第2話 揺れる平穏
病棟の窓から漏れる光がかすかに夜空を照らしていた。
準夜勤にあたる看護師たちは、昼の賑わいとは打って変わった静寂の中、淡々と業務に集中していた。
準夜勤が始まる前、坂口はいつものように行きつけの弁当屋で高菜弁当を買い、それから病院へ向かった。
車内には静かにラジオが流れている。エンジンの微かな振動が心地よく、アクセルを踏む足元から、じわじわと身体の緊張がほどけていく。
弁当屋の店主とはすっかり顔馴染みだ。
「今夜も夜勤ですか」と、変わらぬ口調で軽く声をかけてくれた。
病院に到着した坂口は、更衣室で白衣に着替えると、買った弁当をロッカーへしまい病棟へ向かった。
病棟の廊下は足音だけが響き、病棟内はおおむね平穏だった。
坂口は何度も時計に目をやりながら業務を進めていた。患者たちの容態も安定しており、看護師たちの間にも緊張感は見られない。
夜勤のピークともいえる時間帯を迎えた頃には、坂口もようやく少し肩の力を抜くことができた。
坂口はふと空腹を感じると夕食の休憩時間であることに気づいた。同僚に休憩の声をかけ、弁当を取りに男子更衣室へ向かった。
ところがロッカーの扉を開けた瞬間、言葉を失った。
「……ない。弁当が……」
ロッカーの中は空だった。
坂口は怪訝そうにロッカーの中を見回したが、そこには何もなかった。
弁当を買った記憶はあったが、もしかすると急いでいたために、買い忘れてしまったのかもしれないと思い直した。
「仕方ない、コンビニで買ってくるか」
坂口はそう呟き、同僚に一言断りを入れ、病院の前のコンビニへと足を運んだ。
深夜勤の看護師への申し送りを終えた坂口は、ゆっくりと帰路についていた。
いつもなら、マクドナルドにふらっと寄るのが常だったのに──あの弁当のことが心に引っかかっていたせいか、気づけばそのまま素通りしていた。
準夜勤の夜は、妙に気分が高揚する。
どこか達成感のようなものもあって、眠る前のひとときが少しだけ特別に思える。坂口はテレビをつけて、缶ビールを一本、喉音を立てて飲み干すとそのまま眠りに落ちた。
準夜勤明けの朝、坂口は爽快に目が覚めた。その日は部屋の掃除や作り置きするための料理を作ったりしながら、翌日の仕事の準備を整えた。
あの晩の「弁当紛失」の件は、結局買い忘れたのだろうと思い、特に気にとめることはなかった。
――だが、病棟で坂口を待っていたのは、思いがけない知らせだった。
「男子更衣室で職員のお金が無くなったんだって!」
ナースステーションで顔を合わせた西村が、興奮気味にそう告げた。坂口は一瞬、心臓を掴まれたように立ち尽くす。
「盗難? 本当に?」
「うん、財布から現金が抜き取られてたって」
その会話に耳を傾けていた松田が静かに呟く。
「それ、本当か? そういえば誰かそのような話をしていたな」
その言葉が引き金となり、坂口の中で記憶がつながっていった。
あの夜、確かに自分は弁当をロッカーに入れた。それが消えていた。単なる思い違いではなかったのかもしれない。
むしろ、誰かに盗られたのではないか――
坂口は改めて、あの夜の男子更衣室の様子を思い出していた。
ロッカーの扉は閉まってはいたが、鍵はかけていなかった。男子更衣室は普段から特に問題が起きることもなく、他のロッカーも整然としており、いつもと変わらない様子だった……
「まさか……こんなことが起きるなんて」
坂口は独り言のように呟いた。
「男子更衣室で、お金が無くなるなんて、今までそんなことはなかったのに……」
西村はまだ興奮が冷めない様子で話を続け、松田が重い声で応じた。
「確かにな……男子更衣室は俺たちにとって特に何もない平和な場所だったはずだ。鍵をかけるヤツも少ないし、それで問題が起きたこともなかった……」
その言葉に、坂口は再び胸の奥をざらつかせるのだった……
事件の詳細が徐々に広がるにつれ、職員たちの間には薄い不安が広がり始めていた。
誰も直接疑念を口にすることはなかったが、何かが微かに日常の平穏を揺るがしていることは、確かに感じられていた。




