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6.収容所からの脱走

 到着したのは、東北大学星陵(せいりょう)キャンパス敷地内の五号館の傍だった。真っ先に茂水が車から降り、スマホで誰かと連絡を取り始める。

「着いたぞ? どこに行けばいい? 五階?」

通話する茂水を横目で見ながら、他の班員たちも降車する。

「茂水さんは、どなたとお話ししているんですか?」

華陽が隣の天見に訊ねた。

「多分、ここの人。知り合いがいるみたい」

 全員が降りたのとほぼ同時に、茂水の通話も終了した。

「お前ら。こっちだ」

 華陽たちは、茂水の後に続いた。棟内に入り、廊下を歩く。茂水はエレベータを見つけると、うかうかしていた表情をさらに緩ませた。

「いやぁ。やっぱ大学は最高だな」

エレベータはすぐにやってきた。扉が開き、六人がぎゅうぎゅう詰めになる。

 五階に到着し、扉が開いた。ちょうど目の前を、メガネを掛けた白衣の初老男性が横切る。

花押(かおう)先生!」

茂水が慌てて叫んだ。男性が驚いて振り向く。

「ああ、君たちか!」

メガネのレンズを押さえながら、男性は表情を和らげた。

「田村から聞いているよ。随分と早い到着じゃないか」

「申し訳ありません」

千路が頭を下げる。

「いや、いいんだいいんだ。それで、あいつからの預かりものは?」

「こちらです」

千路が茶封筒を渡す。花押はにんまりと笑みを浮かべ、受け取った。

「化元体も頼まれていたのですが、どちらへお運びしましょうか?」

千路が続けて訊ねる。

「それだったら、こっちで何とかするよ。長旅でお疲れだろう?」

花押はついてくるように手招きし、華陽たちを一室に案内した。

 大会議室だった。前にはホワイトボードが設置され、長机が細長いドーナツ状に並べられている。

 華陽たちは各々適当な席に腰を下ろした。

「少々お待ちを」

花押はそう言い残し、部屋から出て行った。しばらくして戻ってくると、その手には人数分のプリンと紅茶を載せたトレーがあった。

 花押は、一番入口に近い席に座っていた渡会の席にトレーを置いた。

「一つずつ取って、回してくれるかい?」

 班員一人ひとりにトレーが回された。華陽の手元に来ると、湯気の立った紅茶と未開封のプリン、スプーンを取って次の千路に回した。

 自分の席に戻り、いざプリンを開封しようとすると、蓋に油性マジックで書かれた「左沢」の文字に気づいた。手をつけるのが躊躇われた。他の班員も同じようだ。しかし、帝都が構わず蓋を破り始めると、全員それに倣った。

「いやいやいやいや。わざわざ来てくれてありがとう」

封筒の中身を確認した花押が、前で改めて礼を告げた。

「簡単に自己紹介を。私は臨時人妖総合研究所の代表・花押敏明(としあき)です。名刺を準備してなかった、申し訳ない。さて、田村から散々もてなすように言われたが、何をすればいいのやら……」

花押が、困ったようにハンカチで額を拭うと、

「花押さんは、もしかして団長とお知り合いですか?」

千路がさっそく質問を投げた。花押はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、満面の笑みを浮かべる。

「イエス。彼とはいとこ同士だ」

「へ?」

一際大きな声を上げたのは渡会だった。

「見えないだろう?」

花押が誇らしげに言う。

「はい。まったく」

「正直でよろしい。今度田村にも言っておくよ。千路班の若いイケメンが、悪人面のお前と私がいとこと訊いて滅茶苦茶驚いてたってね」

「それは勘弁してください!」

渡会が必死に告げる。花押は愉快そうに笑った。

「なんてね。ジョークだよ、ジョーク……ああ、せっかくネタを振ってくれたのに、もう終わってしまった。日常会話って、何を話したらいいのかこの年になっても全然わからないんだよね。どうしたものか」

花押が再び手持無沙汰にしていると、再び千路が口を開いた。

「でしたら、人妖について科学的に解明されていることをお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「おお。そいつはいい」

先程の話題より、わかりやすく食いつきがよかった。花押が途端に早口になる。

「さて、何から話そうか、化元体? いやはや、化元体の話をするなら――」

独り言を呟きながら、ホワイトボードに山の絵を描き始める。

「おそらく、君たちの認識はこんな感じだろう。蔵王のマジカルパワーに反応して、化元体が働く」

山の絵に「ザオウ」と補足が殴り書きされた。

「しかし、実際はちょっと違う。蔵王から放たれる何らかの物質――我々は励化(れいか)(せん)と呼んでいる――と反応して、特有の現象を起こしている」

山の絵から、今度は放射状に○がびっしりと描かれた。そこに一体、棒人間が加えられる。さらに、○が矢印に引っ張られて棒人間の周りに書き込まれた。その○の一つに、「レーカセン」と加えられた。

「イメージされる励化線と、イラストの説明がいまいち結びつかないのですが」

千路がそう言うと、花押はペンの蓋をカチッと閉じた。

「確かに、『線』と言われれると、わかりづらいだろうね。実測しているわけではないから、本当はどうなのかはわからないが、励化線は粒子だと思っている。身体にくっついた粒子が吸収され、化元体と反応する。何故こう考えたかというと、いわゆる妖化ゾーンって奴があるだろう?」

「人妖が妖化できる範囲ですよね」渡会が答えた。「徐々に広まっていますが、まだ東北地方内に留まっている」

「そう。しかし、一度励化線を浴びてしまうと、しばらくの間は妖化ゾーンから離れていても、妖化することができるんだ」

班員たちが目を見開く横で、千路は納得したように腕を組み、渡会は険しい顔を浮かべていた。妖化領域から外れているはずの都内で、一部の団員たちが染谷と落ち合った際に出現したという、カマキリとハチの合成虫。事前に東京入りしていた団員たちが妖化できない中、あの人妖だけが妖化できていたという話も辻褄が合う。

「約二時間だ。それが励化線の寿命なのか、化元体が反応を終えるまでの時間なのかは不明だが、ぶっちゃけ私の専門外だし置いておこう――少年」

突然、眠そうにしていた帝都が指名された。

「俺?」

「そう、俺だよ俺。俺くん、化元体の働きは、大きく分けると二つあるだろう? 何かな?」

「えーっと、妖化と……」

帝都が、人差し指でテーブルを叩きながら頭を悩ませる。なかなか思いつかないらしい。

「あと何かあったか?」

「あるだろう? 重要なものが」

「えー?」

帝都が首を傾げる傍ら、

「治癒……?」

華陽がぽつりと零した。

「ザッツライト!」

花押が手を叩いた。

「そう。妖化と治癒、この二つだ。まったく違う動きに見えるが、根本的な仕組みは一緒だ。励化線と反応すると、化元体は人間ないし人外の細胞組織に変化する。あるいは、他の組織を変化させようと働きかける。我々が化元体の管理だけでなく、研究まで行っている理由は、人工化元体を作るためだ」

「人工?」帝都が首をさらに傾げる。

「そう。現在、団は現場から調達された化元体をカツカツに分け合っている状態だ。それに、世の中には団員以外の人妖もたくさんいる。だから、いっそ作ってしまおうという考えに至ったわけだ。それで、研究用の化元体を恵んでくれってお願いをして、つい先ほど返事をもらった」

花押が茶封筒を掲げた。

「すげぇ……」

帝都が目を輝かせる。

 そこに、千路が難しそうに口を挟んだ。

「ただ、話を聞く分に、化元体の構造は複雑そうに思います。そう簡単に人工のものが作れるのでしょうか?」

「実はその通りで、奴は非常に厄介な代物なんだよ。だから、血盟士団以外の優秀な人材も総動員する必要があった」

「いつ完成するの?」

帝都が目を爛々とさせたまま訊ねる。

「幸い、化元体の正体を知らぬまま研究していた者がいてね。もしかすると、結構近いうちにできるんじゃないかと思っている」

「そしたら、血盟士団に入ってなくても、人妖だからって理由で理不尽に死なされる人がいなくなる?」

「そうだね」

花押がうんうんと頷いた。

 華々しい着信音が鳴った。動いたのは花押だった。胸ポケットからスマホを取り出し、応じる。通話が終わると、花押は華陽たちに向き直り、こう言った。

「化元体の搬入が終わったそうだ」

「そうですか。それでは、我々はこれで――」

千路が席を立とうとする。

「待ってくれ。君たち、今日はもう予定はないんだろう?」

「はい。まあ、その通りですが」

「だったらゆっくりしていきなさい。そうだ、研究棟の案内でもしようか」

「へ? いいのか?」

意外にも、一番食いついたのは帝都だった。

「もちろんだとも。他の皆さんも、興味があれば是非」

 班員全員が花押についていくことになった。行列を成して大会議室を出ると、さっそく隣の部屋に案内された。

「ここが、私のプライベートルームだ。ちょっと散らかってるが、入っていいよ」

隅にデスクがあり、専門書の並んだ本棚が壁を覆っていた。収まりきらない分の本は、床に積まれていた。

 華陽たちは、足元に注意しながら部屋の中に入った。煩雑とした部屋全体とは対照的に、デスク上だけは整頓されていた。故に、飾られていた一枚の写真が際立っていた。小学校低学年ぐらいの少女が、ピースをしながら笑っている。華陽がその写真を覗き込んでいると、

「娘だよ。美鈴(みれい)っていうんだ。天使みたいな子でな――」

花押が娘の自慢話を始めた。その間にも、天見が隣にやってきて、同じ写真を見ながら顔を綻ばせる。

 話はしばらく続きそうだった。とうとう、部屋を見尽くした帝都が、

「なぁ。まだ?」

痺れを切らして容赦なく促した。

「はいはい。ちょっと待ってな」

花押は、写真の表面に付着した埃をティッシュで優しく払うと、落ちている本を器用に避けながら入口に戻った。

 廊下を少し歩き、大部屋に案内される。大会議室や花押の個室と違い、静寂とは離れた空間だった。

「メインの研究室がここだ」

 実験台がずらりと並び、研究者たちが無言で顕微鏡やコンピューター、試験管、見たことのない器具と向かい合っていた。その中で一人、孤立して自分の世界に没頭する男性がいた。三十代半ばくらいの、黒縁メガネの寡黙そうな研究者だ。

「あの人が、落合(おちあい)蒼葉(あおば)先生だ。双血球(そうけっきゅう)もとい化元体が特定条件で振る舞いを変えるという発見をしたご本人だ。血盟士団ではないが、無理矢理スカウトした」

花押が説明する隙に、帝都が蒼葉に近寄り、持っている試験管をじっと見つめた。赤い液体に、スポイトで透明な液体が数滴、垂らされる。

 一連の作業が終わると、ようやく蒼葉は帝都に気づいた。

「ガキ。どこから湧いた?」

機嫌悪そうに訊ねる蒼葉に、慌てて花押が駆け寄る。

「落合先生。話が伝わっていなかったら申し訳ない。血盟士団のほうから客人が来ていてね」

「血盟士団?」

途端に、蒼葉の表情が険しくなった。嫌悪の視線が帝都に向けられる。

「とっとと離れろ、人妖」

「へ?」

「半径三メートル以内に入るなと言っている」

蒼葉の口調が強くなるのと同時に、帝都は後ろから別の男性に両腕をがっちりと押さえられ、蒼葉から引き離された。

「おい、ちょっ……こら! 見せてくれてもいいじゃんか!」

暴れる帝都を、難なく華陽たちのほうへ連れ出す男性。

「あの方は?」

千路が花押に訊ねた。唯一、彼だけが白衣を着ていない。

「落合先生の弟さん、紅葉(こうよう)くんだ。こっちは人妖で、お兄さんの用心棒」

花押はそう言い、研究室の扉を開いた。

「彼ら、少し気難しいところがあってね」

 全員が廊下に出ると、今度は向かいの部屋に案内された。暖かな薄黄色の壁に出迎えられた。手前側にキッチンがあり、奥のスペースに丸椅子丸机がいくつかと、ソファが置いてあった。そのソファの上で、開いた本を顔に乗せながら仰向けになる白衣の人物がいた。

「ここはレストルーム。実験室から近いから、ここで休憩を取る人もいる」

 花押の声で、横になっていた白衣の人物が、本を持ち上げて体を起こした。四十代くらいの男性だった。頭髪は量こそ健在なものの、少なくはない量の白髪が混じっている。

「おはよう。だいぶお疲れのようだね」

花押が声を掛けると、男性は不満そうに、脇によけていたメガネを掛けた。花押を睨み、同じ目つきで華陽たち一人ひとりに視線を移していく。

「……ちょうど六名ですか」

「冷蔵庫から消えた好物の数と、一致でもしていたかね?」

「ご名答です。何かご存知そうですね」

「いいや? 寝ぼけて食べたんじゃないか? お疲れなのは重々承知している、今度補填しておくよ」

花押は笑い交じりにそう言い、華陽たちに向き直った。

「この方は左沢和(あてらざわかず)(とみ)先生だ。とても教育熱心な先生だ」

花押がおだてるも、左沢は不機嫌そうなままだった。そこに、千路が恐る恐るこう訊ねた。

「左沢さん。以前どこかでお会いしたことはありますか?」

左沢は、神妙な顔つきで質問者をじっと見つめる。

「あなたの顔に、見覚えはありませんが」

「では、テレビやラジオに出演なさったことは?」

途端、左沢は噴き出した。

「私のような、何の実績もない研究者に声が掛かるなんてこと、断じてありませんよ」

「そうですか。失礼しました」

千路が頭を下げて食い下がる。左沢は尚も、不審者でも眺める目で千路を捉えていた。

 休憩室を後にし、エレベータに乗ると、今度は一気に一階まで降りた。扉が開くと、窓のない薄暗い廊下が続いていた。奥のほうからは、微かに奇妙な臭いが漂っていた。どちらかといえば不快感を催す臭いだった。花押が歩みを進めるので、ついていくことになったのだが、その臭いは足を進めるほど強まっていった。

 突き当りの大部屋の前に到着すると、花押が足を止めて振り向いた。臭いは、この部屋の中から漂っていた。

「ここに入っているのが、全国で回収された化元体だ。一度ここに集められてから、各所に分配される。中、見たいかい?」

花押が軽い口調で訊ねるが、華陽があからさまに嫌そうな顔を見せたので、

「今回はやめておこう」

花押は踵を返した。

「もう終わり?」

帝都がつまらなそうに訊ねる。

 エレベータの前で再び足を止めると、花押は下矢印のボタンを押し、振り向いた。

「いいや? もう一か所ある。とっておきの場所がね」

 エレベータが到着し、扉が不気味に開く。鼻歌交じりに乗り込む花押に続き、千路が乗り込んだ。少し遅れて、渡会が恐る恐る足を踏み出し、他の班員たちが続く。

 地下一階域のボタンが押された。その動作が、やけに重々しく見えた。

「地下に行くには、秘密のコマンドが必要でね。奇数の小さいほうから順に四つ押すんだ……あぁ、うっかり言ってしまった。どうか忘れて欲しい。奇数の小さいほうから順に四つ押すだけっていう、脆弱すぎるコマンドを」

花押が説明通りのボタンを入力すると、エレベータは下へ降り始めた。

 到着を知らせる音が鳴った。扉が開くと同時に、地下一階の光景が目に飛び込んできた。

 湿度の高い薄暗い空間に、整然と並ぶ檻。その中に閉じ込められる化け物たち。檻に衝突したり噛みついたりする音や、不気味な咆哮が響き渡る。

「収容所ですか」

千路がエレベータから降りて呟いた。

「いかにも」

花押が扉を閉じないように押さえながら、他のメンバーにも出るように促した。渡会、天見が恐々と足を踏み出す。

「まぁ、安心してくれたまえ。ここにいるのは比較的おとなしい人妖だ。手が付けられないほどの個体は、奥の部屋に隔離されている」

花押の口調が畏まる。獲物が現れたことで、人妖たちが興奮し出したのか、物音や咆哮が激しくなった。

 ――悪いことをした団員が連行されるところだ。囚人みたいな生活を強いられ、時には実験体として利用される。化元体は与えられず、一生暴走した状態で飢え続ける。

 皆木の言葉が脳裏を過った。華陽は、一番手前の空になった『〇〇一』の檻を見て戦慄した。

 他の班員たちも、檻から距離を取りながら、硬い表情を浮かべていた。

 そんな中、天見が一体の人妖の前で立ち止まった。無気力そうに横になる、黒いオオカミだった。開きかけた青い瞳が、天見を捉える。

「〇〇七番は一際おとなしくてね」

天見の背後から、花押が近づく。素手のまま、檻に手を伸ばした。

「それ以上は危ないんじゃ――」

渡会が顔を青くするも、花押は無視して鉄格子を掴んだ。それだけに留まらず、檻を強く揺すった。

 中のオオカミは、無反応だった。

 花押は鉄格子から手を離し、掌についた錆を払い落とした。

「ひと月上化元体を与えていないから、間違いなく暴走はしてるはずなんだけどね。さて、戻るとしようか」

花押が踵を返す。華陽たちも後に続いた。

 天見は、名残惜しそうにオオカミを見つめ、最後にエレベータに乗り込んだ。

 五階に到着し、エレベータの扉が開いた。日常の空間に戻ったという安心感が、華陽の胸全体を包み込んだ。

「それじゃあ、弁当持ってくるから、君たちは会議室で待っていてくれ」

花押はそう言い、立ち去った。入れ替わるように、

「しーげーみーず」

別の方向から軽口の声が聞こえてきた。茂水に限らず、全員が振り向く。

 白衣を着た、天然パーマの男性だった。年齢は茂水と同じくらいか。健康的な外見の分、茂水より若干若く見える。

「せーんーがーわー!」

茂水は満面の笑みを浮かべ、駆け寄った。そして、班員全員に紹介を始めた。

「こいつは仙川(せんがわ)(よし)()。学生時代の同期で、花押先生の一番弟子だ」

おそらく、今朝電話をしていた相手だろう。華陽はぺこりと頭を下げた。

 紹介が済むと、二人は仲良く会話をしながらどこかへ消えてしまった。


 昼食休憩終盤、飲んでいる化元体錠剤の味を忘れるため、華陽は別のことを考えようとした。

 収容所の生々しい光景が真っ先に思い出された。思わず顔を顰める。別の内容に切り替えようにも、一向に頭から離れない。あの場所で聞いた騒音や金切り声も、同時に再現される。

 最後の一錠を口の中に放り投げ、やけくそにオレンジジュースを流し込んだ。化元体の味は消えたが、脳内にこびりついた収容所の映像からは逃れることができなかった。

 追加で水道水を飲み、空のペットボトルをゴミ箱に捨てた。

 収容所の呪縛からは解かれたが、異常に疲れていた。運動したわけでもないのに、息が切れ、頭を鈍い痛みが襲う。

 昼休憩後には、ミーティングが控えていた。二階・第一講義室。霞んで見える時計を確認すると、開始時刻は目前に迫っていた。すぐにも向かいたいところだが、教室名は把握していても、どこにあるのかわからなかった。いったん二階に向かうため、エレベータを探す。

 こちらに近づく足音に気づき、振り向いた。

 害虫を見下ろすような、険しい目つき。ワイシャツの上に黒いジャージを羽織った男性。落合紅葉だった。

「何をしている?」

千路の無機質な口調と似ているが、こちらは敵意の感情が含まれていた。

「えっと……二階の第一講義室に行きたいのですが」

華陽が震えながら答える。さらに続けた。

「それで……場所がわからなくて」

 少し間があって、紅葉が口を開いた。

「こっちだ」

紅葉は階段のほうに向かった。華陽は恐る恐るついていく。

「あんたの班には、何で子供が二人もいるんだ? 血盟士団に入れるのは、二十歳以上じゃなかったのか?」

「拾われました。落合さんも、研究者ではないんですよね? 普段は、何をなさっているんですか?」

「教員だ。中学の」

「先生ですか……以前、避難所で高校の教員をやっていらした団員さんと、お会いしたことがあります」

「ふぅん。楽しい話は聞けたのか?」

 皆木の死に際が蘇った。遅れて、最初で最後の会話を思い出す。

「はい。生徒のことが大好きなのが、とてもわかる人でした。生徒からも好かれているようでした」

華陽の表情は、自然と恍惚としたものに変わる。

 紅葉は、反射的とでもいうように顔を背けた。

「そうか。いい先生だったんだろうな。俺とは対照的だ」

華陽が驚いたように振り向いた。

 紅葉は、諦観交じりの口調から変えることなく、話を続けた。

「生徒全員と同様に向き合うなんて、無理だった。何なら、教師失格の感情すら抱いたことがある。向いてないと悟って、何度も辞めようとした」

「でも辞めなかった……んですよね?」

「辞められなかった。俺だけを支えにしている生徒を、見捨てることはできないだろう?」

その言葉の意味が、華陽にはすぐに理解できた。

 軽蔑。ありもしない噂。暴言・暴力。それらの苦痛を一人で抱え込むのは難しい。もし、中学時代の華陽に助けの手を差し伸べてくれる人がいたら――喜んでその手を握っただろう。一緒に戦い、救ってくれると信じて。

「支えが突然消えたら。何かに縋りながらでしか生きられないほどに弱ったものが、支柱を失ったらどうなるか。考えるまでもない」

その声が帯びるのは、悲嘆ではなく恐怖だった。まるで、現在進行形で何かを背負っているような――すぐにも壊れそうな塔の支柱を担っていることを匂わせるような雰囲気があった。

 シンプルな着信音が鳴った。紅葉がスマホを取り出す。

「はい……はい……了解です」

通話を切り、気難しい表情で華陽のほうを向いた。

「行先変更だ。収容所から人妖が一匹逃げた」

 二人はエレベータに乗り込んだ。行き先とコマンドを指定し、地下一階に急ぐ。

 現場に到着すると、すでに帝都を除く千路班の班員たちと、花押・仙川・左沢が集まっていた。

「逃げたのは〇〇七番だ」

花押が、空になった檻を見つめながら告げる。格子がひしゃげて曲がり、大きな隙間ができていた。

「七番って、あのおとなしかった奴ですよね?」

茂水が驚いたように訊ねると、花押は返事の代わりに、天見に詰め寄った。

「君。昼間に、七番の前で立ち止まっていたよな? 何か小細工したりはしてないだろうね?」

「何もしていません」

「正直に言いなさい。私と班長さんが話している間に、檻に触っていただろう?」

「本当に何も――」

そこに、遅れて帝都がやってきた。

「お待たせ。これ、どういう状況?」

七番が逃亡したことを訊いていないのか、帝都はきょとんとしながら全員の様子を見回した。花押と紅葉が白い目で睨み返し、千路班の班員たちも、やや呆れ交じりの表情で迎える。そんな中、

「細工された形跡は見当たりませんよ。力技で破壊したと見ていいでしょう」

檻を観察していた左沢が淡々と告げた。中腰の姿勢から立ち上がり、花押たちのほうを振り向く。

「それで、七番は今どちらに?」

「何故か棟内を走っている」

花押が、人妖に取りつけた位置情報を確認し、報告した。

 直後、紅葉がエレベータに駆け込んだ。一瞬でドアが閉まり、上昇していく。

「彼は、お兄さんの護衛が最優先だね」

花押はエレベータを見送ると、全員のほうに向き直った。そして、溜息を零した。

「しかし、まさかあの個体が……」

「本来なら奥の収容所に入れるべきだったのでしょう、我々の失態ですね……と言いたいところですが、今回に至ってはそう簡単な話ではないような気がしまして」

「ん? どういうことだ?」

花押が眉を顰める。左沢はその反応をスルーし、天見にこう訊ねた。

「失礼ですが、七番と面識があったりはしませんか?」

 全員の視線が天見に注がれた。

 天見は最初、沈黙を通そうとしていた。しかし、左沢のすべてを見透かすような視線に負け、口を開いた。

「七番は、私が千路班に所属する前の上長・樽谷文也(たるやふみや)で間違いありません。班員たちの不注意が重なり、担当の避難所が壊滅しました。その責任を一人で負って――」

「いやいやいやいや」

途中で茂水が遮る。

「ちょっと待て。それってつまり、人間を識別できる状態ってことだろ? 暴走していないことになるぞ? おかしくないか? ですよね、先生?」

茂水が花押に同意を求める。しかし、花押は重々しく口を閉ざすばかりだった。

「先生?」

「いや。おそらく奴は、彼女を彼女と認識している」

「理性が残ってるってことですか?」

すかさず仙川が口を挟む。

「本能的なものかもしれないぞ?」

「それはないだろう? 確かに、暴走人妖は人間と妖化個体の区別を本能的に行えるけど、特定の人間の区別は――」

茂水と仙川の議論が白熱しそうになったところで、

「論ずるのは後にしよう」

花押が顎を触れながら、場を収めた。茂水と仙川は、口を開いたまま討論を止めた。

 静まったところで、花押が続けた。

「まずは、〇〇七番を早々に仕留めなければならない。左沢先生、お願いしていいかな?」

「こんなときに冗談はやめてください。私なんかより、適任者がいらっしゃるでしょう」

正したメガネ越しの冷徹な視線が、今日来たばかりのゲストを捉える。

「失礼、そうだったね。今日は戦闘のプロがいるんだった」

花押が、千路班の面々を見回した。

「君たちにお任せしてもいいかな?」

「ええ。お任せください」

千路が頷いた。

「よろしく頼むよ」

 エレベータに、茂水以外の班員全員が乗り込み、無言で一階が押された。扉が静かに閉まる。

 完全な無音の後、上昇する感覚がした。階の上昇と同時に、緊張感の高まりを覚える。

 一階に到着し、ドアが開いた。同時に、

「――班長」

天見が、呟くような声で呼び掛けた。返事が来る前に、さらに続ける。

「七番の件、私に一任してください」

 その場の全員の視線が、天見に集まった。すぐに、帝都が開口しかけたが、

「できない」

先に千路が断った。帝都が口を閉ざす。

 天見が食いかかるように表情を歪めたが、言葉を許す前に千路が続けた。

「仮に、暴走している状態で天見を認識できているとして、それほどまでに復讐心を抱いている相手に、部下一人で送り込むわけにはいかない」

「だからこそ一人で行かせて欲しいんです。本来人間の意識が残っていないはずなのに覚えているぐらい、私のことを憎んでいるんですよ? そんな危険な相手に、皆さんを巻き込みたくありません!」

天見が感情的に訴える。対し、千路は冷静だった。

「天見。お前の望みは何だ? 殺されに行って贖罪でもするつもりか?」

 天見は、口を開きつつも、何も言い返すことができなかった。抗弁がないことを悟ると、千路は班員たちを見回し、さっそく指示を出した。

「渡会と桜木、天見で六階以上を確認してくれ。三橋と私で一階から五階を回る。対象を見つけ次第報告すること」

 華陽と千路がエレベータを降りる。呆然としていたのか、一緒に降りようとする天見を帝都が引いた。三人を乗せたまま、エレベータの扉が閉まった。

 収容所からの脱走が周知されたのか、棟内にいた人たちは他の施設に移ったようで、中は不気味なほど静かだった。どの部屋も電気が消え、真っ暗だった。逆に、動くものがあればすぐにわかる状態だったとも言える。部屋を確認するたび、緊張感が全身を駆け抜けた。全神経や知覚器官が研ぎ澄まされ、少しの変化も逃すまいとした。人間としての恐怖に対応するための本能なのか、あるいは人妖の獲物を仕留めんとする本能なのかはわからない。確認のたび、何もいないことがわかっても、安堵がやってくることはなかった。

 二階の巡回が終わろうとしていたとき、千路のスマホが鳴った。着信は茂水からだった。

「どうした?」

『今どこにいる?』

「二階だ。六階以上は渡会たちが見ている」

『了解。ちょっと気になることがあってな。GPSを見ると、対象はまだ棟内にいるようなんだが、居場所が全く動かないんだ』

通話の最中、二人の前に黒い影が現れた。上の階から降りてきたであろう、青い目をしたオオカミが、二人を目にして足を止める。通話中だった千路の視線も、突如現れた敵のほうに向けられた。

『もしかすると、何らかの原因で位置情の報端子が外れちまったかもしれない。こっちから教えられる奴の位置情報には、何の価値もないということだ……千路? おーい』

千路は通話を切り、スマホを持つ腕を下ろすと、意識をオオカミのほうに向けた。

 オオカミは突然、踵を返して逃げ出した。元来た階段を上がっていく。

 千路がすぐさま渡会に連絡を繋げた。

「七番を見つけた。二階から階段を上っている」

その間に華陽が妖化し、オオカミの後を追った。

 視界の先で、黒い尻尾が泳ぐように揺れる。

 奇妙だった。もし暴走しているなら、人間二人を見た瞬間に襲い掛かってくるはずだ。人妖がヒトを食らうのは、枯渇した化元体を取り込むためだ。すでに化元体が枯渇しているであろう同類を襲うより、まだ残っている=暴走していないヒトを食ったほうが、より多くの化元体を望むことができる。だから、暴走人妖は本能的にヒトを襲う。

 だが、目の前の七番はそうはしなかった。華陽と千路を認めた瞬間、逃げ出した。まるで意思を持っているかのように。

 華陽の脳内に、最悪の予想が過る。

 ――天見さんに執着している?

 だったら急がなければならない。七番を、天見に会わせる前に捕える必要がある。足をさらに速めた。

 八階に到着したところで、オオカミは階段を抜けてフロアに出た。鼻をひくひくと動かし、ある一室に飛び込んだ。遅れて、華陽も部屋の中に滑り込んだ。

 中では、オオカミが部屋の奥を静かに見据え、静止していた。先程遭遇したときには気づかなかったが、その口には紙がくわえられていた。

 その前方には、顔面蒼白の天見と、彼女を庇うように前に立ち塞がる帝都がいた。

 部屋中に緊張の糸が張り巡らされ、わずかな動きや吐息が今の状態を壊してしまいそうだった。すぐさまオオカミを捕えたい気持ちはあっても、前に進むことさえ躊躇われた。音を殺して、息を飲むのが限界だった。

 オオカミが口を開けたのと、廊下からコウモリが飛び込んできたのは同時だった。

 コウモリが七番に覆い被さり、勢いのまま組み合った二体が床を転がった。今までおとなしかったオオカミが牙を剥き、唾を撒き散らしながらコウモリに噛みつこうとする。コウモリは、転がりながら器用にかわした。さらに、そこにワシが加わり、二体一でオオカミが足止めされる。

 コウモリの無表情な目が、華陽たちに逃げるよう訴えた。

「天見さん、こちらへ」

華陽が進路を指して促す。帝都が、硬直していた天見を後ろから押すようにして、三人は部屋から逃げた。エレベータに乗り込み、一階を押す。帝都が閉めるのボタンを連打すると、扉が閉まり、降下が始まった。

 ようやく緊張が少しだけ和らいだ。天見も正気に戻り、二人の顔を見回すと、申し訳なさそうに俯いた。

「本当にごめんなさい」

「いいんだよ。仲間なんだから、お互い様だろ?」

帝都がすかさず返答する。華陽も微笑みながら頷き、帝都に続いた。

「私のほうこそ、今まで散々皆さんに迷惑を掛けてきましたから。今回は天見さんを助ける番だと思っています」

「ごめんね。二人ともありがとう」

 三人は五号館を離れ、隣の棟の影に身を潜めることにした。あの後、部屋に残った千路・渡会の状況も、茂水や花押たちの動向も不明だが、少なくとも五号館に動きはない。七番が後を追ってきている気配もなかった。

 夜空には、雲一つない星空が静止画のように留まっていた。

「……あのさ」

帝都が遠慮がちに口を開き、天見のほうを向いた。

「言いたくなかったら別にいいんだけど、七番が収容所送りにされたのって、具体的に何があったの?」

「……私たちの不注意。いや、不注意なんて簡単な言葉で済まされないようなミス」

天見はそう言い、千路班に来る前の出来事を語り始めた。


 その日残っていた任務は、避難所内のパトロールだけだった。これまでと何ら変わらない内容だ。夜休憩の時間がまだ残っていたため、天見は樽屋とたわいもない会話をしていた。と言っても、大方樽屋が一方的に話し、天見は聞き手に徹していたが。

 樽屋の話は、おおよそいつも人妖のことだった。枕詞は「今日見た中で一番おもしろかったのは」。その日に出会った、特徴的な外観や戦闘スタイルを持つ人妖について語り聞かせてくれるのだった。

「班長は、よく観察してますね。私なんて戦うのに精一杯で、どんな人妖がいたかなんていちいち覚えてられないですよ」

「ふむ。そっか。でも、天見ならそのうち相手を観察する余裕も持てるようになるんじゃないか?」

「そうだといいんですけどね」

天見はそう言い、スマホの時計を確認した。そろそろ任務再開の時間だった。

「今の時間は……おっと、携帯充電してるんだった。ごめん天見、今何時?」

「五十分です」

「ありがと。じゃあ、そろそろだな」

ちょうどそこに、同じ樽屋班の松平(まつひら)がタイミングを見計らったかのようにやってきた。

「まっさん! ちょうどよかった、さっき代表に何人か外の人妖狩り組に送り出してって頼まれてさ。僕とまっさんかなって思ってたところなんだ」

「マジかよ」

「うん。それで、後で代表のところに打ち合わせに行くから、よろしくね」

「マジかよ」

「そういうわけで、天見。村田(むらた)さんと北寺(きたてら)さんにそう伝えておいてくれ」

「はい」

「それからもう一つ。避難所の人数が合わなかったって聞いてる。数え間違えかもしれないけど、一応健康調査を兼ねて点呼もよろしく」

「わかりました」

樽屋と松平が立ち去るのを見送ると、指示通り二人に今後の予定について伝えた。村田はニコニコとしながら頷いていたが、北寺は不服そうだった。

「点呼か。地味に面倒臭いんだよな」

「いいじゃないですか、外より安全だし。ところで天見さん、今日は班長とどんな話をしたんですか?」

村田はメガネをくいっと上げると、にんまりと笑った。彼女は樽屋と話した後、いつも何かを期待するようにこの質問を掛ける。だから、天見も普段通りの回答をした。

「人妖の話」

「またですか」

村田は呆れたように溜息を吐き、がっくりと肩を落とした。天見は、笑顔を浮かべるだけだった。

 程なくして、任務再開の時間となった。三人は樽屋の指示通り、避難所内の巡回を行なった。

 避難が始まった当初は、幼い子供たちが元気に駆け回る様子も見受けられたが、今やすっかり意気消沈していた。日が経つに連れ、体調不良を訴える高齢者も増えてきた。身体・精神両方にストレスの掛かる生活を強いられているのだから、当然だろう。衰弱する人の姿を目の当たりにする度、早く解放してやらなければという義務感に駆られた。

 避難所内の巡回を行う中、トイレの中から、男性の呻く声が聞こえてきた。天見は北寺に連絡を入れた。

「二階男子トイレ、不調者がいるっぽいです。様子を見に行ってくれませんか?」

『はいはい、承知』

北寺の面倒そうな声を聞き、通話を切る。

 男子トイレ内から、別の男性の声が聞こえてきた。

「大丈夫ですか?」

どうやら呻く男性を心配しているらしい。何度も個室を叩いている。

 程なくして、北寺が駆け足でやって来た。天見と言葉を交わすことなく、トイレの中へと駆け込んだ。

 中で心配そうに声を掛けていた男性と会話し、状況を聞いているようだった。

 呻き声が大きくなるのがわかった。外からでも聞こえるほどに、荒い息の音が激しさを増した。

 不思議と、心臓が脈打つのが速くなった。額からは脂っぽい汗が流れ、首筋の神経を冷たいものが走る。

 無意識に足が後退したと同時に、トイレからバキッと何かが壊れる音がした。

「逃げろ!」

北寺の声だ。瞬間、おぞましい獣の唸り声が耳に入ってきた。

 中から。転がるようにして北寺が出てくる。

「人妖だ」

北寺は眉間に皺を寄せて言う。

「どういうことですか?」

「わかんねえ。しかし、どうにかしないと」

北寺はそう言い、近くの火災警報器を鳴らし、消火器を手に取った。

「天見。一階に全員避難させろ。それから班長に連絡してくれ。避難所に人妖が出たってな。それも三メートル級の猪だと」

「三メートル……わかりました」

天見は頷くと、上の階に向かって大声で叫んだ。

「一階に避難してください!」

声を上げたとほぼ同時に、村田が階段から飛び降りて来る。

「何があったんです?」

「人妖が出た」

「えっ、なんで?」

「村田さんは上の階の人の避難誘導をお願い。動けない人とかのサポートして」

「オーケーです」

村田はすぐに階段を駆け上った。隣では、北寺がトイレに向かって消化薬を放射していた。

 天見は急いで樽屋に電話を繋いだ。コール音だけが鳴り続き、一向に出る気配がない。

 戦闘中か——天見はいったん電話を切り、二階の人たちの呼び掛けを行う。避難民は天見の指示に従い、円滑に一階へと降りていった。

 ふと北寺の方を見ると、消火器の中身が切れかかっているところだった。敵の目くらましも、長くは持たないだろう。

「班長は何て?」

北寺が消火器を抱えながら訊く。

「出ませんでした。また一度掛け直してみます」

「出なかっただと?」

 天見は再度樽屋へ繋いだ。しかし、やはり繋がる気配はない。

「出ません」

「何してんだ、班長は。何回も掛けてみろ、さすがに異常事態だって気づくだろ」

北寺の言う通り、何度も何度も掛け直すが、それでも、こちらの呼び出しに応じることはなかった。

「やられたりとか、してませんよね?」

「まさか。班長がやられるか?」

「だったらなんで——」

その瞬間、天見はハッとした。

 ——おっと、携帯充電してるんだった。取りに行かないと。

 もしかすると——いや、その可能性は限りなく高い。

「北寺さん。班長が携帯を忘れていったかもしれません」

「うわー、こんな時にかよ」

 遂に、消化器から放たれる薬剤が尽きた。白い煙はまだ十分に漂っている。

 そこに、一人の若い青年が「あのー」と声を掛けてきた。

「俺の友人がトイレ行ったきり帰ってこないんですけど、中にいたりしませんか? もしいたら助けて欲しいんですけど」

「それだったら手遅れだ。中にいたおっさんは——」

北寺はそこで口を閉ざす。そして、青年の顔をじっと見つめた。

 天見も、北寺の「おっさん」発言に引っかかった。友人というには、少しばかり年齢が離れすぎている気がする。

「——その友人の名前を聞いてもいいか?」

北寺が険しい顔で青年に迫る。天見は即座に名簿を用意した。

遠山(とおやま)です」

「下の名前もだ」

和樹(かずき)。和風の和に大樹の樹」

天見は急いで彼の言う名前を探した。だが、どこにもその名前は載っていない。

「その遠山って奴は、お前と一緒に避難したのか?」

「いや。避難所にまだ案内されてないって言うから、場所を教えてやったんです」

彼が説明する間、天見は人妖のデータにアクセスした。

 そこには、遠山和樹という名前の若い青年の顔写真と、住所が記されていた。

「あなたの友人はこの人?」

天見がスマホの画面を見せつける。

「ああ、そうです」

その返事に、天見は大きな間違いをしでかしていたことに気づいた。

 人数が合わなかったのは、人妖が紛れていたからだった。同様の過ちに気づいた北寺が、険しい表情で青年のほうを向く。

「若造。お前はたいそう迷惑なことをしでかした。それだけは伝えておく。友人の心配なんかしている暇はない。急いで一階に逃げろ」

「え、でも……」

「いいから、今は逃げるんだ!」

北寺の威圧感に押され、青年は逃げるように去る。

「天見、お前は班長に直接今の状況を伝えてこい。妖化すれば、お前が一番早く辿り着ける」

「そうなると、対抗できるのは北寺さんと村田さんしかいなくなりますよ?」

「二人で止める。だから行け。班長を探して、指示を仰げ」

「——わかりました。できる限り早く帰ってきます」

天見はそう言い、階段を駆け下りた。

 避難所を出たところで、黒の猫又に妖化し、全速力で昼間に巡回した場所まで走った。一人で探すには広すぎる範囲だった。嗅覚と聴覚を頼りに、樽谷を探す。

 ようやく発見した。見つけるまでにかなりの時間が要した。範囲の広さを鑑みるなら、当然掛かって然るべき時間ではあったが、緊急の用件を伝えるにはあまりにも遅すぎた。

 唖然とする樽屋に、天見は妖化を解くなり、単刀直入にこう告げた。

「避難所に人妖が出ました」

「人妖……? あの辺りはとっくに掃除したはずだが。だったら早く連絡をくれれば——」

樽屋はそう言ってズボンのポケットをまさぐる。そこに何もないことを知り、絶望した表情に変わった。

「避難所内に人妖が紛れていたようです。戦力が足りません。急いで来てください」

「わかった」

二人は妖化し、避難所へ向かった。

 辿り着いたときには、静まり返っていた。

 二人は飛び込むようにして避難所に入った。

 血生臭い空気が溢れてきた。鼻を手で摘まみ、辺りを見渡すと、さっそく一名の死体を確認できた。下には血だまりができており、死体自体も胴体が踏まれたか、あるいは食い潰されて吐き出されのか、ぺちゃんこになっていた。前方にも、似たような死体がいくつも転がっていた。

 教室の中に入ると、さらに悲惨な光景が広がっていた。山積みになった死体。もはや人間なのかさえもわからない。床や壁は赤黒く染まり、目を凝らしてみると、肉片が貼りついていたり、めり込んだりしていた。

 一階には他にも教室があったが、中に入るのは諦めた。どうなっているのかは、概ね予想がついた。

 廊下に出ると、樽屋が「生きている人、いませんか? いたら声を出してください!」と呼び掛けながら奥のほうへ歩いていった。ドアが突き倒されているお陰で、中からの音も聞き取りやすくなっているはずだ。それなのに、助けを呼ぶ声どころか、身体を引き摺ったり、喉をヒューヒュー鳴らす音さえも聞こえてこない。

 一階の避難民の生存者数は絶望的だった。反応が皆無のため、樽屋は呼び掛けをやめて、二階へ向かうと提言した。

 階段にも、血の跡がべっとりと残っていた。

 二階へ上がり、廊下を見る。

 肉塊が二つ、転がり落ちていた。天見はゆっくり近づいた。

 それの正体に気づいた途端、全身の力が抜けた。天見は身体を震わせながら、膝から崩れ落ちる。

 骨と毛皮の一部。もう一つは骨以外ほぼ何も残されていなかった。何より、どちらも人間の骨格ではない——ということは。

 天見は目に涙を浮かべながら、何度も同じ言葉を呟いた。

「ごめんなさい」

 もし人妖の存在に早く気づいていれば。樽屋の忘れ物に気づいていれば。人数が合わないことについて、もっと深刻に受け止めていれば。もっと早く樽屋を連れ戻していれば。

 幾重の後悔がどっと押し寄せる。どれか一つでもできていれば、犠牲者は減らせていたかもしれない。そして、その責任を背負うことになったのは、天見や死んだ班員たちではなく、樽屋ひとりだけだった。


 話を聞き終わるや否や、帝都が腕を組みながらこう告げた。

「まぁ、確かに天見たちにも否はあるかもしれない。でも、その責任を負うのがリーダーの仕事だろ? それで殺したいほど天見を憎んでるとしたら、それは七番のほうがおかしいって。千路の奴もそう言うと思う」

「でも、私は何も罰を受けてないのに……」

「そういう決まりなんだから。第一、その班長にも携帯忘れてくって落ち度があったわけだろ? 完全に天見の身代わりになったわけじゃない」

帝都がどんなに言葉を並べたところで、天見の表情は晴れなかった。帝都は困ったように眉を八の字にすると、助けを求めるように華陽のほうを向いた。

「なぁ、華陽もそう思うだろ?」

話を振られ、華陽は頷こうとする。

 全身を包み込む空気が変わった。静穏が不気味さを伴い、風に揺られる木の葉の音が警告音のように感じられる。自然と神経が研ぎ澄まされ、心音がはっきりと耳に届いた。徐々に加速していくのがわかる。

 迫り来る存在に気づいたのは、微かな足音や鼻息か、それとも人妖特有の臭いや気配なのか。華陽が振り向いた方角に、黒い影が降ってきた。華陽たちの前に着地し、顔を突き合わせるように向き直る。

 華陽と帝都が同時に妖化した。

 オオカミが動き出す気配を感じると、先んじて帝都が動き出した。互いに吠えて威嚇しながら、距離を取って睨み合う。

 華陽は背後を見やった。天見はまだ妖化していなかった。罪悪感のこもった眼差しを、オオカミから少しも外さない。

「天見さん」

華陽が声を掛けると、天見は我に返るようにびくりと動いた。華陽は続けた。

「逃げるばかりでは解決しないと思います。戦いましょう」

天見が覚悟したように目を閉じる。大きく息を吸い、そして目を開けると、オオカミと同じ毛色の猫又へと姿を変えた。

 帝都が噛みつかれ、地面に叩きつけられると、すかさず天見が七番の顔面に前足を振り下ろした。オオカミの顔面に大きな深い引っ掻き傷ができる。

 完全な不意打ちだった。そのせいか、オオカミは怯んだように動きを止めた。

 その隙を逃さず、華陽が追撃した。背後から飛び掛かり、金棒を振り下ろした。しかし、これは外れた。目の前にあったはずのオオカミの姿は消えていた。次の瞬間、首筋に生温い息がかかった。牙の先端が皮膚に触れる。

 金棒を水平方向に振り直そうとしても、間に合わない――そう思った矢先、オオカミの身体が突き飛ばされ、地面に落ちた。

 脇腹に妖化した帝都が食らいついていた。さらに首と尻尾を、ロープのような全身で押さえつける。

 帝都はとどめを促すよう、天見に目配せした。

 天見は固まっていた。かつての班長と対峙する覚悟までは決まっていたが、殺す覚悟まではできていなかった。

 オオカミの青い目も、とどめを刺すようせがんでいた。その瞳には、震える黒い猫又の姿が映っていた。

「おい!」

頭上から声がした。見ると、紫のコウモリに乗った茂水が手を挙げていた。

「そいつを生け捕りにしてくれ!」

茂水の声に反応したのか、オオカミの身体がぴくりと動いた。目には消失していた戦意が灯り、帝都の身体を払いのけると、馬乗りになって口を大きく開いた。紛れもなく、息の根を止めようとしている目だった。

「帝都くん!」

華陽は金棒を強く握り、地面を強く蹴った。眼下にオオカミの背中が映る。

 ――天見さん。天見さんの元上司さん。ごめんなさい。

 頭部を破壊する感触が金棒から伝わった。オオカミが倒れたところで、さらにとどめの一撃を振り翳す。

 呼吸で上下していた身体の動きがぴたりと止まった。宝石のような青い目から生気が消える。

「遅かったか」

地上にやってきた茂水が、七番の呼吸を確認した。スマホを取り出し、花押に七番の死亡を告げる。

 その場の全員が妖化を解いた。華陽は、潰れて中身が少し飛び出ているオオカミの頭部を見下ろし、きまり悪そうに目を逸らした。

 茂水の報告が終わると同時に、千路が班員たちを見回した。

「怪我はないか?」

真っ先に帝都のほうを見た。帝都は、血に染まった自分の胴体をけろっとした表情で見下ろした。

「すぐ治ると思う」

次に目が合ったので、華陽は大丈夫の意味で頷いた。渡会も、問題なさそうだった。

「天見」

千路が最後の人物に呼び掛ける。天見はびくりとして、読んでいた紙をその場で破り始めた。八階で遭遇したときに、七番がくわえていたものだった。

「無事か?」

「え……はい」

天見はぎこちなく頷くと、足元の紙屑を踏み潰した。

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