。
最終戦に勝ち進んだプリンセス・シェラ対プリンセス・オウンの試合は、オウンの三勝により決着がついた。
これによりオウンの所属するキャンベラ第一特区の住民は、火星移住の権利を獲得。住民たちは数ヵ月間に及ぶ宇宙飛行センターでの渡航訓練を経て、火星へ旅立つこととなる。
そしてもう一つは――。
「フジさん、ここでっ! ここでいいっ!」
「はい。お気をつけていってらっしゃいませ」
送ってくれた藤のタクシーから、ガードルートは慌てて飛び出した。
足がもつれ、転びそうになりながら、ガードルートは懸命に走る。
二ヶ月前の賑わいが嘘のように、多くの住民が消えたその街――日本国・第十一特区。
アイスクリームショップも、クレープ屋も、何もかもが姿を消したあの駅前広場に、彼女はいた。
「――クラリッサ!!」
振り返ったプリンセス・クラリッサは、驚いた表情でガードルートを出迎えた。
「ガードルート……!? わたしのために見送りにきてくれたの? 嬉しい!」
「うん。なんか勘に触る言い方だけど、特別に認めてあげる」
すぐに驚愕を笑顔に変えたクラリッサの顔は、最後に会った二ヶ月前と変わりない。痩せてたり太ってたりしたら、なんて言葉をかけよう。そんなガードルートの心配は、杞憂に終わったようだ。
クラリッサの綻ぶような笑みに、ほんのわずかに気遣わしげな曇りが差す。
「――ねぇガードルート、二位決定戦……あれで、良かったの?」
「うん、それはいいの。別に」
最終戦で三勝したシェラと、二勝のガードルートはシーズン終了時、全くの同点だった。
しかし、二位決定戦は行なわれなかった。ガードルートが不戦敗を申し出たためだ。
そのことに関して、今更何のこだわりも後悔もない。それよりも、とガードルートは話を折った。
「わたしのことより……。あの……ごめん、なんて声かけていいかわかんないけど……残念。とても」
「――うん」
クラリッサは表情を静かに畳む。その足元には、大量の荷物があった。
――二年間暮らしてきた第十一特区を去り、クラリッサは今日、日本・北陸地方の汚染区へと旅立つ。
クライマックスシーズンと同時期に行なわれた最下位決定戦。二十四位のニカと勝負に挑んだクラリッサは、一勝二敗のすえ敗退した。
汚染区に堕ちたプリンセスの悲惨な末路は、ガードルートも噂に聞いたことがあった。今まで持てはやされた反動のように、惨めで粗末な生活を送る。クラリッサもまた、例に漏れず苦難の道を歩むことになるだろう。
しかし、今の彼女の顔には、何の憂慮も後悔も浮かんではいなかった。
「……ねぇ知ってる? ガードルート。汚染区でも、一年に一度、チャンスがあるの。特区への復帰戦――リターン・プロセルピナ」
言葉を切って、クラリッサは周囲を見渡した。
そこには、彼女が二年間護ってきた街の影がある。住民は消えて、街は空っぽになってしまったけれど、クラリッサが確かに育み、愛した街の蛹がそこにはあった。
「勝ち上がって、またここへ戻ってくる」
「――うん」
クラリッサの、街を見上げる顔の美しい曲線を見ながら、ガードルートは頷いた。
――クラリッサはきっと、汚染区に行っても大丈夫。そんな予感がしていた。
「よう、クラリッサ」
そのとき、二人の後ろから声がかかった。そちらに視線を移したクラリッサと同じように、ガードルートは振り返り、
思いっきり声を張り上げた。
「こらっ! ジョウジ! 安静にしてなさいってお医者さんに言われてるでしょ!」
「ごめんごめん! ちゃんと見送りたくてさ」
桑畑丈二だ。タクシーに残してきたのに、ガードルートの言いつけを守らず勝手に出てきたらしい。丈二の姿をみとめたクラリッサが細い眉を驚愕に曲げた。
「桑畑さん、もう歩いて大丈夫なんですか……? 階段から滑って転んだ拍子に、側にあった工具箱からドリルが出てきておなかに刺さっちゃったって聞きましたけど……」
「そうそう、怖いよねー。クラリッサも気をつけてな」
顔を蒼白にしたクラリッサは、肝に命じます、としみじみと答えた。ガードルートは憮然と、
「それで気絶しててわたしの護衛出来なくなってたってホント笑い話だけどね。恥ずかしくて誰にも言えない」
「またまたぁ。ガーちゃん心配してたじゃん!」
だまれ、とガードルートはお喋り男の足を蹴る。ストーカーに拉致された殺されたなどと、あれだけ心配したのが馬鹿らしくなるほど、現在の丈二は健康そのもの。いつも通りのへらず口でガードルートをからかう。いっそあのまま入院させてやろうかと思ったほどだ。
ガードルートの心労など知る由もなく、丈二はどこ吹く風でクラリッサに問いかけている。
「ところでクラリッサ、エクターいる?」
「あ、はい。あっちに」
クラリッサが指し示した先で、若い護衛官――エクターが、広場入り口に横付けされた車へ荷物を積み込んでいた。
お、発見。呟いた丈二は、ガードルートを見下ろして言う。
「ちょっと行ってくるわ。ここで待っててな」
「ん。……仲良かったっけ?」
ガードルートが尋ねると、まぁね、と丈二は悪党じみた笑みを浮かべた。
「お友達―」
¶
「よぉ、エクター」
丈二が声をかけると、エクターは荷物から手を離し――梅雨の一風のように爽やかな中にもねっとりとした性格の悪さが感じられる笑顔を浮かべた。
「――これはこれは、桑畑護衛官。退院おめでとうございます」
「あ、ども。その節はどうもお世話になりました」
二人はきっちりと挨拶を交わす。まるで何事もなかったかのように。
――いや、真実何もなかったのだ。丈二がドリルで腹に穴を開けて入院したのも、エクターが車に轢かれて怪我をしたのも事故。クラリッサの護衛官たちがシーズン最終戦で一斉に辞職を申し出たのも、ただの偶然。
プリンセス二人が憂慮するような事態など、何もなかった。そのように事件は処理される。
護衛官とは、そういうものなのだから。
丈二はエクターに、未晒の紙袋を突きつけた。
「ほい、選別」
「いりませんよ、縁起でもない」
「返すよ。必要だろ」
丈二の顔と紙袋と不審そうに見比べたエクターは、やがて紙袋をひったくるように受け取り、その場でびりびりと破き中を露にした。
中に入っていたのは、ベーグルサンドと、ミネラルウォーター。そして小さなバッジ。
護衛官の徽章――エクターのものだった。
エクターはそれを摘みあげ、苦笑を浮かべてみせる。
「……もう、いらないと思うな」
「いるよ」
丈二は即座に断言する。
「お前は、クラリッサの護衛官だろ」
――エクターは、何の反論もしなかった。
徽章をスーツのポケットにしまい、最後の荷物を車へ積み込むと、クラリッサの元へ歩いていく。丈二もやや遅れてその背に続いた。
――問わずともわかった。エクターは、クラリッサと共に汚染区へ行くことを選んだのだと。
護衛官は特区の人間ではない。例え担当していたプリンセスが敗退し汚染区行きとなっても、運営委員会本部へ戻り、新たなプリンセスに就くことも出来る。
だがエクターは、クラリッサと歩む道を選んだ。
それは窮愁の道だ。しかして誰にも侵すことの許されない、覚悟の旅路。
エクターはプリンセス二人の元へ近づくと、クラリッサに控えめに告げた。
「……クラリッサ、そろそろ……」
「……うん。わかった」
クラリッサは静かに頷く。
――そして、汚染区への出発の時間が訪れた。
まるで棺桶のような移送車へ、エクターとクラリッサは乗り込んでいく。エクターは運転席へ。クラリッサは後部座席へ。
ドアを閉めたクラリッサは、窓の奥からガードルートを見ていた。その瞳は、透明な揺らぎを湛えている。
「……クラリッサ、ごめんね!」
丈二の隣で、ガードルートが声を上げた。
エンジン音にかき消されまいと、車体の壁を越えようと、あらん限りの大声で。
クラリッサが窓を開けた。長い髪が冬の風にあおられる。それと一緒に、小さな結晶が一粒、二粒と宙に舞った。
ガードルートは、再び声を張る。
「帰ってきたら、また、戦おうね!!!」
「うん!!!」
涙を流し、それでもクラリッサは、綻ぶような笑顔を浮かべる。
「約束だよ、ガードルート!!」
移送車のエンジンが唸りを上げる。寸分の間も置かず、名残も表さず、車が駅前広場を離れていく。
草花の柔らかい匂いをはらんだ風と、雲ひとつない冬空の明るい日差しを、残酷なまでに浴びて。
プリンセス・クラリッサとその護衛官を乗せた車が、特区を去っていく。
やがて車の影が見えなくなった頃、ガードルートが、目をごしごしと擦りながら言った。
「行こう、ジョウジ」
「おう」
二人は踵を返し、タクシーへと戻る。
後部座席に乗り込んだ途端、運転席の藤六郎が、ミラー越しに訊ねてきた。今日もいつも通り、ガードルート好みの白髪頭のジジイ姿だ。
「……もう、いいのですかな?」
「うん。へいき」
ガードルートはそれだけを答えて、シートベルトを締めた。丈二は何も言わずそれに倣う。
そして、タクシーはまた走り出す。
これから始まる、長旅のために。
「……クラリッサ、残念、だったな。ガー子」
走り出して間もなく、丈二は口を開いた。
窓の外には、空っぽになった第十一特区の姿がある。
これからこの街は、また新たな人々を迎えるだろう。世界中から集まった、希望を求める者たちを。かつての主である住民と、彼らを護ろうとしたプリンセスなどいなかったかのように、素知らぬ顔で。
「うん。でも――」
ガードルートは、丈二を見上げて、迷いなく言った。
「これで、良かったんだと思うよ。わたしも、クラリッサも」
そしてプリンセスは、丈二と、その視線の先にある十一特区を見つめる。
「まだまだ強くなれる。変われる」
「――そうだな」
丈二はそう言って、口の端に笑みを浮かべた。
街が見えなくなるまで、二人はそうして、遠ざかっていく景色を眺めていた。
長い旅を終え、藤の運転したタクシーは、一つの街に辿りついた。
日本・東北地方の、一大都市である。玄関口である高速道路の旧料金所にはゲートが設けられ、真新しい看板が掲げられていた。
――そこに刻まれていたのは、第二十五特区の文字だ。
通りゆく街並みは二十一世紀の平凡な日本のそれと変わりない。だがこの街には、大きな変化が訪れようとしていた。
街中のいたるところにある標識は国際基準に、道路や店の名前は全て英語表記に変わっている。日本語はもうここでは通じない。やがて様々な国の人々を迎え入れるため、ありとあらゆるものが火星連邦の国際基準に変わっていくのだ。
「ねぇ、ジョウジ」
その景色から視線を外し、ガードルートは丈二を見上げてきた。
「次のシーズンは、絶対に、優勝してみせるからね」
そして、小憎たらしい不敵な笑みを浮かべてみせる。
「みんなと、一緒に」
「おう」
応じる丈二もまた、にやりと笑った。
目的地の駐車場に辿りついた車から、二人は降りる。ガードルートは手ぶら、丈二はアタッシュケースだけを持つ。運転席の窓を開けた藤が、いつも通りの年寄り臭い笑顔で見送った。
「お二人とも、いってらっしゃいませ」
「うん! 行こう、ジョウジ!」
「おう」
藤をタクシーに残し、二人は改修されたばかりのスタジアムの中へ入っていく。
真新しいペンキの匂い。改修されたばかりの石畳の床。出迎えたたくさんの警備員が、お待ちしておりました、と挨拶をする。よきにはからえ、とガードルートが偉そうに言って、丈二はその頭を軽く小突いた。
控え室は通らず、二人はそのまま入場口へと向かう。
やがてスタンド席の影が朧気に見えてきた頃、丈二は足を止めた。
「いってこい、プリンセス」
「うん!」
ガードルートは笑顔で頷き、ひとり足を進め出した。
これより先、丈二は部外者となる。いつものように胸からタブレットを取り出し、観客の一員となってその光景を見守ることにした。
ここからは、プリンセスの舞台だ。
ガードルートが入場口から姿を現した途端、大歓声がスタジアムに響き渡った。
観客席を埋め尽くしているのは、プリンセス・ガードルートの着任を待っていた人々の姿。希望の星へ渡るための権利を得るためにこの街に集った、五万もの人々だ。
五万人の大歓声に、ガードルートは声を張る。
「はじめまして、二十五特区の皆さん。ガードルートは今日から、皆さんと一緒に戦います!」
自分を支え、共に歩む、五万人の人々。そして信頼する護衛官と運転手と共に。
新たなステージで、再び、灰かぶり姫は天を目指す。