黒鉄の軍勢
朝霧の中に、無数の煙が立ちのぼっていた。野営の炊ぎの煙だ。三十八万の兵が起こした火は平原の西半分を白く濁らせ、東の地平には、それよりなお濃い影が横たわっている。四十二万の帝国軍だった。
後世、この戦いは「八十万の戦い」と呼ばれる。一つの平原に大陸史上最も多くの人間が集まり、最も多くの人間が命を落とした戦争として。だがその朝、一兵卒にとって、そんな歴史的な意味はどうでもよかった。
「隊長! 右翼の旗が見えません!」
「見えないんじゃない。煙に隠れているだけだ」
男は答え、兜の面頬を下ろした。ガシャン、と重い音が鳴る。
全身を覆う黒鉄の甲冑。胸当てには幾多の戦場の傷が刻まれ、左肩の紋章は半分削れている。鎧を着込んだ姿は、鉄の壁のようだった。名はレオンハルト・ヴァルケン、三十六歳。西方諸王国連合軍、第七重装歩兵団の第三独立戦闘隊を率いる隊長であり、『黒鉄のレオン』の二つ名で知られる男だ。
十七で従軍し、戦場に立つこと十九年。北部の反乱、三度の国境戦、王都防衛戦。彼の隊は一度として敵前から退いたことがない。斬った敵の数など、とうに覚えていなかった。死ぬことが怖くなくなった、とはもう言えない。正確には、死に慣れてしまったのだ。
「隊長」
副官のエドガーが寄ってきた。二十七歳、レオンハルトの下で五年になる。
「帰ったら、酒を奢ってくださいよ」
「生きて帰れたらな」
「ひどいな。奢ってもらうまで死ねませんよ」
「なら、生き残れ」
兜の奥で、レオンハルトは小さく笑った。
その時、大地が揺れた。平原の向こうで砲煙が噴き上がり、轟音が遅れて空気を裂く。前列の兵が、人形のように吹き飛んだ。帝国軍の大砲が一斉に火を噴いたのだ。
「敵、前進!」「盾を構えろ!」「槍を前へ!」
数十万の人間が動き出す。軍隊というより、巨大な津波だった。
レオンハルトは剣を抜いた。刃渡り百二十センチの幅広の両刃剣、銘は『グランツ』。初陣の日に父から受け継いだ、人生の半分以上を共にしてきた相棒だ。
「第三隊、俺に続け!」
こうして、大陸史上最大の殺戮が始まった。
最初にぶつかったのは盾だった。木と鉄が砕け、叫びが平原を満たす。レオンハルトは盾の隙間に身をねじ込み、剣を振るった。一人、二人、三人。槍を弾き、盾を押し込み、前へ出る。彼の剣は重い。だがその重さを知り尽くした男にとって、それは欠点ではなかった。一撃ごとに敵の隊列が崩れていく。
第三隊は、正面から敵を押し崩すことに長けていた。その日も帝国軍の左翼が揺らぎ、敵の指揮官が予備兵を投じても、彼らは一歩も退かなかった。
「隊長、敵の旗です!」
「取るぞ!」
敵陣の中央に立つ旗が見えた。あと数歩。
「隊長、後ろ!」
振り返った瞬間、脇腹に灼けるような衝撃が走った。騎兵の槍が鎧の継ぎ目を捉え、肉を裂いていた。身体が傾く。それでも倒れず、槍を掴んで騎兵を引きずり落とし、剣で斬り伏せた。鎧の隙間から血が溢れた。
「下がってください!」
「まだだ。旗を取れ!」
だがその瞬間、戦場の空気が変わった。北で友軍が退き始めている。いや、退却ではない。崩壊だった。帝国の騎兵が側面から回り込み、右翼を呑み込んでいく。後方には、帝国第二軍団の旗が現れた。
伝令が駆け込んでくる。「右翼壊滅!」「中央軍、包囲されています!」「王国旗が倒れました!」
最後に、「総司令部より全軍撤退命令!」
遅かった。退路は敵兵で埋まっている。レオンハルトは仲間を見回した。何年も共に戦い、笑い、酒を飲み、故郷の話をした男たちが、そこにいた。
「隊長……俺たちは、どうすれば」
エドガーが剣を握り直す。レオンハルトは脇腹を押さえたまま、剣を構えた。
「生きろ。命令だ。生きて帰れ」
そして彼は、敵の大軍へ突撃した。
第三隊は最後まで戦った。エドガーの姿が見えなくなり、隣の兵が倒れ、背後の声が一つずつ消えていく。レオンハルトは押されるまま平原の北端へ追い詰められ、気づけば背後は、レーヴェ渓谷の断崖だった。膝が折れる。視界の端に、倒れた連合軍の旗が見えた。
人波が割れ、赤い外套の将が、無言で槍を突き出した。剣で受けた衝撃で、足場が崩れた。身体が宙に浮く。落ちながら、誰かが自分の名を呼んだ気がした。
その日、連合軍は壊滅し、第三独立戦闘隊は、記録上、全滅した。




