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5.化元体盗難

 東北地方の蔵王山周辺を中心に始まった大規模人妖暴走現象は、たちまちその地域を拡大していき、宮城・山形両県の全域と秋田(あきた)岩手(いわて)福島(ふくしま)の大部分にまで広がっていた。そのため、華陽たちが赴任したときには、すでに人妖暴走化が観測されているという状況のほうがメジャーになっていた。今回赴任した山形県北の酒田(さかた)市も例外ではなかった。移動中からすでに暴走人妖と遭遇し、車を降りての処理を余儀なくされることが度々あった。

「数が多いな、こりゃ」

次の赴任先を目前に、道を塞ぐような人妖の群れと遭遇し、運転していた茂水が車を止める。避難所が近くにあるせいか、他班の団員がすでに対応に当たっていた。

 班員たちが、事務的に車を降りた。華陽も後に続き、戦闘に加わる。

 妖化状態にはだいぶ馴染んできた。妖化時の人妖人格の感情に飲まれそうになることもなくなり、制御できるようになった。何より、暴走人妖との戦いそのものも慣れてきた。自ら異形の群れに飛び込む。敵の行動がスローモーションに見える。一連の動きの中で隙を見つけ、刀を振る。首を切り落とす。胸を一突きする。敵の動きが通常の速さに戻る。切断された頭が転がり、胴体から血飛沫が上がり、地面が朱に染まる。

 両足が地面を踏みしめ、刀を鞘に収める。口から少しも乱れていない息が零れる。

 ふと、視線を感じた。周囲を見回すと、他班の血盟士団員たちが、妖化から戻ることも忘れて唖然と華陽を見ていた。

 注目を浴びていると知り、何をしていいかわからず挙動不審になった。

 考えれば当然のことだった。本来、未成年者が血盟士団に加入することはない。華陽のような子供が戦っているのは、傍から見れば違和感しかないだろう。もう少し慎むべきだったかもしれない。

「華陽、お疲れー。戻るぞ」

帝都の声がした。見ると、他の班員たちもひと仕事終え、車の前に集まっていた。

 華陽は帝都たちのところに走り、思い出したように妖化を解いた。

 班員全員が集合したところで、車に乗り込む。

「人妖肉回収用のトラックはもうしばらくしないと来ないから、積み込みはしなくていいってさ。だよな? 直兄」

帝都に振られ、渡会が頷く。

「想定より早く片づいたみたい。僕たちが頑張ったからって。特に華陽さん」

「私ですか?」

「うん。ほとんど華陽さんが倒しちゃったから、積み込みは全部こっちでしますだって。ありがとうね」

 車が出発した。車窓からは、暴走人妖の死骸が路上に散らばっているのが見える。

 先程の渡会の言葉が脳内で反芻された。

 ――ほとんど華陽さんが倒しちゃったから、積み込みは全部こっちでしますだって。ありがとうね。

 流石に「ほとんど」は盛っているだろうが、それでも役に立っていることが嬉しかった。華陽の両足がごきげんそうに交互に振れる。

 次の赴任地に到着した。新築の校舎が構えていた。ちょうど、配給のトラックが到着したところだったので、自分たちの停泊準備より先に、トラックの荷下ろしを手伝うことになった。

「結局力仕事かよ」

茂水が落胆の息を零す。

「化元体の運搬よりはマシじゃないですか」

渡会が宥めるように言い、車を降りる。その後に続いていた天見も、降りる際にこう告げた。

「あんたも働きなさいよ? 帝都や華陽ちゃんだって手伝うんだから」

「へいへい」

茂水はシートベルトを外し、天見のすぐ後に降りる。

 団員たちが列を成し、アリの行列のように荷下ろしが進んでいた。華陽が先頭に近づく頃には、荷台の中身はほとんどなくなっていた。

「もうすぐ終わりそうだから、華陽ちゃん、先に部屋の準備をしていてくれる? 掃除は簡単にで大丈夫。荷物も、自分の分と、運べる分だけでいいから」

天見から指示を受け、列を抜けて一足先に千路班の割り当てられた部屋へ向かった。

 車から華陽と天見の私物と班共通の荷物を抱え、人気のない渡り廊下を歩く。

 目的の教室へ到着した。一班が占有するには、広すぎる部屋だった。床に転がる埃が目につくと、掃除ロッカーを探して掃き掃除を始めた。換気のために窓を開けようと手を伸ばしたが、遠くで飛んでいる人妖の姿を複数体認めると、一か所だけを半分開けるだけに留めた。

 静かだった。微かに人の声や物音は聞こえてくるが、今ここにいるのは自分一人であるということを意識させられるくらいには、静穏だった。

 曇り空を旋回する人妖は、まるで機械のように同じ動きを続けていた。その様子を漠然と視界に収める。

 何度も対峙するうちに、人妖への恐怖心は薄れていた。場慣れももちろんだが、自分が思ったより戦えるという自信が、人妖としての華陽を強くしていた。

 しかし同時に、それ自体への恐怖が湧くようになっていたのも事実だった。化け物を前にしても動じなくなっていく自分が――まるで、生活の一部であるかのように当然に敵を葬っていく自分こそが――正に、化け物に近づいているのではないかと疑うようになった。

 ――いつ、この生活から解放されるんだろう?

 それは、窮屈な非日常から逃げ出したいのではなく、怪物と戦いたくないからでもなく、自分が自分でなくなってしまう恐怖と向き合わなくても済むようになりたいという願いから来るものだった。

 集めた塵を空っぽのゴミ箱に捨て、掃除用具をしまう。窓を閉め、他の班員の荷物を取りに部屋を出ると、不意に近づいてくる足音に気づいた。

「華陽さんのことって、団長には伝わってるんですか?」

「たぶん言ってない」

声から、渡会と茂水だとわかった。

 勘で、聞いてはいけない話のような気がした。近くの小教室に入り込み、身を隠す。

 ドア越しに、二人が通り過ぎていくのがわかった。割り当てられた部屋のドアを全開にする音が聞こえてくる。

「大丈夫なんでしょうか? 華陽さんはもちろん、班長も」

「何も起きなきゃ、な。華陽ちゃんがまた暴走して、前みたいな被害が出れば団長も黙ってないと思うが。ま、そのときには、俺たちも死んでるだろうさ」

「……笑えないですね。あのとき、暴走した華陽さんを止めることができたのは、奇跡以外の何物でもなかった」

「ああ。奇跡は二度も起きない。暴走しないよう細心の注意を払うしかない」

 耳に入ってくる言語が、まるで知らない言葉に思えた。脳が理解を拒もうとしていた。知ってはいけない情報をシャットアウトしようと、思考をあえて鈍らせようとする。しかし、完全に理解を妨げることはできなかった。

 ――私が……暴走した?

 その事実から、盛大な勘違いをしていたことに気づいた。

 すべてが始まったあの日――大蛇に襲われ、意識を失った後、てっきり千路たちに助けられたとばかり思っていた。しかし、状況は違っていたようだ。

 大蛇を殺したのは、暴走した華陽自身だった。そこまではいい。問題は、その後何が起きたかだ。

 知らない人の死体。子供の死体。見たことのないはずの光景が過る。壊れた車。崩れた家。消灯した信号機。死んだ街。似た景色を、どこかで目にしたことがある。思い出した。震災のときだ。たった数時間で、幸せに満ちたたくさんの「普通」が奪われていった。

 鬼の姿になった三橋華陽が、刀を振るい、街中の人を切り殺していく様子が浮かんだ。その目は、これまで見てきた暴走人妖と違わない、理性を失った目だ。

 恐怖を翳し、苦痛を与え、命を奪う。たった一瞬で、何十・何百も。こんなもの、何時ぞ人類を震撼させた天災と、何が違うというのだろう?

 心臓が二つに引き裂かれそうなほどの動機と息苦しさに苛まれた。自己嫌悪が心を蝕み、本能に反する欲求がじわりと胸底から湧いてくるのがわかる。

 一人になりたかった。

 静かに部屋を飛び出し、人目のない場所を求めて走った。

 女子トイレの個室に飛び込み、フタの閉じたままの便器の上に座り込む。自然と涙が溢れ出た。

 ――助けてくれてありがとう! パパの仇もありがとう! めっちゃかっこよかった!

 少年から礼を言われたあの瞬間から、少しでも誰かの役に立つことができるのではないかと期待していた。たとえ醜悪な姿を晒すことになっても、それで誰かの助けになるのなら、喜んでできた。

 しかし、実際はどうか? 有害な化け物だ。中学時代に同級生から吐き続けられた呼び名は、単なる悪口に過ぎず真実を捉えていた。弱虫の中に宿る本性を見抜いていたのではないかと思うほどに。

 ――いらない存在だ。いや、いてはいけない存在だ。

 握り拳を作り、何度も自分の頭を両側から叩きつける。何度殴っても、満足しなかった。痛みが足りない。もっと力を入れ、関節の堅い部分が当たるようにして殴りつける。何度も、何度も。まだ足りなかった。

 どれぐらい個室にこもり続けただろう。

「華陽ちゃーん」

廊下から、天見の声が聞こえた。頭を叩くのをやめ、嗚咽を堪える。応じたくはなかった。泣き顔を晒したくないというのはもちろんだったが、彼女たちとこれ以上一緒に戦う気力がなかった。壊れた日常を取り戻すという使命を掲げる組織に、殺人鬼の自分は相応しくないと思った。

 天見の声が離れていくと、涙を拭いて女子トイレを出た。

 一人で向かったのは、理科室だった。薬品棚をざっと見回し、劇物の薬瓶を見つけると、棚戸を強く引っ張った。

 当然、開かなかった。棚を再度睨む。暴走人妖と戦う要領で棍棒で叩けば、破壊できそうだった。妖化を試みた瞬間、

「こんなところにいたのか」

背後から帝都の声がした。安堵の吐息とともに、足音が近づいてくる。

「みんな心配してたぞ? さらわれたんじゃないかって。茂水から、化元体錠剤飲んでくれって伝言。部屋にあると思う……何かあったか?」

口調が変わったのは、泣いた跡特有の、赤く腫れた目元に気づいたからだろう。

「何でもない」

鼻声で華陽が否定するが、帝都は引かなかった。

「何でもないようには見えない。何があったか言ってくれ。俺に言いづらかったら、天見とか別の人でもいい」

「大丈夫だから!」

自分でも驚くほど、きつい声が出た。帝都が驚いたように固まると、華陽はその場から走り去った。

「華陽!」

帝都の叫び声が聞こえる。

 行く宛は考えていなかった。ひたすら走りながら、帝都に酷い態度をとってしまったことを反省した。

 生きたいと思うがままに選択した、自らの言動を後悔した。どこかの避難所で目を覚まし、千路から血盟士団への協力を頼まれたとき。突きつけられた銃口に恐怖し、何も考えずに頷いてしまったこと。

 ――あの場で殺されればよかった。

 そんなことを思い出していると、その銃口を突きつけた本人が、部屋から出てきて華陽の前に現れた。

「夜休憩後、外の巡回だ。それまで、化元体の補給を済ませて欲しい」

「――もう行きません」

その場を去ろうとしていた千路の足が止まる。口にこそしなかったものの、サングラス越しの険しい視線は理由を欲しているのがわかった。

 華陽は、自分でも驚くほど冷静に続けた。

「私は……私が血盟士団に入る前、地元の人たちをみんな、殺してしまったんですよね? それなのに、善人のように人助けをして、当たり前にお礼を言われて……耐えられません」

「……それで?」

冷やかな声が返ってきた。千路の右手が、自らの腰に触れる。

「人妖駆除に参加しないなら、何をするんだ? タダ飯食いの人妖を養えるほどの余裕が、我々にはない」

「わかっています。これ以上、皆さんにご迷惑をお掛けするつもりはありません」

「――そうか」

 銃口が華陽を睨んだ。少しずつ、距離が詰まってくる。

 華陽は唾を飲んだ。先程まで、自分が生きていることが到底許されず、命を絶つことばかりを考えていたというのに、想定外にも全身は恐怖を感じていた。心臓は逃げろと叫ぶように跳ね上がり、両足は逃げ出す準備をする。

 さっそく、この決断を下したことを後悔した。口はいつでも撤回の言葉を告げられるよう開かれ、華陽の意思を待っている。妖化すれば、人殺しの武器を持った屈強な男が相手でも、応戦は可能だろう。

 いざとなって踏ん切りをつけることができない自分に、ますます嫌悪感が募った。

 引金に人差し指が宛てがわれる。華陽は、両足に力を入れて堪えた。

「千路! 大変だ」

 突然、奥の階段から茂水が慌てて駆け降りてきた。千路は銃を構えたまま、引き金から指を外す。

「どうした?」

「備蓄の化元体が盗まれた」

銃口が床を向いた。

「量は?」

「全部だ」

「盗んだ奴は?」

「大型トラックが一台来ていたらしい。ただ、中の人間を見たのはいない」

千路が、完全に茂水のほうを振り向いた。

「避難所の団員が最後に化元体を摂取したのはいつだ?」

「班による。一番長いところで五日前だ」

「本部に連絡は?」

「入れてある。届くのは早くて三日後と言われた――間に合わない」

茂水が最後に放った言葉が、重々しく脳内に響き、何度も虚しくこだました。

「渡会は?」

「たぶん下だ。いつでも発てるようにしてると思う」

「了解した。私と渡会でトラックを探してくる。他の班員たちには、緊急時のために備えておくよう伝えてくれ。それから、大型免許持ちの者がいないか確認を頼む」

千路はそう言い残すと、足早に階段を下りて行った。残った茂水が、華陽のほうを向く。

「……つうわけで、華陽ちゃん。班員の奴らを探すぞ」

「あ……はい」

この流れで断ることはできなかった。

 夜休憩に入ろうとしていた天見と帝都と合流し、さっそく茂水が事情を説明した。

「緊急時に備えろって、具体的に何をすりゃいいんだよ? 盗んだ奴らは、もうずらかったんだろ? それとも増援が来るのか?」

帝都が顔を顰める。茂水が溜息を吐いた。

「わかってないの、お前だけだぞ? 万一、化元体が間に合わなかったときの対策をあらかじめ打っておけって話だ」

「あ、そういうことか」

帝都がようやく合点がいったように頷く。その隣で、天見が口を開いた。

「団員と避難所の人たちを隔離したほうがいいかもしれない。だけど、場所はあるかしら?」

「外に武道館があったはずだ」

「それじゃあ、団員の人たちに移動してもらいましょうか」

 天見が中心となって誘導し、特に大きな混乱もなく、血盟士団員と避難民の住み分けが進んだ。終わりが見えてきたところで、千路からのもう一つの頼み事を実施していた茂水が戻ってくる。

「何とか収まりそうだな」

様子を見るや否や、茂水が安堵したように言った。

「そういや茂水。千路から連絡は?」

「まだだ」

茂水はそう言いながら、スマホをポケットから取り出した。着信はなかった。

「遅いなぁ。あいつ、何もたもたしてんだよ。トラックなんてすぐ見つかるだろ」

帝都は苛立った目で窓の外を見上げる。華陽も、真っ暗に染まった夜空を見つめた。

 帝都の言い分は最もだった。人妖の大規模暴走が始まって以来、外を走る車両は限られている。ましてや夜間など、避難所と車両ぐらいしか光源となるものはないはずで、避難所から数分前に走り去ったトラックを探すのは、到底難しいことには思えない。

 不穏に揺らいで見える月に目を奪われていると、スマホの着信音が鳴った。茂水が反射的に胸ポケットから引っ張り出し、画面の「千路」という表示を確認する前に応答する。

「今どこだ? 輸送トラックならいつでも送れるぞ?」

『すまない、目標を見失った』

その声は、茂水以外の班員全員にも届いた。

「見失った? どういうことだよ? 団員たちの命が懸かってんだぞ?」

帝都が怒鳴り散らす。どうやら、通話越しにも届いたようだった。

『力不足で申し訳ない』

普段の千路からは想像できないほどの弱々しい声だった。怒り心頭に発していた帝都も、一瞬で唖然とした表情に直った。何かを発しようとしていた口が、静かに閉ざされる。

「んで、どうする? このままじゃ、団員全員暴走するぞ?」

茂水が堅い口調で訊ねた。少しの間があって、千路が返答した。

『我が班の備蓄はどれぐらい残っている?』

常に避難所を転々としている千路班は、避難所の団員たちとは別に化元体を管理していた。茂水は思い出すように天井を仰ぎ、口を開いた。

「だいたい三回分だ。俺たちが明日摂る分を除くと、二回分」

『それを分けられるだけ回して欲しい』

「正気か? 行き渡ってもせいぜい十人ぐらいだぞ? どうやってその十人を選ぶ?」

『本部から化元体が届くまで持てばいい。私の分け前も使ってくれて構わない』

「それでも全員分には到底届かない」

『わかっている!』

焦燥が色濃く表れた声だった。茂水が拳を強く握り、口を開く。

「とりあえず、できる範囲でやってはみる」

『申し訳ない、よろしく頼む。何かあったときは私の責任だ』

 通話の切断アイコンが押された。茂水はスマホをポケットにしまい、真っ青な顔を華陽たちに向けた。

「畜生。どうしろってんだ」

茂水が頭を掻き毟る。

 胸を押し潰すような息苦しさに、華陽は顔を背けるように再び窓のほうを向いた。月はのんきに光っていた。その下で、近所の学校のような建物が窓から明かりを放っている。

「こんな近くに、もう一軒避難所があるんですか?」

華陽が誰にとでもなくぽつりと零した。他の班員たちが、いっせいに窓のほうを向く。

「……避難所だな」

「ぽいわね」

茂水と天見が呟いた。それを受けて、華陽が続ける。

「向こうから化元体を分けていただくことはできないでしょうか?」

「……できるかもな」

「できそうね」

四人の間に蹲っていた淀んだ空気が、途端に晴れていくのがわかった。

「交渉に行ってくる。天見はここに残ってくれ。んで、帝都は俺と……いや、天見とお留守番だ」

「はぁ? 何で?」

「面倒臭ぇからだよ。華陽ちゃん、荷物運びあるかもしんないから一応ついてきて」

「は、はい!」

 校舎を出て五分と歩かないうちに、目標の避難所に到着した。見る限り、人妖だけ掻き集められたり、血盟士団員だけが使用するというような拠点ではなく、通常の避難所のようだった。

 さっそく茂水が、通りかかった団員に事情を話すと、避難所を管轄する団員の代表のいる校長室に通された。

「代表の皆木(みなぎ)だ」

茂水と同年代ぐらいの、表情が硬いメガネの男性が、茂水と華陽を交互に睨んだ。

「お隣に赴任中の千路班の茂水です。代表は、普段からこちらで?」

「んなわけあるか。団員たちに聞かれたくなかったからわざわざ場所を作った。他所の避難所とはいえ、化元体が全部盗まれたなんて知ったらパニックになるだろう? まったく、バカバカしい。自業自得以外の何物でもない」

皆木がぶつぶつと不満そうに呟く。茂水も、今にも舌打ちをしそうな表情をしていた。もしこの場に帝都がいたら、今にも喧嘩が勃発していただろう。華陽は、帝都を置いていくと決めた茂水の判断は正しかったと思いながら、空気になることに徹した。

「隙があったんだろ、隙が。前に新庄の避難所で団員が襲われて化元体が食われたって話があっただろ? 俺たち団が所有する資源は、外部からも狙われるものになった。普通、認識を改めないか? 他人事だと思ってるから、こんなことが起きるんだ」

説教はもうしばらく続きそうだった。茂水があからさまに退屈そうな表情を浮かべ始めたそのとき、

「代表!」

話を遮るように、若い団員が校長室に入ってきた。

「今取り込み中だ。話は後に……」

「大変です、化元体がなくなっています!」

完全な無音が室内を包み込んだ。

「な、ななななな、何を言ってるんだ……見間違いじゃないのか?」

皆木の震える手がメガネを支える。

「確かにありませんでした。校内中を探している最中ですが、なさそうです」

皆木はその場に崩れ落ちた。つまらなそうにしていた茂水も、皆木と同じ表情に変わっていた。

 希望がひとつ失われた。華陽は淀んだ瞳で、絶望に打ちひしがれる大人たちを漠然と視界に宿していた。


 翌朝、皆木たちの避難所から、天見たちのいる避難所に避難民の移動が始まった。入れ替わりで、武道館に収まっていた団員たちを皆木側の避難所へ移した。

 道路を歩く団員たちの列は、さながら幽霊の大行進だった。あまりの生気のなさに、誘導する華陽たちの生命力も奪われそうだった。

 血盟士団員専用となった避難所のほうでは、新たな地獄が始まっていた。

 五階。窓から頭を突き出す男性の姿があった。

「やめてくれ。暴走までには個人差がある。もしかすると助かるかもしれない」

必死にそう説得するのは、茂水だった。しかし、聞き入れられることはなく、男性の身体はマネキン人形のように落下していった。

 茂水はすかさず窓へ走り、手を伸ばしたが、間に合わなかった。

「六人目か」

すべてを諦観した声が呟く。

 虚しさを背負った背中を伏し目がちに見つめると、華陽は目を逸らした。廊下を歩くのがつらかった。教室が視界に入るたび、そこには未来のない団員たちが死人のようにくたびれていた。同情を向けることさえ罪悪感に溺れそうになり、もはや存在そのものをシャットアウトするしか心身を守る術がなかった。憂鬱に侵されそうになる胸中から目を背け、取り残された避難民がいないかを探す。

 途中、廊下に尻をつけて鎮座する団員の姿があった。

 皆木だった。魂の抜けた顔で、ぼんやりと天井を見上げていた。華陽がそっと通り過ぎようとすると、

「おい」

向こうから気づかれた。華陽はびくりと足を止める。

「子供がこんなところで何してる?」

「あの、えっと……お手伝い、です」

語尾にいくに従い、声が萎んでいくのが自分でもわかった。

「介錯のか?」

冗談らしからぬ声が訊ねる。華陽が言葉に詰まると、皆木は冗談と言わんばかりに鼻を鳴らした。それが、隣に来るように言われているような気がして、華陽は皆木の隣に恐る恐る腰を下ろした。

 沈黙の時間が気まずかったので、率直に思ったことを口にした。

「血盟士団の皆さんって、すごいですね。誰一人して、妖化して他の人を襲おうとしない」

「そんなことやったら収容所行きだ」

「収容所?」

「悪いことをした団員が連行されるところだ。囚人みたいな生活を強いられ、時には実験体として利用される。化元体は与えられず、一生暴走した状態で飢え続ける。死んだほうがマシだ」

皆木は額に手を充て、溜息を吐いた。

 華陽は掛ける言葉を探したが、何も見つからなかった。

「ところで、お前さん、正規の団員じゃないだろ?」

「わっ……やっぱり、わかりますか?」

「当たり前だろ。何で血盟士団に入った?」

「あ……多くの人を救いたいと思ったからです」

値踏みでもするような鋭い視線が、華陽の全身を往来する。

「ふぅん。それで? どうだ、入ってみて。後悔しただろ?」

「いえ。血盟士団に入ってなかったら、今まで生きていられなかったと思うので」

「なるほど……今度は本当みたいだな」

「え――」

華陽は驚いたように振り向いた。皆木は額を抱えていた手を外す。

「こう見えても、高校で教鞭を執っていた。顔を見りゃ、年頃の子供の嘘はだいたいわかる。名前、何て言うんだ?」

「三橋です」

「三橋か。無理にとは言わないが、最後の話し相手にでもなってくれないか? もし暴走したら、殺すなり食うなり好きにしてくれ」

いつの間にか、皆木の顔から死への恐怖は消えていた。話している間に腹を括ったらしい。

「私でよろしければ」

華陽が答えると、皆木は安堵の表情を浮かべた。

「三橋みたいなタイプの生徒はうちにはいなかったから新鮮だ」

「そうなんですか?」

「うちのは、もっとちゃらんぽらんな奴らばかりだった。正直、赴任したての頃は見下していた。勉強はしない、授業も不真面目、将来のことは考えない。遊ぶ時間欲しさに高校三年間の猶予を手に入れただけ。人生を舐めてると思った」

辛辣な言葉の羅列に、華陽はただ黙って聞いていた。

 皆木がふっと笑った。

「でも、夢中になれることにはとことん全力を注いだ。俺らがくだらないと思うことにも、目を向けて楽しむ連中だった。卒業した後も、毎年か人生の節目に年賀状や手紙を送ってくれる。みんな幸せそうだ」

皆木の顔つきは、初めて会ったときの厳つい仏頂面とは別人のものだった。孫を愛でる祖父母のような穏やかな眼差しが、虚空を見つめる。

「むしろ、人生を舐めてたのは俺のほうだったのかもしれない。勉強して、いい大学に入って、安定した職につけば、いい人生が歩める。そう妄信していたんだから」

「後悔してるんですか?」

「フン。教員なんて、安定職とか言われておきながらクソみたいな環境だ。でも、出会いには本当に感謝してる。後悔はないな」

皆木はきっぱりと言い放った。そして、落胆とは異なる溜息を吐き、華陽に向き直る。

「教え子たちの未来をもう見届けることができないのは心残りだが、まぁ仕方がない。国の未来、頼んだよ」

重い約束がひとつ、脳髄に刻まれた。

 華陽が背筋を伸ばしていると、皆木は姿勢を戻して華陽から顔を背けた。

「長話に付き合わせて悪かったな。お陰で気分が安らいだ。ありがとう」

「いいえ……」

華陽は何と答えるべきかわからず、曖昧な返事を残してその場を後にした。

 皆木の教え子たちが羨ましいと思った。華陽にとって、学校は楽しい場所ではなく、ただ勉学を教わりに行くだけの虚無の場所だった。教員という存在を振り返っても、何も思い出せない。顔・名前・授業風景、どれをとっても煙のようにぼんやりしていて、掴みどころがない。良くも悪くも、思い出と呼べるものは何もなかった。

 階段で一階に向かうと、ちょうど天見が帰ってきた千路と渡会に、避難民の移動完了を知らせているところだった。

 千路は、胸から腹にかけて大きな切り傷があり、シャツが赤く染まっていた。血は支えていた渡会の衣服にも広がっていた。華陽に気づくと、二人は用件を終えたのか、無言で立ち去った。

「華陽ちゃん、ちょうどよかった」

天見が手招きする。華陽は急いで階段から降りた。

「華陽ちゃんの化元体、茂水が持ってるから忘れないで受け取ってね」

「わ……わかりました」

すっかり忘れていた。街一つ壊滅させた人妖が、よりにもよってこの状況下で暴走したら最悪だ。何せ、近くには無防備な避難所がある。

 華陽は一礼し、保健室に向かった。

 保健室に到着したものの、茂水はいなかった。もう片方の避難所に行っているのではないか? そう思いつつ、校内を探してみると、

「いい加減にしろって!」

帝都の呆れと怒りの交じった声が聞こえてきた。向かってみると、そこは理科室だった。帝都だけでなく、目当ての人物も一緒にいた。ただし、顔は真っ赤で、椅子に座りながら上体を不自然に揺らしている。

「あの……茂水さん……化元体をいただきたいんですが」

華陽が、恐る恐る声を掛ける。

「お、かよちゃん! 酒が欲しいって?」

茂水が台上の空のビーカーに手を伸ばす。周囲には、透明な液体が入ったビーカー二つと、エタノールの薬瓶が置いてあった。

「ちげーよ、化元体だっつうの」

すかさず帝都が止めに入る。

「帝都、邪魔すんなよ。かよちゃんがエタノールの水割り飲みたいってよ」

「言ってねぇよ!」

「お前に聞いてねぇよ。な、かよちゃん?」

「い、いや、結構です」

「釣れねぇな」

茂水は手前のビーカーを手に取り、くいっと呷った。

「で? 何だって? お酒?」

「化元体です。化元体の錠剤」

華陽がゆっくり告げると、茂水は思い出したように唸った。

「あれはだなぁ、保健室のぉ、机のぉ、左のぉ、引き出しの中!」

持っていたビーカーが空になると、茂水はエタノールを注ぎ足した。

「おい、こら!」

帝都が瓶を取り上げる。茂水は千鳥足で立ち上がり、水道水を足すと、ビーカーを軽く揺らして一気に飲み干した。

「うへぇあぁ! ……気持ち悪い。トイレ」

ビーカーを投げ出し、理科室の出入り口とは反対方向に進む。

「馬鹿野郎、そっちはトイレじゃねえ!」

すぐに帝都が駆け出した。

 茂水のことは帝都に任せ、華陽は理科室をそっと出ることにした。

 保健室に向かう途中、皆木のいた場所を見に行ったが、いなくなっていた。

 ――何で、たくさんの人を幸せにしてきた人が、死なななきゃならないんだろう。

 窓越しに見える空は、絶望に暮れる団員たちに満たされた避難所全体に劣らず、黒々とした雲に覆われて重苦しかった。

 日が傾き始めた。照明の点く教室が現れたものの、明るさは変わらなかった。

 何事もなく夜休憩の時間となった。

 配給の弁当置き場は、朝からほとんど手がつけられておらず、大量に山積みされていた。

「食べられそうだったら、遠慮しないで食べていいからね? 腐るだけだし。もう片方の避難所にも持って行ってはいるんだけど、それでも余りそうだから」

一緒になった天見が告げるが、華陽もそこまで食欲はなかった。箸の不要な軽食を選び、作業的に腹に詰め込むと、保健室で貰ってきた化元体を飲みに水飲み場へ移動した。

 廊下は肌寒く感じた。恐ろしいほどの静寂に包まれ、いかにも夜であることを痛感させられる。水道の蛇口を捻るのさえ、気を遣うほどだった。水圧の弱い水では少量ずつしか口に入らず、化元体のエグみを消すのには不十分だった。

 最中、通り掛かった教室のドアが廊下に倒れてきた。

 中から、白毛の老猿が現れた。大型のクマの体格に、能面のような無表情の黄色い顔。全身を覆う体毛は温泉の湯気のように朧気で、揺れている。

 華陽の頭の中は真っ白になった。老猿の細い目が、ばっちり華陽を捉えたのが感覚でわかった。

 これまで暴走人妖と対面したとき同様、内面の人妖人格は戦おうとしていた。しかし、今回は華陽の「ヒト人格」でそれを抑え込んだ。

 ――私には、戦う資格なんてない。

 いっそ、殺されてしまおうと思った。多くはないが、まだ暴走していない華陽の化元体が元団員の糧になり、元に戻る助けになるのなら。華陽はその場で足に力を入れた。

 老猿が華陽の顔を覗き込む。突如、顔の真ん中からぱっくりと割れ、中から黒く爛れた別の顔が現れた。充血した目が華陽を凝視し、耳の近くまで裂けた口が大きく開く。

 びっしり生え揃う先の尖った牙が視界に入った瞬間、その場に留まっていられなくなった。反射的に身体ごと翻し、後方へ走った。

 ようやく、頭の整理が追いついた。暴走が始まったのだ。団員たちが生を諦め過ぎているが故に、周囲の団員の暴走を止めようとしたり、知らせようとする動きがなく、変化に気づけなかった。

 華陽は周囲を見回しながら、千路班のメンバーを探した。戦わずとも、事態は知らせようと思った。物音のする教室があったので中を覗くと、鈍色の巨大ムカデが無抵抗の団員に頭から食らいつこうとしていた。

 よく見ると、それは皆木だった。

 考える暇もなかった。妖化し、ムカデを壁に蹴り飛ばして皆木を救出した。

「皆木さん」

呼び掛けても、反応はない。額に脂汗を浮かべながら、苦しそうに目を閉じていた。人妖に食われそうになっていたことにも気づいていなかったかもしれない。

 ムカデの人妖が叩きつけられた壁の窪みから這い出ようとしているのを見ると、華陽は皆木を抱えて窓を割り、そのまま外へ飛び降りた。

 校庭の前で着地するや否や、華陽は皆木を下ろし、飛び降りた教室を見た。ムカデは追ってきていなかった。

「三橋……まだいたのか」

絞り出すような声が聞こえ、視線を足元のほうに戻す。横たわる皆木が、眉間に皺を浮かべながら華陽のほうを見上げていた。

「妖化、できるなら、よかった」

わずかに開かれている目の光が、失われていくのがわかった。華陽は引き止めるように、皆木の右肩を優しく触れた。

 皆木は顔つきを少しも変えず、続けた。

「あの後、死のうとしたが、情けないことに、ダメだった。実践経験が、ないから、どうなるかも、わからんのに……」

胸がぎゅっと握り潰されるような感覚に苛まれた。自分から血盟士団を続けられないと白状しながら、銃口を向けられた途端逃げようとしたことや、先程暴走した団員から殺され掛けたときに、そのまま死を受け入れられず、逃げ出したことを思い出す。何も言えずにいると、

「子供の、前では、情けない、姿は、見せられないな」

皆木はそう言い、隠し持っていた拳銃を取り出した。

「使い方は、持ち主が、教えてくれた。実演も、してくれたから、多分できる」

皆木が武器を見ながら弱々しく笑う。その顔のまま、華陽のほうを見上げた。

「少しだけ、目を、閉じてて、くれないか? 私を、置き去りにするのも、いい」

「やめてください」

「そろそろ、しないと――」

皆木は口を開き、銃口をくわえた。華陽は止めたかったが、その資格が自分にないことも重々理解していた。

 躊躇いもなく、安全装置が外され、引き金が引かれる。しかし、何も起きなかった。

「空砲、か」

皆木の目が暗黒に染まった。拳銃が手を離れ、地面に落下する。

 次の瞬間、皆木の全身が膨れ上がった。たちまち素肌や衣服がびっしりとした茶色い皮膚に覆われ、髪の毛の上に笹色の頑丈な笠が現れる。図体は宵闇のほうに伸びていき、校舎三階に届いたところで止まった。電柱のようにそびえ立つイタチの人妖は、月を見上げると雷鳴のように吠えた。

 校舎の窓から、何事かと様子を覗き込む団員の姿が見えた。帝都と渡会だった。その人妖の大きさに愕然とする帝都を他所に、渡会はすぐに窓を離れ、校舎の中のほうへ戻っていった

 ――もし暴走したら、殺すなり食うなり好きにしてくれ。

 皆木の声が脳裏を掠める。華陽は頭を振り、その記憶を振り払った。

 やるべきことは決まっていた。

 ――もう、逃げるわけにはいかない。

 妖化を解き、震える足でその場に留まった。唾を飲み、まっすぐイタチの顔を見上げ、口から大きく息を吸う。

「皆木さん」

空を仰いでいたイタチが足元を見た。呼び掛けに応じたのではなく、声が聞こえたからだろう。肉食獣の目がぎょろりと睨み、獲物と認識する。首を大きく曲げ、口を開きながら華陽に齧りつこうとした。

 華陽は、今度こそ逃げないように、きつく目を閉じ、視界情報をシャットアウトした。生温い息が全身に触れ、髪が揺れる。心臓が逃げるよう警告を鳴らす。逃げたくなる気持ちを忘れようと、両手の拳を痛いくらいに強く握り締めた。

 何かに身体を捕まれた。宙に浮く感覚がする。再び地面を踏む感覚が両足から伝わると、華陽は目を開いた。

 青い竜のような人妖が、怒りと困惑の交じった表情でこちらを見ていた。その姿が、たちまち帝都に変わる。

「何してんだよ、大丈夫か?」

「あ……うん、ごめんなさい」

「近くの町から増援が来るみたいだ。それまでは、隣の避難所に被害が出ないように、ここで食い止めなきゃいけない」

帝都がイタチを睨みながら告げた。その声は、華陽の耳には入っていなかった。

 イタチの注意を引くように、一羽のワシが周囲を飛び回る。イタチは牙を剥き、何度もワシに食らいつこうとしていた。

 体格差が激しかった。イタチの一噛みが、致命傷になりかねない。

「もうすぐ向こうの避難所から千路が来る。それまでは直兄フォローをしなきゃいけないから、戦えなくなったなら、いったん屋内に退避してくれるか?」

帝都はそう言い残し、妖化してイタチのほうに向かった。

 華陽は、イタチと対峙する二体の人妖を見ながら、じりじりと校舎のほうに後退した。

 渡会が気を引く間に、帝都がイタチの身体に攻撃する。しかし、巨体に傷が入る様子は一向に見られない。おそらく皮膚が堅いのだ。

 全身を見渡し、攻撃の通りそうな箇所を探す。一か所、頭部だけ他の部位と異なり、謎の笠で覆われていた。狙うとしたらそこになるか。そう思った矢先、妖化した帝都が笠の天頂に食らいついたが、こちらも歯形のひとつもつかなかった。

 他に打つ手はないのか――華陽が再びイタチの全身を観察していると、

「あんなにデカいのがいたのか」

隣から千路の声が聞こえた。気づかないうちに来ていたらしい。

「この避難所の代表の人でした。ごめんなさい、私のせいです」

 もし、ムカデの人妖から皆木を助けなかったら、暴走することはなかった。きっと皆木も、あのまま死ぬことを望んでいたはずだ。それなのに、華陽が余計なことをしてしまった。最後の最後に自ら銃を握って、絶望することもなかった。

 そこまで思い出したところで、華陽はあることに気がついた。

「千路さん。試したいことがあります。あの人妖を倒せるかもしれません」

千路が無言で華陽のほうを見た。それから再度グラウンドのほうを向き、渡会と帝都に大きく手を振る。

 帝都が真っ先にやってきた。背中を向けた際に、イタチが熊のような腕で引き裂く。竜の身体が一瞬ぐらついた。さらに追い打ちを掛けようと口を大きく開いたところで、渡会が庇うように塞がり、嘴で両目を突いた。

 視界を奪われたイタチが、グラウンドでのたうち回る。その間に、渡会も華陽たちのほうに戻ってきた。

「あいつの身体、クソ堅いぞ? どこを狙えばいい? 腹もダメ、首もダメ、手足も背中も尻尾もダメ。頭の変な奴もダメだった、何なら一番堅い」

帝都が疲れた声で言う。千路はそれをスルーして、こう告げた。

「二人は隣の避難所に戻ってくれないか? 天見しかいない、こちらから人妖が逃げたときに対応できるようにして欲しい」

「了解しました」

渡会が答える。帝都は曖昧に頷きながら、イタチを一瞥した。

「あれはどうするんだ? 増援が来たところで、多分どうしようもないぞ? 俺のパワー不足っていうなら別だけど」

帝都が言い終えたところで、千路が提案を促すように華陽のほうを見た。

 華陽は唾を飲み、口から小さく息を吸い込んだ。

「口の中から脳幹を破壊します」

銃をくわえての自害。内側から打ち抜くことで、頭蓋骨によるガードを回避し、より確実に生命中枢を止めることが可能だ。それと同じことを、あの人妖にも行えばいいのではないか――そう考えたのだ。

 帝都がすぐに、苦い表情を浮かべた。

「待ってくれ。それって、アレの口の中に飛び込むわけだろ? 食われるかもしれない」

「はい。だから私がやります」

華陽が即答した。千路が何も言わず腕を組む。無論、帝都はすぐに反論した。

「死ぬぞ?」

「わかってる」

「いやいや、『わかってる』じゃないって。それじゃあダメだろ」

帝都のツッコミに、華陽は答えなかった。

 返事した通り、危険は承知していた。というより、あわよくば死ねたらいいとすら思っていた。これまで周りに迷惑しか振り撒かず、足を引っ張り、時には天災のように多くの命を奪ってきた。だったら、最後ぐらいは役に立って終わりたい。

 華陽の顔つきから、意思を曲げるつもりはないと悟ったようだ。

「何か、俺にできることは?」

帝都が、真剣な表情で訊ねた。口を開いたのは千路だった。

「怪我の処置をして休め」

「何で? たかが背中をやられただけだ、しかもそのうち治る――」

「暴走されると厄介だからだ。回復にも化元体は消費される。茂水のところに行って休んでいろ、これは命令だ。渡会、連れて行ってくれ」

「血もだいぶ止まってきてるぜ?」

帝都はなかなか食い下がろうとしなかったが、

「帝都」

渡会に肩を叩かれると、消化不良な感じを顔に露わにしながらも、その場を後にした。二人がいなくなった後に、千路が華陽のほうを向く。

「実行役は、任せてよかったか?」

華陽が重々しく頷く。

「どうやって破壊する?」

華陽は妖化し、愛用のシカ角を見せた。千路は一瞥すると、さらに質問を続けた。

「中に入る方法は?」

「食べられに行きます」

千路は腕の左右を入れ替えて組み直す。華陽から視線を外し、暴れていたイタチのほうを向いた。じきに、視界も回復するだろう。

 千路はイタチの全身を睨みながら、組んでいた腕を下ろした。

「最大限フォローはする」

 妖化した千路に乗り、華陽はシカ角の金棒を握ってイタチに接近した。

 渡会が潰した目はほとんど回復しており、華陽たちのことを明確に認識していた。目の前を飛行する敵に狙いを定めると、イタチは大きく口を開いた。

 華陽は躊躇わずに飛び込んだ。びっしりと並ぶ歯列が迫ってくるが、人妖状態の今は何とも感じない。前歯の間を滑り込み、舌の上に着地する。

 舌が蠢き、両足が喉奥に誘われていく。牙が華陽の身体を噛もうと、何度もガチガチと開閉した。華陽はシカ角で抗いながら、その場に留まることに精いっぱいだった。

 イタチの口が大きく開いた。隙間から、接近してくるコウモリの姿が見えた。

 ――千路さん。

 華陽は隙を逃さなかった。持っていたシカ角で上顎を押し上げるように、少しずつ角度を立てていった。顎関節の外れる音がし、口の開きが固定される。棒の刺さった箇所から、じわじわと血が滲んだ。喉奥のほうから、振動が伝ってくる。

 シカ角がぴったりと嵌まった状態でイタチの口が開きっぱなしになると、華陽は生え揃う牙を一本両手で掴み、根本から引き抜こうとした。姿勢が不安定なせいか、骨の折れる作業だった。下に倒すように力を入れ、ようやく引き抜くことに成功した。金棒と牙を足掛かりや掴み手にしながら、口の中から這い出る。

 外で待機していたコウモリの背中に着地した。喉奥を睨み、牙の先端を向ける。

 再び口内に向かった。

 ――国の未来、頼んだよ。

 皆木の声と姿が過る。華陽はわずかに眉を寄せると、急所を目掛けて牙の先端を突き刺した。


 近隣市町村から増援が駆けつけ、正午前には暴走した団員の人妖の駆除が収束した。近隣の避難所に退避していた避難民への被害はなかった。

 なおも解体が進むイタチの死骸だったものを、華陽は呆然と眺めていた。そこら中に漂う化元体の独特の臭いに鼻が慣れてきたものの、未だ違和感が拭えない。本能が拒絶しているのか、人の嗅覚はこの臭いに完全に慣れるようにはできていないようだ。

「三橋」

背後から千路が手招きした。華陽は我に返り、駆け寄る。

「どうするつもりだ?」

 質問の意図は、すぐに理解できた。おそらく、今回の計画である種の自殺を図ろうとしていたことは、千路もわかっていたのだろう。

 華陽は申し訳なさそうに目を伏せ、震える口を開いた。

「ころころと変えて申し訳ありませんが――まだ皆さんの力になりたいです」

他の建物に紛れて見える、帝都たちがいるであろう隣の避難所を見上げた。それから、今いる避難所のグラウンドと校舎を見る。後処理に励む団員たちの姿が映った。

「私って、本当に無能な人間なんです。人と話すのが苦手で、運動もできなくて、力仕事もできない。集団行動も空気になるのがやっとで、貢献できることなんて何ひとつない。何でいるかもわからない存在でした。そんな私が、唯一恵まれたのが、人妖としての力でした」

 ――助けてくれてありがとう! パパの仇もありがとう! めっちゃかっこよかった!

 あのとき、震災以来憎悪の対象でしかなかった自分を、初めて許せた気がした。役立たずで、人の足を引っ張ることしかできなかった自分に、数少ない存在価値ができた。何より、人の役に立てることが嬉しかった。

「エゴだと思ってます。散々命を奪っておいて、都合のいいことを言っているのはわかっています。でも――選べるなら、生きて、せっかく授かったこの力で貢献したいです」

普段おどおどした印象が否めない少女が、凛とした目を向けて堂々と答える。

 千路はサングラスを正すと、わからないくらい小さな溜息を零した。黒いレンズ越しの目は、どこか不安そうな色を帯びていた。

 スマホのバイブ音が鳴り、千路がポケットをまさぐった。同時に、

「向こうの出発準備できたぜ?」

茂水がやってきた。彼は、グラウンドにまだ残っていた巨大人妖の肉塊を見ると、一瞬足を止めたが、すぐに千路と華陽のほうを見た。

 千路は、スマホ画面に視線を向けたまま、こう訊ねた。

「了解した。渡会も向こうか?」

「ああ、いると思うよ」

「了解。先に出発していてくれ」

千路は足早にその場を去った。ワンテンポ遅れて、

「……先に?」

茂水が我に返ったように呟く。

「おい、別行動ってことか?」

茂水が振り向いたときには、千路は声が届かないほど離れていた。茂水は頭を掻き、呆れたように項垂れた。

「さて、お隣に戻りますか。行こう、華陽ちゃん」

茂水はそう言い、踵を返す。華陽は小さく頷いた。

 再び視界にグラウンドが映った。同じ景色を見ていた茂水が、ふとこう訊ねる。

「――あれ、ここの代表だったんだっけ?」

「はい。皆木さん、難しそうに見えていい人でした」

「話したんだな」

茂水は、逃げるように足を速めた。

 グラウンドで解体され、梱包されてトラックに詰め込まれる肉塊を横目で見つめながら、華陽は茂水についていく。校舎の廊下で最後に託された頼み事は、声とともにまだはっきりと脳裏に刻まれていた。

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