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3.避難所の異変

 翌日、華陽は大型のワンボックスの三列目の後部座席に座りながら、流れるように移り変わる車窓を眺めていた。隣では、帝都がぐっすりと寝ていた。前席でも、起きているのは運転手の千路だけだった。

 起床時、渡会からこう聞いていた。

「うちの班は、一か所に定住しないんだ。団長の指示で、いろんな場所に出張するんだよね。主に、人妖がたくさん出たところに向かうことになるんだけど」

「俺たち、信用されているからな」

帝都が横から誇らしげに言う。

「うん。班長がね」

渡会がそう付け加えると、帝都はつまらなそうに口先を尖らせた。

 そんな会話を思い出していると、車の走行音に紛れてラジオの音声が耳に入ってきた。

『宮城・山形両県の一部地域で流行している謎の幻覚ウイルスについて、続報です』

謎の流行病が、現在発生している人妖関係の一連の事件を指していると悟るまでに、少々時間を要した。事実とフェイクの混ざった「続報」に耳を傾けていると、

「妖化の仕方については、わかったか?」

千路が突然質問してきた。華陽はびくりと上体を起こす。

「い、いいえ……よくわからないまま、妖化してしまいました」

言葉では表現できないが、感覚だけは何となく覚えている。面前の生き物を食らい尽くしたいという欲求が、じわじわと自我に侵食してくる感覚だ。あくまで「乗っ取られる」わけではなく、「自分の一部」として表出される。結局、何がトリガーだったのかはわからないが。

 千路がぽつりと話し始めた。

「負の感情だ。怒り、悲しみ、苦しみ、恐怖、恨みつらみ――何でもいい。ネガティブなものを思い返すと、勝手に現れる」

口にこそ出さなかったが、案外抽象的なのだなと華陽は思った。

「……どうした?」

千路の視線が、ルームミラー越しに刺さる。

「いや……その、いざというとき、妖化できなくて困ることがなさそうだなと思って、安心しました」

「そうだな。気をつけて欲しいのは、暴走しないようにすることだ」

「妖化から暴走に転じることがあるんですか?」

「人妖が暴走するのは、『化元体(かげんたい)』という物質が体内から枯渇した場合だ。そのときに人間の姿であるか、妖化した状態かの違いは関係ない」

 車が停止した。見ると、目の前に古い校舎が建っていた。おそらく、次の目的地だろう。バックで駐車が始まると、熟睡していた助手席の茂水と、その後ろの渡会が目を覚ました。遅れて天見も覚醒する。

「華陽ちゃん。隣の寝坊助を起こしてやってくれ」

茂水に言われ、華陽は帝都の肩を優しく叩いた。謎の呪文を呟きながら、帝都がゆっくり瞼を開く。

「もう着いたの?」

眠そうな声が訊ねた。寝起きの目が、灰色の校舎を捉える。

「ああ。二時間も経ってないが」

茂水が時計を見ながら言う。

「ふぅん。何か……トイレ汚そうだな」

避難所を見ながら、帝都が呟いた。

 避難所に入ると、華陽は得も言われぬ違和感を覚えた。その正体は、間もなくわかった。

 これまで経験した「避難所」とは、少し雰囲気が違うのだ。そこにいる人々は、まるで自分たちの身に危険が迫っているとは思っていないように見えた。外で流行っている幻覚を見せるウイルスとやらのために、何故自分たちが避難生活を強いられているのかという不満だけが溢れている。いわば、地獄を知らない顔だった。

「ここの人たちは、人妖を見たことがないんでしょうか?」

華陽が呟くと、隣を歩いていた帝都が前を歩く渡会にこう訊ねた。

(なお)(にい)。この辺って、暴走まだなんだっけ?」

一瞬、班員たちの空気が凍ったように感じた。渡会が苦い表情を浮かべ、作り笑いで話す。

「まだだね。ただ、いつ始まってもおかしくはない」

「だからこそ、ここに呼ばれたようなものだから」

天見が付け加えた。先程、空気が凍ったのが気のせいだと思うような、普段通りの顔だった。

 帝都が頭の後ろで手を組んだ。

「ってことは、さっそく外の見回り……」

「桜木と三橋はここで巡回だ」

千路が話を遮って告げた。帝都が目を丸くする。

「は? 巡回? 避難所で?」

やや不満そうに零す帝都の横で、華陽は内心ほっとしていた。異常事態の避難所とは思えない、平和な空気が流れる場所にいるだけでいいというのだ。怪物に襲われる心配もない。

 だが、班員たちはどこか不安そうな表情を示した。渡会が口を開き掛けたところで、千路が先んじる。

「予想では明日だ。万一今日でも、他の班がいる。隣の避難所からも、いつでも駆けつけられる体制だ。我々も、なるべく遠くには行かないようにする」

「あとは、俺もいるしな」

茂水が鼻の下を擦った。その言葉を聞いた千路が、

「急ぎの任務が終わったら、三橋に化元体の補給をお願いしたい」

華陽に聞かせるように、茂水に伝えた。

「あいよ」

茂水が気怠そうに答えた。

 隣では、渡会が真面目な顔で帝都にこう言い残した。

「何かあったらすぐに連絡して」

緊迫した面持ちの渡会とは対照的に、帝都はきょとんとしたまま頷いた。

 千路たちが校舎を発ち、残された華陽と帝都は指示通り避難所内を巡回した。校舎が古く、壁や床が全体的に薄暗い色で統一されているからか、空気が湿って感じた。一方で、来たときから変わらず中の人たちからは非常事態らしい雰囲気が感じられない。そもそも、前の避難所と比較して避難民の数が少なかった。教室も、避難が完了していないのか、空き部屋が多かった。

「部屋ひとつガラ空きなんて、初めて見た」

帝都がそう言いながら、整然と並べられた机の中を覗き込んだ。くしゃくしゃに丸められた試験の答案が入っていた。広げると、十八点という点数と「読めません」と書かれた赤い文字が書かれていた。

 帝都は一通り見て満足したのか、答案用紙を丸めて、机の中に押し込んだ。代わりに、鉛筆が押し出された。カラカラと高い音を鳴らして床を転がり、布団にぶつかって止まった。

 帝都は鉛筆を拾い上げると、

「なんで布団?」

と呟き、顔を上げた。

 壁に寄り掛かりながら、毛布に包まる色白の少年がいた。

「うわあああ!」

帝都が大声で叫んだ。弾みで手から鉛筆が落下し、乾いた音を立てる。華陽も、その声に驚いて小さく悲鳴を上げた。

「ゆ……幽霊!」

帝都が少年を指さし言う。

「ちげーよ」

色白の少年は、頭に被っていた布を邪魔そうに剥いだ。寝不足か、充血した目が露わになる。

「生身の人間だっつうの」

気怠そうにそう答える少年は、華陽たちと同年代で、目が半分隠れるほど長い前髪を垂らしていた。身体は病的に瘦せており、帝都が幽霊と間違ったのも無理はない。

「嘘つけ。だったら何でこんな隅っこに一人でいんだよ?」

「つるむ相手がいねぇんだよ。悪いか?」

「マジで一人? 家族は?」

「物心ついたときにはいなかった」

静寂につまらなそうな声がぽつりと落ちる。

 相手を睨んでいた帝都の目から角が取れ、決まり悪そうに床の鉛筆を捉えた。

「そっか」

罪悪感の滲んだ声が、静穏の中に溶けるように落ちる。

 ――家族がいない。

 その言葉を咀嚼した瞬間、華陽はじっとしていられなくなった。親近感と呼ぶにはあまりに痛々しい感情が、方向性の定まらない衝動を呼び起こす。

「あのっ!」

話す内容を考える前に、声が出た。少年が顔を上げる。

 華陽は顔を紅潮させながら、口を開閉した。

「えっと……その……名前、なんて言うんですか?」

結局、伝えるべき言葉は見つからず、無難な質問に留まる。

(わたる)

少年が呟いた。

「亘って言うのか。俺、帝都。この子は華陽。よろしくな」

質問を投げた当人より先に、帝都が反応した。

「別に、お前らの名前なんて聞いてねえよ」

亘が恥ずかしそうに視線を逸らす。その様子に、帝都が微笑んだ。

「何で笑うんだよ」

亘が不機嫌そうに零す。

「いや、可愛いとこもあるんだなーって」

帝都の返事に、亘は目を見開いた。しかしすぐに、目を伏せながら毛布に包まった。

「そんなんあったら、親戚の誰かが引き取ってくれただろうよ」

「ん? 何、今まで路上生活でもしてたのか?」

「さすがにそれは生きていけねぇよ。児童養護施設みてぇなとこにぶち込まれてた」

「児童養護施設――」

帝都が噛み締めるように呟く。あまりピンときていないようだった。華陽も同じ表情を浮かべる。

 亘は床を見下ろしたまま、二人にこう質問した。

「闇を抱えた人間同士が集まったら、何が起きると思う?」

 数秒間沈黙が挟まれる。やがて、帝都が口を開いた。

「傷の舐め合い?」

「そう思うだろ? でも実際は違う。人間が集まったら起こることなんて、どこも一緒だ。本当、くだらねえ」

亘は舌打ちし、苦々しい表情を浮かべながら、窓から映る曇天を見つめた。釣られて華陽たちの表情も重くなる。

 しかし、まもなく亘の顔がわずかに綻んだ。

「いたよ――一人だけ、弟のように可愛がってくれた人が。俺が唯一、心を開けた相手だ」

あまりにも穏やかな表情だった。すかさず華陽が口を開く。

「ここにはいないんですか?」

「他の避難所にいるらしい」

亘は他人事のように答えた。

「それでいいのかよ?」

帝都が腰に両手を当てながら、眉を顰める。亘は舌打ちし、噛みつくように口を開いた。

「会いに行こうとしたに決まってんだろ! でもダメだった。こっそり抜け出そうとしても、よくわかんねぇ大人たちに引き止められる」

亘はそう言うと、顔を布団にうずめた。

 帝都が申し訳なさそうに息を吐き、頭を掻いた。

「外は危険だからな。俺たちのほうから、直接上司に掛け合ってみるよ。亘が世話になった人に会えるよう、何とかする」

 亘は、見直したように帝都の顔を見つめた。しかし、しばらくすると無言で顔を背けた。

「おいおい。もしかして信用してないのか?」

帝都が身を軽く乗り出し、首を傾げる。

「ああ。だってお前、頼りなさそうだし」

あまりにもきっぱりとした即答だった。帝都が口先を尖らせる。

「お願いしてやんねーぞ」

返事はなかった。帝都は最後に包まった毛布を一瞥すると、

「巡回、戻るか」

華陽にそう告げた。

「うん……その前に、トイレ行きたい」

 帝都に断り、華陽はトイレに一人篭った。

 個室の中で、胸の底から大きく息を吐く。張り詰めていた緊張から、わずかに解放された。

 大して親しいわけでもない同年代と会話することに疲れたというのもある。しかし、それだけではない。

 ここに来てからずっと、本能レベルで全神経が昂揚していた。胸騒ぎと表現するには不安が弱く、むしろ期待が大きい。しかし、何に期待をしているのかという肝心なところは、自分の心なのに何もわからなかった。意識して深呼吸を繰り返しても、興奮が閾値に収まることはない。心臓はうるさく脈を叩き続けるばかりだ。

 このまま休憩を延ばしたところで、普段通りに戻る見込みはなかった。華陽は諦めてトイレを出ることにした。

 手を洗っていると、外から帝都の怒声が耳に届いた。何事かと思い、恐る恐る廊下に出る。

「何でだよ? 血盟師団がついてるなら、別に外に連れ出してやってもいいだろ?」

帝都が噛みつくように訊く。向かい合って立っていたのは、千路だった。外の出回りから、いつの間にか帰ってきていたようだ。

「できない」

千路はそれだけ告げると、持っていたタンブラーを開封し、無表情で一口含んだ。タンブラーの蓋を閉めながら、再度口を開く。

「他の市民に危険が及ぶ」

「そんなこと、わかった上でお願いしてる!」

「わかった上でそんな要求ができるのか」

黒いレンズ越しに、冷たい視線が注がれた。帝都は、悔しそうに唇を噛んだ。

 帝都のほうを向いていた千路の顔が、華陽のほうに向き直った。

「三橋。今大丈夫か?」

突然話を振られ、華陽は途端に挙動不審になった。会話を盗み聞きしていたことは、気づかれていたようだ。

「あ、あの、えっと……まぁ……」

「ついてきて欲しい」

千路が背中を向けると、華陽は怖々と後に続いた。

 着いたのは保健室だった。折り畳まれた大量のダンボールが壁に寄り掛かり、それを押さえつけるようにして箱のままのダンボールが積まれている。

「茂水」

千路が、デスクに突っ伏している白衣の男を呼び掛けた。寝ぼけた唸り声が上がるのと同時に、白衣の背中がむくりと起き上がる。

「ああ……来たか」

茂水は虚ろな目を擦りながら立ち上がると、華陽を手招きしてベッドに向かった。

 華陽は誘導に従い、ベッドの隣に立った。視界の隅に、点滴器具が見えた。心の中に、静かに風波が立ち始める。そんなこともいざ知らず、

「まあ、そう怖がるなって」

茂水は丸椅子を引きずりながら腰を下ろし、華陽の隣に移動した。華陽は、目のやり場に困ったように視線を右往左往させる。

「華陽ちゃんには、そろそろ化元体を打たなきゃならなくてな」

「化元体」

反芻しながら、華陽は記憶の中を探った。聞き覚えのある単語だった。

 千路の言葉を思い出したのと同時に、茂水が説明を始める。

「人妖だけが生まれつき持っている体内物質だ。こいつが減少すると――」

「暴走する」

華陽が、茂水の声を遮り呟く。

 ――人妖が暴走するのは、『化元体』という物質が体内から枯渇した場合だ。

 移動中の車内で、千路が告げた言葉が思い出される。

 茂水は、驚愕と感心の混ざった目を浮かべるも、すぐに元の顔に戻り、補足した。

「つまり、裏を返せば、化元体がある限りは自我を保つことができるわけだ」

説明を続けながら、点滴の準備を進める。

「団員は暴走しないよう、定期的な化元体の摂取を義務づけられている。今はまだ、現場から調達した人妖肉に含まれる微量を、全体で分け合っている状況だ。んで、肝心な摂取方法だが……」

茂水が手を止め、改めて華陽に向き直った。

「一つ目が経口摂取。ゲロ不味い人妖肉をそのまま口に入れるっていう、超絶頭の悪い方法だ」

 茂水の背後で、千路がタンブラーの中身を飲み始めた。茂水は苦々しい表情で一瞥し、見なかった振りをする。

「当然、これはオススメしない。多くの団員たちが行っているのは、二つ目の方法――化元体を直接血液に注入してやる方法――点滴だ」

 最後の単語が、華陽の脳内に響き渡る。

 影を潜めていた泥沼に、ズルズルと吸い込まれていく感覚がした。茂水の声が遠くなる。自分でもわかるほど心拍数が上がり、息が苦しくなる。分厚いすりガラスを通したように視界がぼやけ始める。

 気づいたときには、床に倒れていた。ぼんやりと映る白い光が、天井の照明だとわかると、次第に視界の様相がはっきりとしてきた。

「大丈夫か?」

茂水の声に答えようと、華陽が立ち上がろうとしたが、それより先に背中から抱え上げられた。

 千路だった。無表情のまま、華陽をそっとベッドの上に移動させる。

 華陽は、しばらく千路の腕から目を離せなかった。不思議なことに、抱き上げられたときの感触に懐かしさを覚えたのだ。

「もしかして、先端恐怖症か?」

茂水の質問で我に返った。華陽の表情が強張る。

 これといったきっかけはない。物心がついたときには、先の尖っているものに過剰な恐怖を抱くようになっていた。画鋲、箸、フォーク、鉛筆、ハサミ――先端を見るだけで、それがこちらに迫ってくるような感覚に捉われる。命の危機を知らせる警告が、全身から放たれるのだ。

 返答こそしなかったが、反応それ自体が肯定を示していた。茂水は難しそうに腕を組んだ。

「となると、厳しいな。まぁ、そんなことがあってもいいように、他の方法も用意していた」

茂水は、山積みのダンボール箱から一つを開封した。取り出されたのは、ピンク色の錠剤が詰まったシートだった。

「一回二十錠だ」

錠剤シートが手渡される。華陽はそれをまじまじと見つめた。薬局で普通に処方されそうな、特徴のないものだった。

「体内に取り込めれば、なんでもよし。オススメは柑橘系のジュースだ。うまく味をごまかして飲んでくれ」

 保健室を出ると、さっそく水道を探した。特に何も考えずに一錠取り出し、口に含む。明らかに食べてはいけないものの味が口内に広がった。舌が拒絶し、錠剤を外へ弾き出そうとする。

 華陽は慌てて蛇口を捻り、水を口いっぱいに流し込んだ。空吐きしそうになるのを堪え、錠剤を飲み込む。

 喉に異物感がこびりついた。追加の水を口内に注ぎ、喉奥にぶち当てるようにして嚥下する。

 まだ一錠しか飲めていないのに、すでに額からは脂汗が噴き出ていた。

 手に握られた錠剤シートを改めて見つめる。気が遠くなりそうだった。錠剤を押し出す親指が、なかなか動かない。

「大丈夫?」

不意に、隣から声を掛けられた。振り向くと、帝都が心配そうに窺っていた。

「これ。千路から」

オレンジジュースが差し出される。

「ありがとう」

華陽は素直に受け取り、キャップを開封した。口全体に行き渡るように流し込む。口直しには十分すぎる効果を発揮した。少なくとも水よりは、楽に飲むことができそうだ。

 華陽が残りの錠剤を飲む間、帝都は隣で見守りながら、難しそうにこう切り出した。

「あのさ……亘が外に出られるようにするって約束したじゃん? ダメだったって伝えたいんだけど、どう伝えたらいいかな? 何というか、言いに行きにくくてさ……」

帝都が求めているのが、角の立たない具体的な伝え方ではないということはすぐにわかった。口に含んでいた錠剤を急いで飲み込む。

「い……一緒に行くよ」

正直なところ、よくない回答を告げに行くのは気が重かったが、こうして隣にいてくれる帝都を無下にすることはもっと気が引けた。

「ありがとう」

帝都の表情にわずかな光が差した。

 ワンシートを空にした後、華陽は帝都に続いて亘のところに向かった。

 教室の隅にちょこんと存在する毛布の塊は、先程から少しも位置が変わっていなかった。自然と忍び足になり、微動だにしない毛布に近づく。

「亘。生きてる?」

帝都が恐る恐る話しかけると、毛布から色白の顔だけがひょっこり飛び出した。

「御覧の通りだ……何だよ、辛気臭い顔して」

「上司にさ、外に連れ出したい人がいるってこと伝えたんだけど、断られちまった」

口調が取り繕った軽口なのは、そうでもしないと話せないからだろう。

「ごめんなさい」

続けて華陽が頭を下げる。

 耳をつんざく音が前方から聞こえた。驚いて顔を上げると、机が一台横転していた。床には毛布が雑に投げ捨てられている。

 わざと大きく踏み鳴らしたような足音が聞こえた。毛布を後に、亘か教室から出ようとしていた。

「おい、どこに行くんだ?」

帝都が背中から声を掛ける。

「お前らの上司に会って直接交渉してくる」

充血した目は、殺意を灯していた。

「やめとけ。無駄だ」

帝都が追い掛ける。華陽も遅れて続いた。

「言葉が通じないなら、力で捻じ伏せるだけだ」

亘は、手の関節をパキパキと鳴らした。

 華陽の胸内には、焦燥感が次第に込み上げてきた。願わくば、千路たちと遭遇しないように――そう祈っていたものの、現実は非情だった。

 見慣れた人影とすれ違う。サングラスの男と若い男性の二人組。帝都と華陽は、無視を決めようとしたが、

「三橋。全部飲み終えたか?」

相手の質問に、思わず足を止めてしまった。

「は、はい。何とか」

ついでに回答もしてしまう。

「――なるほど」

わずかに先を歩いていた少年が、敵意を剥き出しにしてこちらを見ていた。踵を返し、ずかずかと歩み寄る。

 直後、亘の拳が千路の顔面に飛んでいった。

 腕が空を切る音だけが鳴った。亘が悔しそうに顔を歪める。ほぼ同時に、虚空を殴っていた右腕が一回り太い腕に捕まれた。

 亘の身体が一回転し、床に投げつけられた。細い二本脚が床に打ちつけられる。

 千路は、床に倒れる少年を一瞥すると、無言で立ち去ろうとした。

「待て!」

亘がゆっくりと身体を起こす。

「他の避難所に会いたい人がいるんだ。ここから出して欲しい」

 千路は無言で首を横に振った。亘は再び鬼の形相を作り、勢いよく立ち上がる。

「俺にとっては唯一の家族みたいな人だった」

 千路の回答は変わりそうになかった。居ても立っても居られなくなり、華陽が横から口を挟んだ。

「千路さん。その、どうか聞いてあげてください。難しいのはわかっていますが――」

「できない」

微塵の慈悲もない、冷たい声だった。

 亘が奇声を上げながら殴り掛かろうとする。

 今度は渡会が止めた。背後から首に腕を絡ませ、申し訳なさそうに締め落とす。

 まもなく、亘は意識を失い、その場に崩れ落ちた。首元を挟んでいた腕が外される。

「桜木、三橋。こいつを元の場所に連れ戻して任務に戻れ」

千路が、床に倒れる亘に爪先を向けた。帝都は亘に駆け寄ると、千路を睨み、亘の両手を掴んで引きずった。両足は、華陽が気持ち程度持ち上げて運んだ。


 特に何事もないまま、日没を迎えた。

 廊下に点在する窓越しの空は、知らぬ間に限りなく黒に近い紺色に染まっていた。市街地の灯りが沈黙しているせいか、月や星の光は普段以上に輝いて見えた。

 星々を眺めようと、華陽が窓に近づく。しかし、屋内の照明が邪魔をした。暗闇に浮かぶ無数の瞬きより、薄っすらと反射する諦めた表情の少女の顔のほうがはっきりと映った。

 見たくもない虚像だった。顔を隠すように、掌が触れる。

 そのとき、背後から何かが床に叩きつけられる音が聞こえてきた。

 振り向くと、廊下で男性がぐったりと倒れていた。

「大丈夫ですか?」

華陽がそっと近づく。次の瞬間、教室から首の長い化け物が顔を覗かせた。

 長い尻尾を含めて約五メートルの、白い鱗に包まれた全身。魚顔に近いながらものっぺりとした顔。口周りの筋肉と骨格だけがやけに発達している。ぎょろっとした黄色い目が、倒れる男性に狙いを定めていた。

 理解が追いつかず、華陽はその場で固まった。しかし、すぐに「もう一つの人格」が抗うための準備を始めた。いつでも動けるよう身体が軽くなり、醜悪な化け物に対する憎悪の感情が自然と湧き始める。完全になされるがままだった。そうとわかっていながらも、不思議と不自然さや不快感はない。

 たちまち妖化し、腰の鞘から刀を抜く。軽く振ると、それはシカ角に変わった。

 白い魔物の視線が、男性から華陽のほうに移った。そのときすでに、華陽は助走をつけて跳び上がり、頭部目掛けて金棒を振りかざしていた。

 一瞬だった。敵の人妖は首を不自然にへし曲げ、床に倒れた。ヒューヒューと喉笛を鳴らしながら、痙攣していた、頭をやられたせいか、図体を動かすことはできないようだ。

 華陽は躊躇なく、とどめの一撃を食らわせた。骨の粉砕する音が聞こえ、金棒越しにも感触が伝わる。

 人妖の目から光が消え、痙攣がぴたりと止まった。

 華陽の口から、熱い吐息が零れた。握っていた金棒が消え、全身に重みが戻ってくる。化元体特有の異臭が鼻をついた。思わず顔を顰め、鼻をつまむ。

 倒れていた男性がようやく意識を取り戻した。男性は、傍に横たわる化け物の姿に震え上がるも、すぐに華陽に気づいた。

「助けてくれたんですか? ありがとうございます」

半信半疑といった様子の礼だった。少女一人で巨大な化け物を倒したというのは、到底信じられないはずだ。

 華陽は心にこそばゆい感覚を覚えながらも、ある違和感を抱いていた。

 ――この人妖は、どこから入ってきたの?

 すでに屍と化した人妖を眺めていると、男性が苦しそうに呻いて蹲った。

「だだだだ、大丈夫ですか?」

華陽は近づくこともできず、あたふたする。返事はなく、男性の表情はいっそう歪むばかりだ。人妖を前にしたときよりもパニックだった。

「すみません、医者を呼んできます」

華陽はそう言い残し、その場を離れようとした。

 男性の身体が、ブクブクと膨張していった。衣服を突き破り、灰色の体毛が全身を覆う。弱々しい呻き声は大型船の汽笛のような低い轟音に変わり、頭上に丸い耳が二つ移動した。徐々に再形成されていく体形は、やがて毛深いクマの姿に落ち着いた。床に伏す白い人妖に負けず劣らず、天井まで届きそうな体長を持し、円らながらも無表情さが残る瞳は、目の前の人間を命の恩人ではなく、獲物と認識していた。

 突然、ヤツデのような巨大な掌が華陽を叩き潰そうとした。

 ヒトじゃないほうの人格が即座に表に現れ、間一髪で攻撃をかわした。床の叩きつけられた箇所が、掌の形に陥没する。その形状が表すのは、紛れもない殺意だった。

 妖化したまま、華陽はクマに立ち向かった。幅のある図体に飛び掛かり、首を両手で締めつける。クマはガチガチと牙を擦り合わせて威嚇した。

 華陽は頭を後ろに大きく引き、額を思い切り打ちつけた。何度も、何度も打ちつける。次第に抵抗が弱くなるのを感じながら、それが全くなくなるまで繰り返した。

 歯を鳴らす音が止んだところで、今度はクマの頭部を右手で鷲掴みし、そのまま床に飛び降りながら、窪んだ箇所に押しつけた。頭部が押し潰され、紙のようにぺしゃんこになった。

 妖化が解かれ、華陽は無様に並んだ二つの死骸を交互に見つめた。

 亘の外出許可を絶対に下ろさない千路。突然湧いた人妖。男性の暴走。頭の中で、すべてが繋がった。

 奥まで伸びる廊下が、虚構の存在に映る。足元が陽炎のように揺らぎ、立っている感覚が薄れていく。

「華陽!」

後方から、帝都の声がした。華陽が振り向く前に隣に並び、二体の人妖に釘づけになる。

「こんなのがいつのまに……」

帝都はそう呟くと、緊迫した表情で華陽のほうを向いた。

「亘が心配だ。もしかすると、人妖にやられているかもしれない!」

「待って……」

華陽の口からは、か細い声しか零れなかった。当然、帝都の耳には届いていない。

「亘!」

帝都は大声で呼び掛けながら、階段を駆け上がった。その後ろで、華陽が引き止めようと手を伸ばしながら必死についていった。口をパクパクと開閉するが、全速力で走る帝都についていくのが精いっぱいで、声が出ない。

 目的の教室が近づいてくる。覗き窓から零れる照明が、ちらつきながら廊下を照らしていた。

「亘! 大丈夫か?」

帝都が勢いよくドアを全開にし、教室に駆け込む。

「来るな!」

やせ細った身体から出るとは思えない、悲鳴に近い叫び声がした。亘は定位置にいたが、毛布は近くに雑に投げ捨てられていた。

 帝都は一瞬たじろいだが、奥へと歩みを進めた。

「どうしたんだよ?」

「身体がおかしい。熱くて、頭が痛くて、心臓がバクバクして……俺じゃない別の奴が身体を乗っ取ろうとしてくる感じがする」

「な……何言ってんだよ。それって、まるで……」

帝都が言葉の続きを言う前に、亘が濁った声で吠え出した。ロングトーンが息継ぎすることなく教室内に響き、次第に人間の声とは捉え難い低音に変わった。

 同時に、亘の外見も変化した。身長は無論、肩幅も広がり、胸板が厚くなる。背中が山のように膨らみ、漆塗りされたような固い皿状の屋根が現れる。四つん這いになっていた細い四肢は電柱の太さに変わり、暗緑色に染まる。髪の毛が消え、手足と同じ色に染まった頭部はゴツゴツした質感に覆われる。

 銀の瞳が二人を捉え、尖った口先が開かれた。

 亘の面影は微塵も残っていなかった。そこにあるのは、華陽と帝都を獲物と認識する獣の本性、ただそれだけだった。

 黒光りする甲羅を背負ったスッポンのような化け物は、華陽たち目掛けて突っ込んできた。

 華陽がとっさに帝都の腕を引き、進路から回避する。

「亘! 目を覚ませよ」

華陽に引かれながら、帝都は必死に呼び掛ける。無論、化け物が自我を取り戻す様子はなかった。

「おい……」

「無駄だよ」

華陽が制止しようとするが、帝都は振り切り、自ら近づいて説得を試みようとした。

「俺だよ。帝都だ、わかってくれ!」

スッポンは、のこのこやってきた獲物に構わず突進した。帝都は黒板に頭と背中を打ちつけ、血を噴きながらその場に崩れた。

 スッポンが口を開き、帝都の頭から食らいつこうとする。

 考えるより先に身体が動いた。妖化し、敵の甲羅に飛び乗ると、背後から両腕で首を締め上げた。

 黒板を引っ搔いたような悲鳴が上がった。早く黙らせようと、脊椎に手を掛ける。

 頭が大きく揺れ始めた。縦横無尽に暴れ、まもなく華陽の額に直撃する。

「痛っ」

華陽が怯む間、スッポンは長い首を伸ばし、勢いをつけて華陽の身体を殴り飛ばした。

 少女の軽い身体は、ガラガラと机を薙ぎ倒し、床に打ちつけられた。

 スッポンは華陽を一瞥だけすると、再び帝都のほうを向いた。悲鳴を上げていた口を再度開き、食らいつこうとする。

「ダメ――」

華陽は立ち上がり、金棒を握りながらスッポンの後ろ姿を狙う。

 帝都は抵抗しなかった。焦点の合わない目で化け物の胴体を見つめ、力なく口を開く。

「戻ってくれよ。家族同然の人と会うんだろ?」

 今にも敵を殴りつけようとしていた華陽の動きが止まった。

 『家族』――その言葉が判断を鈍らせた。

 華陽にはもう家族はいない。だが、亘にはまだ会うべき大切な人がいる。暴走状態は永続じゃない。他の人妖を食べるなりして化元体さえ摂取できれば、人間に戻れる。

 こちらが殺らなければ、殺される。それは同時に、亘を生かすということでもある。

 金棒を持つ腕に、命を奪うほどの力は込められていない。足だけは亘のほうに向かうが、気持ちは揺らいだままだ。

 スッポンの口の中に、今にも帝都の頭が収まろうとしていた。

「華陽――お前だけは逃げろ」

最後の力を振り絞るように、帝都が告げる。

 正気に戻った。自分の役割は何で、誰を生かすべきか。何のために血盟士団に引き込まれたのか。つらい思いをして、不味い錠剤二十錠を飲み干した理由。

「――ごめんなさい」

金棒を握る力が強まった。

 長く伸びた首を目掛けて、金棒がバットのように横に振られる。

 スッポンがバランスを崩して横転した。脚をばたつかせて体勢を戻そうとする。その頭部を狙うように、金棒が振り翳された。

 鈍い打擲音が鳴った。床に血飛沫が散る。

 暴れていた四肢が止まった。スッポンは目と口を開いたまま、動かなくなった。

 廊下から、走る足音が聞こえてきた。華陽が妖化を解いたのと同時に、中に天見と渡会が入ってくる。

「華陽ちゃん、大丈夫?」

天見が心配そうに華陽に訊き、それからスッポンを見て息を飲んだ。

「はい……私は、大丈夫です」

華陽は力なく答え、黒板のほうに目をやった。

 帝都がぐったりとしていた。渡会が近づき、腕を引く。立ち上がった帝都の顔色は、優れなかった。原因が大怪我によるものでないことは明らかだった。

 遅れて千路がやってきた。班員たちの生存を目視し、すでに息絶えた人妖に視線を止めた。それから再度班員たちを見回すと、状況を察したように華陽のほうを向いた。

「三橋、よくやった」

それだけを告げ、その場を後にしようとする。

「待てよ」

帝都の虚ろな声が引き止めた。さらに続く。

「何で亘が暴走したんだ?」

 千路が振り向く。渡会は唾を飲み、天見は無言で俯いた。

 最初に答えたのは、華陽だった。

「ここは避難所じゃなくて、人妖が集められた隔離施設だった」

それは、決して責めるような口調ではなかった。華陽は理解していた。いずれ暴走する人たちの自由を奪うことにはなるが、そのお陰で人妖以外の人たちの安全はより保たれる。血盟士団も、人妖の始末や化元体収集が市街地に赴くよりも楽になる。これから生きる者の生存を優先させるなら、理に適った判断だ。

 しかし、帝都は違った。千路に掴み掛かり、噛みつくように詰問する。

「どうしてだよ? どうして亘は死ななきゃならなかった? 血盟士団じゃなかったからか? おかしいだろ。自分たちは団員だからって理由だけで、平気で団員以外の人妖を殺し、化元体を搾取する。不公平じゃないか?」

千路は煩わしそうに一瞥するだけで、何も答えなかった。帝都に背中を向け、その場を立ち去る。

「おい! 答えろよ!」

帝都の声が廊下に響く。足音は止まらなかった。

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