第1話 新しい風
春の穏やかな陽射しが差し込む中、山下健吾は病院の職員入り口の門をくぐった。履き慣れない新しいスニーカーが、静かな廊下でわずかに音を立てる。
山下は一瞬立ち止まり、吸い込むように深呼吸をしてから歩き出した。
「男性の介護助手が来るって聞いて、どんな人かと思ったけど、なんかおとなしい人みたいだね」
そう噂する声がナースステーションから聞こえてくる。彼女たちの言葉には特に悪意は感じられなかったが、山下の心に小さなさざ波を立てた。
看護師長である田中良子は、山下を男性看護師たちに紹介した。
「皆さん、今日から入職された山下健吾さんです。26歳でまだ若いけれど、これまでの経験もあるから心強いわよ。力仕事が必要なときには、頼りになる介護助手さんよ」
「よろしくお願いします」
山下は控えめな声で挨拶した。
田中の隣で腕を組んでいた坂口真一が、軽く頷きながら声をかけた。
「俺は坂口。何かわからないことがあれば遠慮なく聞いてくれ」
強面からは想像もつかないほど、その豪快な笑顔はどこか爽やかで、誰といても不思議と安心させる力があった。
「ありがとうございます」
そう返した山下の視線は、どこか遠くを見ているようだった。
山下は与えられた業務を真面目に淡々とこなした。患者の移乗や清拭をそつなくこなし、その動きには一定の経験を感じさせるものがあった。とりわけ車椅子への移乗の際には、力強さと細やかな気配りが際立っていた。
ただ、休憩時間になると、山下の姿はいつのまにかナースステーションから消えていた。
──そんな光景を何度か目にすることがあった。
誰かを避けているのか、それともただの癖なのか。その所在なさげな姿は、どこか周囲から浮いて見えた。
「山下さん、仕事には慣れた?」
ふと坂口が声をかけた。
「ええ、おかげさまで」
山下は短く答えたが、いつものように、その言葉に感情の起伏はほとんど感じられなかった。
男性看護師たちは、山下のことを気にかけながらも、その距離感のある態度に戸惑いを抱いていた。
「山下さんって、なんか不思議な人だよな」
休憩室で坂口が漏らすと、隣にいた若手の西村直樹が頷いた。
「確かに。仕事はできるし、真面目なんだけど……あの細くて痩せた身体。飯食ってんのかと聞いたけど、あまり自分のことを話したがらないんだよな」
西村は山下にときどき私生活について、何か尋ねようとすると、山下はいつも巧みに話題を逸らしてしまうことが多かった。
一方、ベテランの松田浩二はこう言った。
「まあ、そういうやつもいるさ。それに、力仕事をしっかりやってくれるだけでも助かるよ。あまり詮索するのは失礼かもしれないな」
その一言に西村も納得し、山下に対する距離の取り方を少しずつ見直し始めた。
夜勤の当番の日。山下はナースステーションの隅でカルテに記録を書き込んでいた。その静かな佇まいは、まるで病棟の空気と一体化しているかのようだった。
坂口がその姿を眺めながら、ふと話しかけた。
「なあ、山下さん。昔、どこかの病院で働いてた?」
山下はペンを止めたが、視線は紙の上に残したままだった。
「ええ、まあ……あちこちで」
それ以上の言葉は返ってこなかった。その曖昧な答えに坂口は困惑しながらも、それ以上話しかけるのは控えた。
坂口の胸には、山下の目に一瞬だけ浮かんだ寂しげな光が強く焼き付いた。その光は、山下が何か重い過去を背負っているのではないか、という予感を呼び起こすものだった。
山下の入職から数ヶ月が経ち、彼の存在は病棟内に馴染んでいた。だが、時々その背中に漂う影は、一部の職員たちにとって未だ拭えないものだった。
山下の言葉数の少なさや距離感は、時に謎めいて見える一方で、他者には感じられない深い思索の中にいるようにも映る。
その孤独の先に何があるのか──それを知る者は誰もいなかった。
それでも、男性看護師たちは、そんな山下を受け入れながらも、いつかその心の扉が少しでも開かれる日を、静かに待ち続けていた。
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