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あの日、小麦色の風が吹いた。  作者: 古代 ルミオン
第一章 黄金色の大地と灰色の尖塔

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第十一話 叶った願い届かぬ想い(1/2)

 イマータ市行政省の一角。重厚な木製の扉が閉じられると、廊下の喧騒はたちまち遮断され、室内は刺すような静寂に包まれた。高い窓から差し込む午後の斜陽が、磨き上げられた床に細長い黄金の筋を引き、動かぬ影を刻んでいる。

 会議机の上には、州の窮状を裏付ける分厚い書類が山をなし、湿気を含んだ紙の端がわずかに反り返っていた。


「キャロル卿……。あの二人は、怒っているでしょうね」

 リズの声は、沈殿する澱のように低かった。卓に肘をつき、細い指先で頭を抱える彼女の肩が、微かに震えている。旅路で見せていた、陽光のように眩い笑顔はそこにはない。深い憂いと拭えぬ疲労が、その横顔に濃い陰影を落としていた。項垂れる彼女の黒髪も、今はその艶を失い、重く湿って見えた。

「あの二人? ウージー村のか……。ああ、そうだろうな。怒っているだろうな」

 キャロルは淡々と応じた。その双眸は真っ直ぐにリズを見据えている。落ち着き払った声の中に、わずかばかりの苦い毒を混ぜていた。

「……何とかできないのでしょうか? あの二人のためだけではありません。このままでは、このクエルタ州の経済は確実に瓦解します」

 リズの唇から漏れたのは、祈りにも似た悲鳴だった。大きな瞳には、堪えきれない涙が滲んでいる。それは情に流された弱音ではなく、州全体の未来を憂う、為政者としての切実な叫びであった。

「案ずるな。また二人で考えよう。我々には、まだ打てる手札が残されているはずだ」

 キャロルは静かに、しかし断定的な響きを持って告げた。その瞳に宿るのは諦念ではなく、静かな決意だ。彼はわずかに口角を上げ、リズの目を見た。

「そして――その計画が実を結ぶまでは、また私を『さん』付けで呼んでください」

 それは、侯爵としての立場を一時的に傍らに置き、あの旅を共にした仲間として、共にこの困難に立ち向かおうという決意の表れだった。

 リズは弾かれたように顔を上げた。キャロルの揺るぎない眼差しに触れ、張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ弛むのを感じる。

「……ええ。またよろしくね、キャロルさん」

 声にはまだ震えが残っていたが、先ほどの悲痛な色は消え、確かな和らぎが宿っていた。

 彼女は、遠い日の記憶を辿るように、数日前の旅の最終日に起きた出来事を静かに思い返していた。


 一行は最後の野営を終え、翌朝、空が白み始めるのとほぼ同時に微睡から覚める。

 東の地平は淡い薄紅に染まり始めているが、天頂には薄灰色の雲が低く垂れ込め、吹き抜ける風は剥き出しの肌を刺すように冷たい。焚き火の燃え残りが、微かな音を立ててパチパチと爆ぜていた。

 常に誰よりも早く目を覚ますのは、キャロルだ。旅の最後の朝も例外ではなく、彼は音もなく御者台から降り立つと、身を切るような空気の中で深く呼吸をし、大きく腕を伸ばす。

 消えかけていた焚き火にそっと薪をくべれば、爆ぜる火の粉と共にオレンジ色の炎が勢いを吹き返し、周囲の冷気をじんわりと暖めていった。その揺らめく光が、傍らで丸まって眠るユーバ、ルザサード、カウジンの寝顔を柔和に照らし出す。

 キャロルは一人ひとりの肩を軽く叩き、「おはようございます」と、静寂を乱さぬ穏やかな声で呼びかけた。

 次いで、彼は客車の扉を指の背で優しくノックする。

「リズさん、ミツナさん。おはようございます」

 中からは、まだ眠気の残る二人の返事が聞こえてきた。

 これが一行にとって旅の最後の朝となるが、キャロルの振る舞いはいつもと変わらない。特別な感傷に浸る風もなく、ただ淡々と仲間たちを起こして回るその姿は、まるで明日もまた、同じように旅が続いていくかのようであった。

 朝食は、昨晩の残りのスープと、水気が抜けて少し硬くなったパンだ。だが、皆で囲む最後の食事は、どこか特別な滋味に満ちている。交わされる言葉こそ少ないが、それぞれの心には、この数日間の情景が鮮やかに去来していた。

 出発の準備を整える間も、昨晩のリズの告白などなかったかのように、一行はいつも通りに動く。ユーバは心なしか活力を欠いているようにも見えるが、それでも時折、他愛もない軽口を叩いてはリズとミツナの笑顔を引き出していた。賑やかなその空気は、旅の始まりから何も変わっていない。ただ、その賑やかさの奥底には、ひっそりと忍び寄るような寂寥が漂っていた。


 日が西の稜線へと傾き始めた夕刻。遠方にそびえるイマータ市の北門が、燃えるような夕映えに照らされ、鮮やかな朱色を帯びて浮かび上がってきた。

 御者台で手綱を捌いていたキャロルは、ふと振り返る。客車にいるリズへ向けられたその声には、隠しきれない寂寥が滲んでいた。

「リズさん。イマータの北門が見えました」

 彼は名残を惜しむように、ゆっくりと馬車を停める。車輪の回転が止まり、完全な静寂が訪れるのを確認して、リズは静かに腰を上げた。そして、そこに座るユーバ、ミツナ、ルザサードへと視線を巡らせる。その唇に浮かんだのは、長い旅路の間、幾度となく仲間たちを勇気づけてきた柔らかな微笑みであった。

「これでお別れね。……本当は、もっとみんなと一緒に旅を続けていたかった。これまで、本当にありがとう」

 慈しむような笑顔を一度だけ見せると、彼女は躊躇することなく馬車を降りた。乾いた土を踏みしめるその足取りは、どこか頼りなげで、背中には寂しげな陰が差している。

 リズは、御者台から降りてきたカウジンと入れ替わるようにして、その座へと身を置く。彼女は熟練の戦士に向かって深々と頭を下げ、真摯な言葉で謝意を述べた。

 一方、リズと入れ替わりで客車へと足を踏み入れたカウジンは、まるで葬列のような重苦しい空気に包まれた車内を見渡す。

「なあに、湿っぽい顔をするな。今生の別れではあるまい。またいつか、どこかで笑顔の二人に会えるさ」

 カウジンのその言葉はぶっきらぼうであったが、その響きには、彼らしい不器用な温もりが宿っていた。


 馬車は再びゆっくりと動き出し、燃えるような夕焼けの中をイマータ市の北門へと向かう。

 門の傍らには、数人の衛兵が槍を携えて立っていた。衛兵の合図を受け、馬車は門の直前で静かに停車する。

 年季の入った衛兵が御者台へと歩み寄り、「これはキャロル卿、それにリズ卿。無事、任務を終えられたようですな」と、はつらつとした声で告げた。その眼差しには、明らかな敬意の色が宿っている。

 もう一人の若い衛兵は、興味深そうに客車の方へと回り込んだ。

「おや、客車の方々は?」

 窓越しに見える四人の姿に、衛兵が問いかける。キャロルは、低く威厳に満ちた声で客車へと命じた。

「おい、後ろの四人。馬車を降りよ。市内入場の検査だ」

 その声に、旅の間にあった親密な響きは微塵もなかった。続けてキャロルは、若い衛兵を射抜くような視線で見据える。

「任務中に保護した一般市民だ。ウージー村からの正式な使者でもある。くれぐれも粗相のないように」

「はっ!」

 衛兵は背筋を伸ばして短く応じると、降りてきた四人の検分を始めた。その手つきはどこまでも事務的で、一切の感情が削ぎ落とされている。

 リズは手続きを待つ四人へ向かい、氷のように冷ややかな声を発した。

「ウージー村の使者たちよ。市長のソレス様へのお目通しは、明日の午後となる。よってお昼過ぎに、四名揃って行政省へ出頭するように」

 その声には温もりなど欠片もなく、先ほどまでの彼女が嘘であったかのように無機質であった。

 四人をその場に残したまま、馬車は石畳を叩く乾いた音を響かせ、街の奥へと消えていく。北門に置き去りにされたユーバは、二人のあまりの豹変ぶりに、ただただ立ち尽くしていた。

「これで……いいんだよな……」

 自分に言い聞かせるような呟きは、夕風に虚しく霧散する。広大なイマータ市の街並みを前に、彼は途方に暮れたように辺りを見回した。

「ところで……行政省って、どこだ?」


 四人と別れた後、リズは隣に座るキャロルへと向き直る。その瞳には、先ほどまでの冷徹な光とは異なる、複雑な感情が揺らめいていた。

「キャロル卿。私は一度身なりを整え直し、その後行政省へ向かいます」

 静かな住宅街の入り口で馬車が停まると、彼女は音もなく降り立つ。そしてキャロルに向かって、吸い込まれるような深々とした一礼を捧げた。キャロルの駆る馬車が街角に消え、その姿が完全に視界から失われるまで、彼女が顔を上げることはなかった。夕闇に溶けていくその背中は、どこかひどく、寂しげに見える。

 一人馬車に残されたキャロルは、手綱を握る拳をわずかに強めた。胸の奥に灯った決して小さくない寂寥を、冷たい夜気で押し殺すように。

「……これからが勝負だ」

 独り言が白く弾ける。彼の青い瞳には、迷いを断ち切った強い決意の色が宿っていた。


 時計の針が幾度も巡り、日はとっくに暮れている。行政省の一角、飾り気のない質素な会議室に、キャロルとリズの姿があった。

 二人の間には山のような書類が積み上げられ、ただペン先が紙の上を走る乾いた音だけが、深夜の静寂に響く。市長ソレスに提出するための、膨大な報告書の作成。クエルタ州北部地震の復興方針と予算財源、大神様の大坑道に関する状況報告と今後に対する提言、そして――ウージー村の使者について。連なる細かな数字や専門用語が、真鍮製でできた燭台の光に照らされて二人の網膜を焼き、その疲労をいっそう濃いものへと変えていった。

 全ての報告書が完成を見たのは、東の空が白磁の色を帯び始めた、明け方近くのことであった。

「……なんとか、形にはなったかな。リズ卿」

 キャロルが疲弊した面持ちで、インクに汚れた指先を額に当てる。

「はい。あとはソレス様との謁見次第ですね。根回し不足は否めませんが、今の私たちにできるのはここまででしょう」

 リズもまた、透き通るような肌の目の下に濃い隈を作り、疲労困憊の様子で応じた。

 二人は束の間の休息を得るため、それぞれの屋敷へと帰宅することにした。身なりを整え直し、再びこの戦場――行政省へ登省することを約束し、冷え切った会議室を後にした。


【100万字超・完結済み・執筆済み】

予期せぬ事態にならない限り、読者の皆様に【毎日更新】の確実なワクワクをお届けします。

物語が途中で途切れる(エタる)心配はございません。

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