生き残った男
三日後、山中の川辺で男は目を覚ました。
喉が灼け、身体中が軋む。脇腹は、息をするだけで痛んだ。そこは戦場から遠く離れた山奥だった。覚えているのは、燃える平原と、落下と、冷たい水だけだ。渓谷の川に呑まれ、流されたのだろう。
「……エドガー」
返事はない。
身体を確かめた。左腕に打撲、右脚に裂傷、そして脇腹の深い傷。臓腑まで届いていないのは、奇跡に近かった。鎧は至るところが凹み、胸当てには大きな亀裂が走っている。もう着ていられなかった。兜を外すと、汗と血に濡れた黒髪が垂れた。
「……生きているのか」
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
愛剣グランツは、少し離れた浅瀬の砂利に突き立っていた。落ちても手放さなかったのだ、と思うと、乾いた笑いが漏れた。引き抜こうとして、傷が悲鳴を上げる。持ち上げることさえできない。何度か試した末に、彼は腰の革紐を外し、剣を背に回して斜めに固定した。刃が当たらないよう布を挟む。ひどく不格好だったが、今はそれしかできなかった。
こうして黒鉄の重装兵は、山の奥へ消えていった。
第四章 名もなき暮らし
数日間、レオンハルトは人目を避けて山を進んだ。街道には出ない。人の声が聞こえれば木陰に隠れた。戦の生き残りが見つかれば、帝国兵に捕らえられるかもしれない。何より今の自分には、戦う力が残っていなかった。
山の奥に、小さな洞窟があった。入口は狭いが、奥へ進むと驚くほど広い。天井の裂け目から昼間は光が差し、奥には乾いた岩棚と、地下水の細い流れがある。
「……悪くない」
彼はそこを住処にした。鎧をひとつずつ外して地面に置く。胸当て、肩当て、籠手、脛当て。残ったのは、血に汚れた鎧下の綿入れと、背中の剣、そして首から下げた小さなペンダントだけだった。
静かだった。戦場の怒号も、金属音も、馬のいななきもない。水の流れる音だけが聞こえる。
「……静かすぎるな」
翌日から生活が始まった。木の実を探し、罠で小動物を捕らえ、川で魚を獲る。火は、剣の背と石を打ち合わせ、二十回目でようやく点いた。脇腹の傷は少しずつ塞がっていったが、深く、治りは遅い。それでも一週間、二週間、三週間と、彼は一人の暮らしに慣れていった。朝は洞窟の外で身体を動かし、昼は食料を探し、夜は火のそばで剣を磨く。ただそれだけの日々だった。
ある夜、彼は鎧下の胸元からペンダントを引き出した。銀色の円盤に、二人の人間が刻まれている。レオンハルトと、妻のエレナだ。出征の朝、王都の家の前で、彼女は泣きながら笑っていた。
『帰ってきてね』
その言葉が、今も耳に残っている。
「……帰るよ」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。
洞窟に住んで一月ほどが過ぎた頃、レオンハルトは、以前から気になっていた奥の通路を調べに入った。
通路は狭く、天井が低い。壁には、奇妙な鉱石が埋まっていた。淡い青色で、月明かりを閉じ込めたように光っている。触れると冷たい。だが指先に、かすかな脈動が伝わる気がした。
さらに進むと、突然、空間が開けた。高い天井、壁一面に青白く光る鉱石、そして中央に、小さな池ほどの水面がある。白い湯気が立ちのぼっていた。
「温泉か……?」
手を入れると、熱いが心地よい。ここ数週間、彼はまともに身体を休めていなかった。傷は塞がりきらず、筋肉は張り、関節は重い。鎧下を脱いで洗い、岩に掛けた。ペンダントは首に掛けたまま、ゆっくり湯に入る。
「あぁ……」
思わず声が漏れた。温かい水が身体を包み、傷の痛みが和らいでいく。剣だけは、長年の習慣で、手の届く湯の縁の岩に横たえてあった。
青い光を見上げる。あまりにも心地よかった。瞼が重くなる。眠ってはいけない。そう思いながら、意識は沈んでいった。
夢を見た。
アウレリア平原。空は赤く、地面は黒く染まっている。エドガーが立っていた。隣には第三隊の仲間たち。全員が出征前の姿だった。
「おい、どうした」
誰も答えない。
「隊長は、生き残ったんですね」とエドガーが言った。
「ああ。お前たちは、どこにいる」
エドガーの姿が遠ざかる。伸ばした手は届かず、仲間たちは消えた。景色が変わる。暖炉の燃える小さな家。窓辺の花。栗色の髪の女が、振り返った。
「レオン? おかえりなさい」
「エレナ……すまない、遅くなった。みんなを守れなかった」
「あなたのせいじゃないわ」彼女は微笑んだ。「もう、休んでいいのよ」
その言葉に、レオンハルトの顔が崩れた。何か言おうとして、声が出ない。エレナの顔がぼやけ、暖炉の炎が水面のように揺れ始める。そして突然、息ができなくなった。
胸が苦しい。身体が動かない。周囲が暗い。必死にもがいた手が、首のペンダントを掴む。強く握り締める。水が口に入ってくる。
そこでようやく、彼は悟った。眠ったまま、湯の底へ沈んでいたのだ。
「――ッ!」
足が底を蹴り、彼は水面へ跳ね上がった。
「ガハッ! ゴホッ、ゴホッ!」
大量の水を吐き、岩にしがみつく。心臓が早鐘を打っていた。ふと見れば、縁に置いたはずのグランツが、右手に握られている。沈む時に、無意識に掴んでいたのだろう。
顔を上げて、異変に気づいた。青い光が、さっきより鮮明に見える。水滴の落ちる音が、妙にくっきり聞こえる。遠い通路の小さな羽音。岩の向こうを流れる水音。まるで耳元で鳴っているようだった。
「……何だ?」
指先が震えている。身体が妙に軽い。脇腹に手を当て、彼は息を呑んだ。数週間かけても塞がらなかった傷が、ほとんど消えている。
水面に映る自分の顔が、一瞬だけ青く光った。
その時、洞窟の奥から低い音が響いた。
ゴォォォ……
地鳴りのような音だった。レオンハルトは剣を構える。
「誰かいるのか」
返事はない。青い光が、呼吸するように明滅していた。彼はまだ知らなかった。この場所が、ただの温泉ではないことを。




