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4.合わない点呼

 『人妖隔離施設』内の人妖退治が一通り済むと、次の赴任地への移動を開始した。

 帝都は以前より冷たい態度を示すようになった。とは言っても、千路に対してだけだが。

 移動中の車内で、帝都が小声で華陽にこう切り出した。

「昨日は、ありがとな」

「あ……ううん。怪我、大丈夫?」

「もうすっかり元通りだ」

つい昨晩まで包帯でぐるぐる巻きにされていた頭部は、早い段階で絆創膏の一枚すら不要になっていた。

「治り、早いんだね」

「人妖だからな。まぁ、俺は特に早いほうかもしれないけど」

冗談交じりの口調が告げる。しかし、まもなく帝都の表情が曇った。亘のことを思い出しているのだろうと、すぐにわかった。

「華陽には、つらい仕事を任せちゃって、本当にごめん。亘のこと、どうしても手を掛けるのができなかった」

 華陽は複雑な表情を浮かべた。暴走人妖の姿だったとはいえ、亘を躊躇なく殺すことができた自分は冷酷非情な人間なのではないかと思ったからだ。

 ――やっぱり、私は普通の人じゃないのかもしれない。

 以前、初めて妖化して暴走人妖を薙ぎ倒したときに抱いた自己嫌悪が、再び顔を出す。その様子に気づいたのか、帝都が慌ててフォローした。

「いや……華陽が冷たいとか、そういうわけではないよ? 最初に亘に話し掛けたときの態度とか、亘を外に連れ出そうと千路を説得しようとしたりとか、むしろ優しいと思ってる。だからこそ――華陽は強いなって思った」

 強い――それは、自分とは正反対言葉だと思っていた。

 震災で家族を失い、都内に住む親戚の家で暮らすことになったものの、学校で化け物呼ばわりされる。「弱い」から抵抗できず、学校に通うのが難しくなり、祖母のいる山形県へ移住する。

 運動はまるでダメ。勉強は少しできるが、話すのが苦手なため人に教えたり、誰かの助けになるようなことはできない。声が小さく、謙虚を通り越して自分の意見を言うことができない。友人は少なく、腹を割って話すことのできる相手がいない。そんな自分のことを、ずっと「弱い」人間だと思っていた。

 紛れもなく褒め言葉なのだが、どうも実感が湧かず、困惑だけが募っていった。


 新任地の新庄(しんじょう)市内の校舎に到着すると、華陽は降車しながら、誰にとでなくこう訊ねた。

「ここは避難所ですか?」

場の空気が凍った。帝都だけが、種類の異なる険しい表情を浮かべる。

 華陽はすぐに爆弾発言を放ったことに気づき、謝罪しようとしたが、

「避難所だ。人妖隔離施設ではない」

先に千路が淡々と答え、車の鍵を掛けた。

「その呼び方やめろ」

帝都が舌打ちした。その様子を遠巻きに見ていた茂水が、面倒そうに溜息を吐いた。

 二人の間の険悪な空気は、そのときだけに留まらなかった。

 炎天下の昼下がり、市街地に出ての避難誘導中のことだった。千路と茂水と行動を共にしていると、どこからか喧嘩の声が聞こえてきた。千路は無視して通り過ぎようとしたが、

「よく聞いてみろ」

茂水が引き止めた。

 耳を澄ますと、その声は聞き馴染みのあるものだった。

 無表情で声のほうに向かう千路と、怠そうに続く茂水。その後ろに、華陽がついていく。

 ようやく、現場に辿り着いた。帝都と、血盟士団の団員らしき男性二人がいがみ合っていた。その様を、一歩引いたところから困ったように見守る天見と渡会。二人は華陽たちに気づくと、助けを求めるように視線を向けた。

 真っ先に、茂水が頭を掻きながら帝都たちのところに歩み出た。その途中で、足元に倒れる人影に気づき、足を止めた――否、固まった。

 その正体は、華陽たちの目にも留まった。

 地面に染みる赤。出元は、倒れている男性の頭部だった。

「この人はまだ暴走していない。普通の人だった。何で殺される必要があったんだ? この人にだって、最後まで人らしく生きる権利があったはずだ」

帝都の声が、華陽を正気に引き戻す。顔を上げると、団員の二人が険しい顔で帝都を睨み返していた。

「他人の安全を脅かす存在に、権利などは与えられない」

「正論みたいに言うけど、もしあんたらが血盟士団じゃなかったら、同じことが言えるのか? 偉そうなことを言えるのは、あんたたちが安全地帯に立つ人間だからだろ?」

帝都がさらに続けようとしたが、敢えなく頭を鷲掴みされた。挙句の果てに、無理矢理頭を下げさせられる。

「うちの班員が申し訳ありません」

千路が帝都の頭を押しつけながら、一緒に頭を下げた。相手方二人は困惑しながらも、

「こちらこそ、大事にしてしまって申し訳ありませんでした」

そう答え、同様に謝罪した。いったん、場は落ち着いた。

 千路が手を離した瞬間、帝都が胸倉を掴んだ。

「何で止めた? 人が殺されてんだぞ?」

感情的に訴える帝都を、千路は冷淡に睨み返すと、シャツを掴む手を無言で取り払った。

「おい!」

「まあまあ」

茂水が二人の間に入り、帝都を宥める。

「落ち着け、帝都。あちらさんだって殺したくて殺してるわけじゃない。仕方なくやってんだ」

「だったら――本気で間違っていると思うなら、声を上げればいいだろ。黙って従うってことは、そういうことじゃないのか?」

「難しいんだ、それが。住民の避難が済んでない以上、近い未来に暴走するのが確定な人妖を放っておくわけにもいかない」

「――そうだな」

帝都が、納得とは程遠い感情を帯びた声で告げた。そして、こう続けた。

「あんたら大人はいつもそうだ。堅実な道ばかり選んで、守れるかもしれない少数の命や幸せを平気で見捨てる。たくさんの人を救いたいって口では言うけど、所詮は口だけだ。違うか?」

静かな怒りを秘めた嘆きだった。同時に、それは諦観でもあった。質問に対する回答どころか、相手が変わることすら一ミリも望んでいない。

 茂水が無表情になった。帝都の顔を見据え、次の瞬間――平手が、帝都の頬を打った。帝都が驚いたように顔を上げる。

「大口叩いてんじゃねえ! 何も知らねえガキが!」

茂水はさらに、拳を振り上げようとする。

「何してんの茂水!」

すぐに天見が間に割り入る。渡会も茂水を後ろから取り押さえた。

「邪魔だ、天見! 渡会、離せ!」

「落ち着いてください!」

暴れようとする茂水を、二人がどうにか押し留める。帝都は呆気に取られながら、その様を見つめていた。そこに、

「時間の無駄だ。任務に戻れ」

存在感を殺していた千路が一蹴した。茂水は悔しそうに舌打ちすると、天見と渡会を払い除け、担当のルートに引き返した。天見と渡会も、帝都を連れてその場を離れる。

 華陽も、千路とともに元来た道に戻る。先を行く茂水の背中が見えた。

「茂水。逆だ」

千路が声を掛ける。茂水は足を止め、煩わしそうに舌打ちすると、踵を返した。


 住民の避難所への誘導が切りのいいところまで終わり、昼休憩に入った。

 体育館の一角で、華陽がこっそり昼食を摂っていると、次第に同班の班員たちが集まってきた。

「疲れたー」

天見がお茶を飲むや否や、生き返ったような表情を浮かべる。

「まだ半日残ってますよ」

渡会が弁当を開封しながら言った。箸が幕の内弁当の梅干しを摘まむ。

「ええ……もう歩きたくない」

「天見、体力なさすぎだろ」

帝都が卵焼きを口の中に運んだ。

「女の子は野郎どもに比べて体力がないんですー。ね、華陽ちゃん。華陽ちゃんも疲れたよね?」

突然話を振られ、華陽はきょとんとした。

「え。えっと……はい」

「ぶっちゃけ疲れてなさそう」

帝都がきっぱり言う。

「はぁ……若いっていいなぁ」

天見が項垂れる。渡会が堪えるように苦笑した。帝都は、哀れみの目を向けながら、卵焼きを飲み込む。

 空気が暑い。おにぎりを飲むように食べ進めながら、華陽は思った。暑いが、不快ではない。不思議と居心地の悪さも感じない。他人といるときに常に感じる疎外感も、今はなかった。

 慣れない感覚にこそばゆさを覚えながら、班員たちの顔を見回していると、

「本当、若いっていいよな」

天見の隣に、どこからか湧いてきた茂水が腰を下ろした。弁当とお茶を目の前にどんと置く。

「半日ばかりのお散歩も、老人にはキツイんだよなぁ。いやー、分かり合える相手がいてよかった」

「ちょっと、あんたと一緒にしないでよ」

天見が、急に怖い顔を浮かべる。即座に茂水が反論した。

「都合のいいこと言うなよ」

「言わせてよ。こっちはまだ三十にもなってないんだから」

 二人は、同時にお茶を飲み、同時に溜息を吐いた。ややあって、天見が口を開く。

「で? 私の年寄りトークに共感するために、わざわざ来たわけじゃないんでしょ?」

天見の問いかけに、茂水は答えなかった。代わりに、爪の先ほど微量のお茶を口に含み、息を整える、帝都のほうに向き直った。

「さっきは悪かった」

申し訳なさそうに、頭を軽く下げた。虚を突かれた帝都が、目を見開きその場に固まる。そんな様子などお構いなしに、茂水は続けた。

「子供相手に大人気ないことをした。許してくれとは言わない。いっそ、俺をぶってくれ。頼む」

頭が一段と深く下げられる。

 帝都は弁当の蓋を閉じ、無表情で茂水の前に屈み込んだ。狙いを定めるように茂水の頬を見つめ、そして――拳で思い切り殴りつけた。

「いってえ!」

叫び声が体育館中に響き渡る。余韻が聞き取れるほど室内が静まり、視線が茂水のほうに集まった。

「何でグーパンなんだよ? こっちは平手打ちだっただろ? 歯が折れたら、どうしてくれるんだよ」

「どうせ治るんだし、いいだろ」

帝都がいつもの声調子で反論する。

「せめて手加減をだな」

「だったら最初からそう言っとけよ、ジジイ」

「ジジイだぁ?」

茂水が両手に拳を作り、立ち上がる。

 罵倒合戦が開幕した。子供同士の口喧嘩でも眺めるように、天見が冷ややかな目で見る。

「元気があっていいですね」

渡会は笑顔でそう言うと、ポケットのスマホの振動に気づき、食事を中断して着信に応じた。

 華陽は残りのおにぎりを口の中に詰め込んだ。米の微かな甘さが口の中に広がる。

 二人の子供じみた言い争いは、しばらく止む気配がなかった。最中、

「班長から、休憩早めに切り上げろだそうです」

渡会が耳元にスマホを宛てながら告げた。班員たちの視線が一瞬にして集まる。

「何で? 休憩一時間は義務だろ?」

茂水が不満そうに訊ねるも、他の班員たちは弁当の片づけを始めた。それでも休憩を続けようとする茂水に、渡会がこう付け加えた。

「妖化可能領域が広がるスピードが想定より早いから、避難をとっとと済ませたいそうです。その代わり、早く終わったら夜休憩は早めに取っていいとのことでした」

「マジか」

茂水が即座に立ち上がり、てきぱきと片づけを始めた。

 再び、炎天下の外に出ることになった。午前よりも容赦ない日光が華陽たちを差す。一方で、西側の空には、不穏な灰色の雲が掛かっていた。

 午後五時頃、人妖以外の市民の避難が完了した。それから間もなく、バケツの水をひっくり返したような土砂降りが避難所を襲った。

 スマホを見ると、洪水警報が出ていた。

「うわ。避難しねーとじゃん」

帝都が隣で慌てる。

「ここ、避難所だよ」

華陽が冷静に返すと、帝都は恥ずかしそうにスマホをしまった。

 窓には、洗車でもしているのかと思うほどの多量の雨が叩きつけられては、重力に従って流れていた。外の様子は、ぼやけるどころではなく何も見えない状態だった。

「これじゃあ、人妖が出てもわからないね」

同じく、隣で窓を眺めていた渡会が言った。スマホから垂れ流していたラジオの情報は、東北地方で流行しているという謎の感染症から、降水情報に変わっていた。

「もうじき、点呼あるからよろしくね。華陽さんは、化元体飲むのも忘れないでね」

「わかりました」

華陽が答えると、当たり前のように帝都がついてきた。

「保健室は確か、こっちだな」

帝都が歩きながら指をさす。

「ありがとう」

 化元体錠剤を飲むのは未だに慣れないが、帝都が差し入れたり、気を紛らわすような話をしてくれるので、どうにかやり過ごせていた。

 他人といるほうが楽。考えてみると、奇妙な感覚だった。今まで、華陽にとっての普通は一人でいることだったからだ。

 むしろ、帝都たちのほうが奇妙に映った。同じ組織の同じチームに所属することになっただけの、何の取り柄もない暗い人間に、まるで友人のように接する。苛立ちをぶつけたり、加害することもなく、静かに寄り添う。何故この人たちは、それを行うのだろう?

「どうした? 錠剤がいつもと違う色だったりした?」

帝都の声で、我に返る。

 外の雨音と落雷の音が、途端に鼓膜を揺さぶった。全身に鳥肌が立つ。

「ううん。何ともない」

そう答え、華陽は錠剤シートを受け取った。

 稲光が保健室を一瞬照らした。直後、轟音が窓を揺らす。不規則ということが、如何に人を不安に陥れるかを痛感させられる。

「うわ。ジュース入ってねーじゃん。貰ってくるか。確か、体育館で配ってたよな?」

保健室の冷蔵庫を覗いた帝都が、乱暴に閉める。

 華陽が保健室の扉を開け、外に出ると、帝都も隣に並んだ。

「いつもありがとう。何でそんなに助けてくれるの?」

雨音に負けそうな声で、呟くように訊く。それでも、帝都の耳には届いた。

「数少ない……っていうか、唯一の同年代だから……かな?」

おそらく帝都は、親切にするのが好きな人物なのだろう。まだ数日しか経っていないが、華陽にはそう映っている。

 それとは別に、こんな疑問――以前から薄々抱いていたものだが――が浮かんだ。

「帝都くんは、どうやって血盟士団に入ったの?」

 これまで見た血盟士団の団員は、帝都を除いて全員成人している。常識的に考えれば、この時代に未成年を怪物退治に参加させるというのは、余程の理由がなければ考えにくい。だから、組織の加入条件には一定以上の年齢が含まれるはずだ。そして、おそらく帝都はそれに達していない。

「まぁ、一応血盟士団に入れるのは二十歳以上らしいからな。直兄曰く、国が選別した対象者には声が掛かるんだって。毎年金が貰えるらしいけど、化け物退治の組織に加入するなんて、みんな勇敢だよな」

「今回の件までは、化け物出たことなかったからね」

「あ、そっか。何もしなくても金が貰えるなら得じゃんね。そりゃあ入るか。で……俺が血盟士団に入ったきっかけだけど――」

帝都はそう語り出した。


 その日も、雨こそ降ってはいなかったが、空は一面同じような鼠色に覆われた日だった。

 日曜の午後。明日からまた学校が始まることへの期待と憂鬱が入り混じった時間に、家族が突然化け物に変わった。

 見た目だけではない。明らかに帝都を帝都と認識していなかった。野生の肉食獣のように、獲物を狙う目で凝視し、襲い掛かる。

 帝都は慌てて家を飛び出した。

 訳がわからなかった。故に、助けを求めることすらできなかった。

 しかし、そんなことは関係なかった。外も化け物で溢れ返っていたからである。ひたすら逃げ続けたところで、状況は改善するどころか、最悪を突きつけられるばかりだった。街を堂々と歩く怪異。破壊される建造物と車。混乱に陥った車道。襲われる人間。悲鳴。狂気と血で染まった、見慣れた景色。

 それでも帝都は走り続けた。車道がダメなら、電車で移動すればいい。そう思い、二キロ離れた最寄りの駅までダッシュする。

 無人だった。券売機は物理的に破壊され、お土産売り場は商品が床に散乱し、休憩室や駅員部屋のガラスまでもが粉砕されていた。壁や床のそこら中に、禍々しい血糊の跡が残っていた。

 帝都は、恐る恐る改札を飛び越えた。

 ホームも荒廃していた。投げ捨てられた通勤鞄が、ぽつんと鎮座している。

 遠くから、電車の走行音が近づいてきた。小さなライトが二つ、こちらを覗いているのが見える。次第にそのシルエットは大きくなっていき、車両の全貌が明らかになった。

 車体の横に、警戒色の巨大なトカゲが張りついていた。顔の半分を占める大きな蛍光色の目が、電車のライトと同じ方角を向く。中から青紫色のヘビが窓を突き破り、威嚇するように口を開いた。反対側の窓からは尻尾が登場し、地面を擦って電車の速度を減少させようとしていた。

 小さく見えていたはずの車体は、あっという間に目前まで迫っていた。帝都はすぐに引き返そうとしたが、トカゲの舌に巻き取られ、車内に連れ込まれた。

「離せよ、この野郎!」

有り余る力で抵抗すると、投げ出された。椅子に頭をぶつけ、床に倒れる。

 帝都はすぐに立ち上がった。そうでないと、食われる気がした。

 立ち上がって気づいた。車内には、トカゲやヘビの他にも異形が乗り込んでいた。耳の長い細い化け物。目つきのおかしいキツネ。灰色の毛むくじゃら。乗客全員が変異だった。人間はどこにもいない。

 窓に目をやると、高速で景色が移り変わっていた。電車が止まる気配はない。

 再度車内に視線を戻す。光景は少しも変わらない。

 毛むくじゃらの腕がメジャーのように伸び、鍵爪が槍のように帝都に向かってくる。電車の速度など気にしている余裕はなかった。躊躇なくギザギザに割れた窓ガラスに飛び込んだ。

 身体は緑の柵に打ちつけられた。そのままバウンドしてレールに落ちる。

「痛ぇ……」

帝都は弱音を呟きながらもすぐに立ち上がった。同時に電車が停止する。車体に張りついていたトカゲが、帝都のほうに身を乗り出した。中からもあらゆる隙間から怪物が外に出ようと藻掻く。そのせいか、バランスを崩した電車が脱線し、横転した。

 帝都は脇目も脇目も振らずに走り出した。一刻も早く、この悪夢のような怪物だらけの地帯から抜け出したかった。

 柵越しの住宅街がどうなっているか。空を飛ぶ影や、聞きなれない物音の正体も何か。それらも、今はどうでもいい。ひたすら線路沿いを走っていく。

 ようやく、次の駅のホームが見えた。隣の市まで来たのだから、状況は違うだろう。帝都はホームに上り、改札へ急いだ。

「助けてください!」

 舐めるような視線。好奇の目。獲物との距離を見定める眼差し。ハロウィンの渋谷を凱旋する集団よりも奇妙で恐ろしい怪物の注目が、一気に集まる。

「うわああああああああ!」

 帝都は叫びながら、駅舎を飛び出した。

 逃げながら、街中を見た。スプラッター映画でしか見たことのない惨状。目を背けたくなる地獄。そのどこにも、安全地帯はない。

 そう悟った瞬間、全身から自然と力が抜け、その場に膝から崩れ落ちた。

「あ――俺、死ぬんだ」

 こちらに気づき、迫ってくる化け物の姿が見える。帝都の顔から零れたのは、諦観交じりの笑みだった。あまりに非現実的すぎる光景に、感情中枢が誤作動を起こしていた。

 予感は刻一刻と現実に成り代わっていった。

 こちらに向かって真っすぐ歩いてくる雪男のような化け物が、両腕の鍵爪をガチガチとかち鳴らしながら口を開く。四本足の黒いタコのような化け物が、車を磨り潰しながら車道から近づいてくる。頭上ではハゲタカの顔をした始祖鳥が、不気味な声を上げながら旋回し、徐々に高度を落としている。トラックの荷台の上で、人間の足を口から覗かせながら、上手く喉に落とし込もうとしている巨大なカエルの目は、しっかりと帝都を睨んでいる。今の食事が済んだら、今度は自分の番だ。

 ――できれば、楽な死に方がいい。

 曇天を仰ぎながら、祈るわけでもなく、思った。

 突然、大きな矢が空を切った。取り囲むようにして立っていた怪物たちが、悶えながら倒れていく。人間の血液とは異なる臭いが辺りに充満した。

 周囲に、切り落とされた肉片が転がった。一瞬だった。

 目の前に、成人サイズの茶色いワシが降り立った。

 帝都の視線は、虚しく散らばる怪物だったものを一巡した。そして、再度ワシを視界の中央に添えた。あの数を一瞬にして葬った強者だから、帝都のことも一瞬で楽にしてくれるだろう。

 ――よかった。

 涙交じりの笑みが溢れた。安堵の中に紛れる恐怖も、涙のお陰で少し和らぐ。抵抗する気もなかった。そのほうがかえって苦しまずに済むと思ったからだ。

 しかし、予想外のことが起こった。目の前のワシは、突如若い男性へと姿を変えた。芯のある、真面目で優しそうな青年だった。

「もう大丈夫だ」

確信に満ちた声が、帝都を安心感で包んだ。前から近づく柔らかな足音が、加速していた心臓の鼓動を落ち着かせる。

 右手が差し出された。帝都は大きく息を吸い、手を握った。

 人間の体温とは、こんなに温かいものだったのか――涙は息を潜めるどころか、量を増した。口からは嗚咽がとめどなく零れる。

 帝都を救った男性は、穏やかな表情で黙って見守ってくれた。

 帝都が泣き止んだところで、ようやく青年が声を掛けた。

「さて、避難所に行こうか。みんないるよ」

帝都は頷いた。青年の指す「みんな」に知り合いがいないとしても、早く人間しかいない場所に行きたかった。

 しかし、直後に軽い眩暈に襲われた。

「大丈夫?」

男性はすぐに、帝都の頭の傷に気がついた。自らの上着を脱ぎ、出血を抑えるように巻きつける。

「つらいかもしれないけど、避難所まで我慢できる?」

応急措置が終わり、いよいよ移動を始めようとしたそのとき、目の前に空から肉塊が二つ落ちてきた。身体が上下真っ二つに割かれた、羽の生えた深海魚のような怪物の死骸だった。直後、二メートル前後の紫色のコウモリが降り立った。帝都の全身に再び緊張が走ったが、隣の男性が身構えることはなかった。驚く間もなく、コウモリが人間に姿を変える。

「班長! 生存者です」

隣の青年がそう報告した相手は、三十代半ばぐらいの男だった。黒シャツの上からでも鍛えているのがわかる体格で、全身から厳ついオーラが漂っている。

 険しい目が帝都を捉えると、足音を立てずに歩いてきた。

「名前は?」

回答を待つ間、相手は微動だにしなかった。静かながらも刺すような視線に、帝都は物怖じする。

「名前を教えてくれ」

わずかに口調が柔らかくなった。

「桜木帝都……です」

「漢字は?」

「桜の木に、帝王の都市で帝都です」

 男は手元のタブレット端末を操作し始めた。画面をスワイプする、機械のように無機質な指。嫌な予感がした。少しして、指の動きが止まった。心臓を鷲掴みされたような不快感と、緊張が走る。

「渡会。こいつは人妖だ」

「ちょっと待ってください。他は皆妖化しているのに、まだ人の姿を保っているんですよ?」

「だが、ここに名前が載っている」

男がタブレットを掲げる。それを見た渡会と呼ばれた男性の顔は青ざめた。

 帝都には二人のやり取りが理解できなかった。それでも、何か不味いこと――自分の身が不利になるようなことが起きていることは理解できた。大きな汗粒が背筋を伝う。

 タブレットを片づけた男が、転がっていた野球ボールサイズの肉片を拾い上げた。

「君もいずれ、醜い化け物になる」

肉片が手の中で器用に回される。同じ動作が繰り返されながら、話は続いた。

「思考までもが化け物に変わり、人を食らうようになる。泣き叫びながら抵抗されても、助けを請われても、食いづらい飯ぐらいにしか思わないだろう。そうやって人食いを重ねていくことになる。君はそうなりたいか?」

 きっと、男の話は事実だ。蛙の子は蛙。化け物の子は化け物。しかし同時に、残酷な事実でもあった。男の掌の上で転がる赤い塊こそ、未来の自分の姿だという。

 質問の答えなら、即ちノーだ。しかし、そう答えた瞬間に、あの肉片に変えられるに違いない。なら、逃げ出そうか? 否。人を食らうのはもっと嫌だ。

 ――どう答えればいい?

 帝都が黙り込んでいると、

「班長。彼をうちに引き入れることはできませんか?」

渡会が必死の目で訴えた。

 男は渡会を見下ろすと、品定めするように帝都を眺めた。

 帝都は、男と同じ目つきで睨み返した。

「仲間入りするってのは、あの化け物たちと戦うってことか? 自分も化け物になって。それならできると思う。一緒に戦わせて欲しい」

 男は口を一の字に閉ざしたまま、帝都の言葉ひとつひとつに耳を傾けていた。そして、

「『できると思う』じゃ困る」

手の中の肉片を差し出した。

「覚悟があるなら食え」

 異臭を放つブヨブヨした物体が瞳に映った。顔が自然に引き攣る。右足が一歩下がりそうになったが、それだけは何とか堪えた。

 選択肢は残されていなかった。

 帝都は唾を飲み、不気味な塊をまっすぐ見据えた。


「――直兄に助けられたっていうのが、団に入った理由だな」

帝都が最後に要約する。

「そうなんだ……」

華陽は、自分から質問しておいて、適切なリアクションが思いつかなかった。

 湿度の高い空気と激しい雨が窓を叩く音に包まれながら、薄暗い廊下を歩く。階段にいざ差し掛かろうとしたとき、

「すみません」

昇降口から声がした。二人は驚いたように同時に振り向く。

 全身ずぶ濡れの男性がいた。黒髪が頭にべっとりと張りつき、メガネは水滴だらけで目が見えない。パーカーからは、絞る前の雑巾のように断続的に水が滴り落ちていた。

「ここ、避難所で合ってます?」

男性が全身を震わせながら訊ねる。

「はい……って、こんな天気の中歩いてきたんですか?」

帝都が慌てたように周囲を見る。そして、

「ちょっと待っててください!」

そう言い、元来たほうへ走り出した。

 華陽が困ったようにその場で足踏みしていると、男性は靴を脱いで中に上がった。歩くたびにペタペタと音が鳴り、微かに濡れた足跡が残った。それからメガネを取り、水滴を吹き飛ばそうと何度も息を吹き掛けた。

「まさか、こんな天気になるなんてね」

男性はそう言い、まだ水滴の残ったメガネを掛ける。案の定、見え方が悪いのか、外して再び息を吹き掛けた。

 華陽は、昇降口のガラス戸から見える外の様子を一瞥し、保健室のほうを見やった。まもなく、タオルを持った帝都が走ってくるのが見えた。

「すいませーん!」

帝都が叫び、男性の前で急ブレーキを掛けるように立ち止まると、バスタオルを手渡した。

「あ、ありがとう」

男性は心底助かったようにタオルを受け取り、最初にメガネを拭き始めた。それから頭と胴体の水滴を拭い取る。

 その間に、帝都がこう告げた。

「みんな上にいるので、適当に休んでください。困ったことがあれば、黒服のサングラス掛けたおっかないおっさんに訊いてください」

「その人って、何か避難所を管理している集団の人だったりします?」

「はい」

帝都の即答に、男性はわずかに顔を顰めた。

「わかった。ありがとう。これ、しばらく貰っていてもいい?」

男性がタオルを右腕に抱える。

「どうぞ」

男性はそのまま階段を上ろうとした。しかし、その場で足を滑らせ、転倒する。

「大丈夫ですか?」

帝都がすかさず駆け寄る。

「華陽。悪いけど、その辺拭いててくれる?」

返事をする前に、男性に渡したものより一回り小さいタオルが渡された。

 帝都は男性に付き添うように階段を上り始めた。

「足元気をつけてくださいね。避難の呼びかけ、来ませんでした?」

「いいえ。というのも、この辺に住んでいるわけじゃないので」

「もしかして、旅行で来てたとか?」

「そんな感じです」

「災難ですね。それにしても、避難喚起ぐらいしとけよって話ですよね」

二人の声が遠ざかる。華陽は帝都の指示通り、床の濡れた箇所を拭き始めた。水滴を追っているうちに、小さな折財部が目に留まった。失礼を承知の上で中を覗くと、先程の男性の顔写真が載った運転免許証が入っていた。『(すぎ)(だわら)(れん)()』というのが、男性の名前らしい。転倒した際に落としてしまったようだ。華陽は財布を回収した。

 一通り床の水滴の拭き取りが完了すると、使用済みタオルを持って保健室に向かった。

 中に入ると、いつの間にか茂水が戻っていた。

「わっ」

驚いて声を上げたが、茂水のほうは通常運転だった。

「華陽ちゃんじゃねぇか。錠剤は飲んだか?」

「は、はい……いや、まだでした」

そう言い、錠剤を流し込むためのジュースを取りに行こうとしていたことを思い出す。華陽があたふたしていると、茂水は冷蔵庫を開き、オレンジジュースを取り出した。

「あ」

「ほいよ。取り敢えず三本、補充しといた」

「ありがとうございます」

華陽はペットボトルを受け取った。

「そのタオル、帝都が持ってった奴か?」

「はい。使ってしまったんですが、どうしたらよいでしょうか?」

「そこのカゴに投げといて」

 華陽は小さく頭を下げ、茂水の指したカゴの中に丁寧に置いた。空いた手で錠剤シートを取り出し、デスクの隅のスペースに置く。

「立ったまま飲むのもアレだから、座んな?」

「失礼します」

華陽は緊張しながら空いた丸椅子に腰掛けた。

「そんな畏まらなくていいって」

「すみません」

華陽はなるべく音を立てないように、シートから錠剤を取り出した。その間に、茂水がノートPCを立ち上げながら口を開いた。

「これから話すこと、全部独り言だと思って聞き流してくれりゃいいから。最初、訳わかんねえ怪物と戦わなきゃならないって知って身構えたと思うけど、案外何とかなっただろ? まぁ、まだ慣れてはないかもしれないけどな。でも、千路は華陽ちゃんのこと、評価してるぞ?」

華陽の手が止まった。

「千路さんが?」

「ああ」

キーボードを静かに叩く音が鳴り続くだけで、それ以上詳しい話は続かなかった。

 正直なところ、華陽は他の班員が戦う様子を見たことがないので、自分の人妖としての能力がどの位置づけなのかは把握できていなかった。それでも、自分が強力な人妖だと思ったことはなかった。

 次の錠剤を取り出しながら、華陽は口を開いた。

「強い人妖って、どんな感じなんですか?」

「あぁ……そうだな」

気のせいか、慎重に言葉を選んでいるように感じた。錠剤五錠飲み進めた頃になって、ようやく続きが返ってくる。

「総じて攻め方がわからない、かな? 言い方を変えれば、守りが堅い。それでいて攻めもできるのが、俺の思う強い固体だ。さらにヤベェのは、タイマンじゃ手がつけられない。会った瞬間に瞬殺される。疲労しきったところを、集団で攻めてやっと足止めできるぐらいの奴……実際、そういうのは見たことがある」

「そういう人妖が今後現れたら、私は……私たちは抗えるんでしょうか?」

「大丈夫だ」

即答が返ってきた。それから少しして、はっとしたようにキーボードの打鍵音が止まった。

「……と思う。今のところは。きっとそうなるように、華陽ちゃんには成長する見込みがある……と千路は思ってるよ」

どうも釈然としない、抽象的というよりは浮かんだ言葉をそのまま発しているような違和感を抱いた。それでも、華陽は深掘りする勇気がなかった。

 外の雨音は、一向に止まなかった。時折空を焚くフラッシュと轟音が収まるくらいだ。規則的な雨音と、不規則なキーボードの打鍵音が、しばらく耳に届いていた。

 華陽が空になったシートをゴミ箱に捨てたそのとき、保健室の扉が開いた。

 天見だった。その表情は険しい。

「ねぇ。人数合わないんだけど、何か知らない?」

緊迫した声は、茂水に投げられたものだった。

「あ? 数え間違いじゃないのか?」

「数え直した。直させた、五回も」

「んじゃあ、気のせいではなさそうだな。どっかから人が紛れたんじゃね?」

「何でそんな悠長でいられるのよ? 人妖だったらどうすんの?」

天見の口調がさらに厳しくなる。茂水は椅子を回し、天見のほうに向き直った。

「こんな天気に、わざわざ誘導された人間以外が入ってくると思うか? そもそも、近隣一帯の避難誘導は人妖・非人妖問わず完了している。報告だって実際に入っているんだ」

「でも、実際に人数が合っていないの! 可能性が低いとしても、その一人が人妖だったら?」

 華陽の心臓がバクバクと鼓動を速めた。数の合わない原因。心当たりしかない。カゴの中のタオルを見つめる。それから二人のほうを見て、恐る恐る口を開いた。

「あの! さっき、一名外からやってきた人がいます」

 二人の間に走る緊張が、別の形に変わった。

「どの人かわかる? 顔は?」

華陽は慌てて拾った財布をポケットから取り出した。いつの間にか、千路が入口を塞ぐように部屋を覗き込んでいた。

「この人です」

免許証を取り出す。三人が前のめりになって凝視した。どうも見覚えはないようだ。千路は手元のタブレット端末を弄る。

「天見、三橋。桜木を見ていないか?」

千路が手元を見ながら質問すると、茂水と天見がぎょっとしたように振り向いた。

「この人と一緒に二階に向かったのが最後です」

華陽が告げる。天見たちはさらに目を大きく見開いた。

「帝都が一緒なのか?」

「何してんの、あのバカ」

茂水と天見が続ける。千路はそれを聞くなり、足早に立ち去った。

「それ、預かってもいい?」

天見が免許証を差しながら言う。

「はい」

華陽は財布ごと手渡した。湿っていたせいか、天見が一瞬不快感を表情に示す。

「ありがとう」

しっかりと引き取られた。天見も部屋を去る。

 華陽も後に続いた。床を見つめながら、天見のペースに合わせた。濡れた足跡は見つからない。

 上の階は、騒がしかった。団員間で、点呼の人数が合わない件は大問題になっているらしく、その不安が避難民にも伝染しているようだ。

 階段を上がるとすぐに、渡会と遭遇した。

「帝都を見てないですか?」

先に渡会が訊ねる。二人の反応で、同じ人物を探していると悟ると、眉間の皺が増えた。

 渡会の隣に並ぶと、天見が例の免許証を取り出した。

「これ。数が合わない一人だって。帝都と一緒にいるみたい」

天見が、確認するように華陽のほうを見る。華陽は顔を青くしながら頷いた。

「住所が全然違うけど、どういうこと?」

指摘通り、杉俵の記載住所は華陽の地元のある南陽地域だった。ここから車でも三時間以上は掛かる。

 三人は名前を叫びながら帝都を探した。階を分担し、走りながら呼び続ける。気づけば、外で雷鳴が轟いていた。恐怖で怯える市民には構わず、ただ一人の少年の姿を探す。

「帝都くん!」

照明のついた教室のどこからも返答はない。

 最中、携帯が鳴った。見ると、千路からだった。華陽はすぐに応じた。

『三橋か? 桜木が見つかった』

近くから天見の励ますような声が聞こえてくる。

「無事ですか?」

『意識はある』

不穏な返答だった。取り敢えずほっとする。

「杉俵さんは?」

『いない。三橋、今五階か?』

「はい」

『音楽室が化元体保管庫になっている。様子を見てくれないか? 私もすぐに行く』

口元まで、「何故ですか?」の声が上りかけていた。すんでのところで飲み込み、一番奥の部屋を見る。覗き窓から見えるのは暗室だった。

 恐怖を唾と飲み込み、駆け足で向かった。

 化元体備蓄室。本来ならば見張りがいるはずだ。そっとドアを開き、手探りで部屋の照明のスイッチを探り当て、電気を点ける。

 人間の死体が三つ見えた。腹を裂かれて、壁に打ちつけられていた。部屋の中央には、大量に積まれた化元体の点滴袋が見えた。そのうちの一袋から垂れる液体を、全身を緑の触手に覆われたヒツジの化け物が啜っていた。

 ヒツジの赤い両目が、華陽のほうを向いた。心臓を鷲掴みされたような緊張感が、背筋を駆け抜けていく。

 直後、ヒツジの身体が萎んだ。たちまちそれは、杉俵の姿に変わった。赤い目も、人間の目に戻る。しかし、そこには薄気味悪い笑みが浮かんでいた。

「ああ、さっきの。一緒にいたガキが余計なことをしそうだったから、痛い目に遭わせておいたよ。まぁ、命までは奪わないでおいたけど」

 怒り。間違いなく己の感情だが、奥に潜むもう一つの人格が増幅させる。

「ここにいた人は生憎様だね。まぁ、化元体を独占するのが悪い」

「何故、化元体のことを? 帝都くんから無理矢理聞き出したんですか?」

「いいや、まさか。今まで、血盟士団の人間の目から何度すり抜けてきたと思ってる? 何のために? そのための情報は?」

華陽の中の怒りと同じくらいの怒りが、杉俵からも伝わってきた。

「お前たちみたいな偉そうな集団に、無力な人が殺された場面を何度見てきたと思う? 目の前で化け物に変わった人を何人見たことがある? その化け物が家族だった人を食っていくサマは? 血盟士団とやらの奴らにリンチされているサマは? それを生き残った家族が泣きながら見ている光景は? 待ってりゃ化元体が届くところで生きてるような連中には、何ひとつわからないだろうな!」

点滴袋が一つ、床に叩きつけられた。赤黒い染みが、血飛沫のように付着する。何の変哲もないその形に、全身の毛が逆立った。

 杉俵は息を荒げながら、華陽を睨んだ。そして、吐き捨てるようにこう告げた。

「俺は生きるために、血盟士団とやらの人間を殺し、化元体を盗む。これからも。同志を見つけて、募って、抗っていく。俺たちのことを救う気がないなら、自分たちで生き延びる手立てを用意しなきゃならないからな。死ぬのは何も義務ではない」

杉俵の身体が、緑のヒツジのような化け物の姿に戻った。怒声とも挑発とも取れる咆哮を上げ、全身の触手を華陽に差し向ける。

 華陽の前に、紫の影が現れた。二メートルを超える長さの翼で触手を跳ね返し、コウモリは一瞬で千路に変貌した。

「救える命の数が限られている以上、我々は功利主義に則って判断するしかない。それは何も今に始まったことじゃない」

それは華陽に対して伝えているようにも感じた。胸の奥でチクリと刺す罪悪感が、少しだけ和らぐ。

 敵は千路の言葉を否定するように叫び、突進してきた。

 今度は華陽が妖化し、前に出た。金棒を横にして持ち、ヒツジの角に抗う。鋭い打撃音がし、両者が睨み合った。

 華陽が足を踏みしめ、唸りながら力を振り絞る。ヒツジはよろめきながら後退した。色合いとは似つかず、人間の驚愕の表情を孕んでいた。

 妖化した千路が、ミサイルのようにヒツジに直撃する。顎かうなじに食らいつき、びっしり生え揃う歯が食い込んでいた。胴体から生える触手が抵抗するように、コウモリの首を絞める。コウモリの噛む力が強まる。互いの血走った目は、獲物を狩ることではなく、明確に息の根を止めようとする意思が宿っていた。

 部屋の隅に、投げ捨てられた生乾きのバスタオルが見えた。激しく振り続ける雨の音が微かに耳に届く。

 先に折れたのは、杉俵のほうだった。触手がコウモリの胴体から撤退し、その場に倒れる。コウモリが口を離し、口回りに付着した血液を舐め取った。

 横たわるヒツジの化け物は、口を開いたまま苦しそうに呼吸していた。その顔は、恨み言を吐いているようにも見えた。視線の先にあるのは、千路や華陽ではなく、音楽室の出口だった。

 千路は妖化したまま、とどめの一撃を刺すべく右翼を硬化させた。鉈のように鋭く尖った先端が、歯形の傷跡を捉える。

 振り下ろされると同時に、ヒツジの目つきが変わった。本物の化け物の目だった。

 ヒツジが二本脚で起立した。千路を角で突き飛ばし、出口へ走る。

「まずい!」

華陽が滑るように進路を塞いだ。再び、金棒と角が衝突する。

 先程とは比較にならない力が掛かってきた。身体がずるずると後方へ押され、廊下に追い込まれそうになる。

 この先には避難民がいる。行かせてはならない。

 ヒツジは破裂しそうなほど目を充血させ、鼻息を荒くしながら力技で押し通そうとしてきた。首元の傷からは、ボタボタと粘性のある体液が滴り落ちていた。反発力が高まるほど、滴る血の量は増えていく。華陽は負けじと声を上げながら、力を振り絞った。

 突然、金棒伝いに受ける力がなくなった。見ると、ヒツジの背後から、コウモリが鉈と化した右翼を首に突き刺していた。

 ヒツジの身体が崩れ落ちた。目からは生気が消失し、呼吸も止まった。

 千路が妖化を解き、音楽室内で犠牲となっていた団員の一人の隣に向かい、電話を掛け始めた。

 ようやく華陽の心を、痛みを伴う安堵が包んだ。だらしなく口を開き、舌を伸ばすヒツジの怪物の死骸を見下ろし、妖化を解く。

 近づいてくる複数の足音も、今は外の雨音と同じような騒音にしか聞こえなかった。

 ――待ってりゃ化元体が届くところで生きてる連中には、何ひとつわからないだろうな!

 部屋の中で山積みになる化元体が、漠然と視界に映った。

 華陽も、もともとは杉俵側の人間だった。化け物に食われそうになっていたところを千路たちに助けられなければ、そのまま死んでいた。仮に逃げることができていたとしても、杉俵のように自力で化元体を収集し――そもそもの人妖の情報から掻き集め――血盟士団から逃れなければ、生きることはできなかった。

 杉俵と華陽の間にあった違いは、「運」ただそれだけだ。

「何故私は助かって、杉俵さんは助からなかったんでしょうか?」

隣に立つ千路に気づき、胸の内を吐露する。千路は表情ひとつ変えず、質問返しをした。

「偶然だと思うか?」

「偶然じゃないんですか?」

わざわざ訊くからには、そういうことなのだろう。千路は少しの沈黙を挟み、こう続けた。

「半分は偶然だ」

間違いなく、その続きになる言葉はあったが、千路から話すことはなさそうだった。

「もし、あの場にいたのが私ではなく、杉俵さんだったら?」

「勧誘はしなかった」

「何故ですか?」

しばらく沈黙が続いた。千路は口を閉ざしたまま、言葉を続けるべきか迷っているように見えた。

「どんな事実でも受け入れられるか?」

意味深な言葉だった。よく咀嚼もせず、華陽は頷いた。

 しばらくして、千路が口を開き掛けた――ちょうどそのタイミングで、携帯が鳴った。千路は無表情で通話に応じ、音楽室に入っていく。

 後方から足音が近づいてきた。顔を上げると、茂水だった。

「おぅ、華陽ちゃん。無事か?」

「はい、何とか」

「化元体は?」

「何袋かはダメにされてしまいました」

「そうか」

茂水の視線は、足元のヒツジから中の団員の死体に移った。

「嫌になるな」

淀んだ瞳は、しばらくの間動くことはなかった。

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