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2.大規模人妖暴走事件

 目が覚めたとき、初めあらゆる記憶がなくなっていた。言葉すら浮かんでこなかった。瞼の間から見える景色が広がっていくのに伴い、ようやく自分が三橋華陽という山形(やまがた)県南に通う高校生であることを思い出した。

 視界に映る白い天井。知らない場所だった。心なしか、身体が重い。全身の感覚が抜けていた。ようやく寝返りを打つと、自分がベッドの上に寝かされていることを知った。

 鉛のような上体をゆっくりと起こす。布団に手が沈み、全身の関節が音を鳴らした。

「――あ」

声がした。見ると、ベッドの外から唖然とこちらを見つめる女性がいた。二十代後半から三十代前半ぐらいの、亜麻色の長髪をした大人っぽい雰囲気。事務机でノートパソコンを開いていた。

 女性は慌てて立ち上がると、やや硬い笑顔を見せ、すぐに部屋を出て行った。

 部屋が静まり返った。ようやく身体の重さに慣れてきた華陽は、首を回して周囲を見た。学校の保健室のようだった。部屋の奥にもう一つベッドがあったが、そちらは空だ。その周囲には、未開封のダンボール箱が山積みになっていた。「錠」と丸印で囲まれて殴り書きされている。華陽の知るものとは異なる、独特の匂いが薄らと漂っていた。事務机の上には、ノートパソコンを置くスペースを確保するために医学書が隅で塔を作っていた。

 室内を見回す間に、廊下から足音が近づいてきた。やたらペースが速い。

「そんなもんいらねーだろ。ただでさえ拘束してるっつうのに」

変声期の少年の声がした。

 ――拘束?

 華陽は、布団を捲り自分の身体を見下ろした。足がベッドの脚と鎖で繋がれていた。どう見ても人間用ではなく、猛獣を縛りつけておくためのものだった。ベッドから出ようとすると、錠が足首に食い込み引き留めようとする。

 同様に、両腕も鎖が繋がれていた。長さ的なゆとりはあるが、伸ばすことができるのはせいぜい胸元ぐらいまでで、足の鎖に触れることはできなかった。

 足音が部屋の前まで迫ってくる。

 ドアが開いた。廊下を歩いているときより足音が一段と遅くなったのがわかる。

「目覚めたか」

独り言のようにそう呟いたのは、サングラスを掛けた黒シャツの男だった。年齢は三十代半ば程。黒い短髪で筋肉質な体格をしている。

「体調はどうだ? 何か異変はないか?」

気遣いとはやや異なる口調が訊ねる。華陽は外界に這わせていた意識を身体の内部に向けた。全身が重いこと以外は何ともない。

 返事を表情で悟ったのか、男は安堵したように息を吐いた。すかさず、隣の少年が鼻で溜息を吐く。

「昨日カゲンタイ入れたばっかだろ? それに、あんだけ食えばしばらく持つっつったのは誰だよ?」

華陽と同年代の、標準的な体格の少年だった。黒みを帯びた短めの茶髪に童顔。角を立てた目で男を睨んでいたが、華陽に向き直ると優しい目つきに変わった。

「あんだけ……食えば……」

華陽が小声で反芻した。

 食う。その単語を認識した途端、たちまち忘れられていた記憶が蘇った。

 突如遭遇したザリガニ。貪られる人。街を闊歩する大量の化け物。大蛇。身体が握り締められる感覚。口内。牙。

 断片的な記憶がくっきり蘇る前に、華陽は映像を振り払った。

「すみません。朝から体調が悪くて、変な夢を見てしまって……助けてくださって、ありがとうございます」

「妙な化け物に襲われる夢か?」

サングラスの男が夢の内容を的中させる。華陽の顔が強張った。

 男はサングラスを正し、構わず続けた。

「生憎、夢ではなく現実だ」

 恐怖が背筋を駆け抜けた。思い出さないよう留めた悪夢のような記憶が、どっと溢れ出る。

 もし助けてもらえていなかったら、食われていた。

 間近に迫る大蛇の牙が鮮明に蘇る。脂汗が滲み出し、心臓が恐怖を煽るように暴走し始めた。自らでは制御できない感情の暴発。どうすることもできず、無意識に身体を丸める。このまま死んでしまうのではないかという恐怖に上塗りされる。

「大丈夫?」

少年の声で、遠のきそうになっていた意識がその場に留まった。

 隣で、少年が心配そうにこちらの様子を窺っていた。過呼吸になっていることを自覚し、吐くことに集中する。

 華陽が少し落ち着いてくると、男が再び口を開いた。

「危険だからそこを離れろ」

「危険? あっそ、お前だけ怖がってろ」

少年が男を睨むように見る。その手には、拳銃が構えられていた。

 こんな状況で取り出されるのが、モデルガンなわけがない。華陽の全身に鳥肌が立った。

「――そんなもん必要ないだろ」

少年の顔が引き攣る。

「用心は過ぎるほどが丁度いい。桜木(さくらぎ)、そこをどけ」

「ふざけんな。そいつを戻したらどいてやる」

桜木と呼ばれた少年がそう叫ぶと、あろうことか男は銃口を向けた。少年は身震いし、ゆっくりと華陽から離れた。

 男は、銃を構えながら堂々と華陽に近づく。華陽はその場から逃げようとしたが、ガチャガチャと拘束具が音を鳴らすだけだった。

「君の回答次第ですぐに終わる。無論、命も保証する」

華陽は固まり、ただ銃口を見つめていた。

 足音が止まった。男が開口する。

「我々に協力して欲しい」

 華陽は唾を飲んだ。相手の素性は何一つとしてわからない。何を協力して欲しいのか? そもそも彼らは何をしているのか? 怪物たちから華陽を救い出した意図は? 唯一明白なのは、断った場合何をされるかだ。

 銃口が迷いなくこちらに狙いを定めていた。

 死ぬのだけは嫌だった。

 華陽は口をわなわなと開き、何度も小さく頷きながら、絞るように声を出した。

「協力……します」

か細く頼りない声が発せられる。

 拳銃が下ろされた。華陽の全身から、わずかに緊張が抜け落ちる。

「あの……何を、手伝ったら、よろしいでしょうか?」

少しだけトーンを上げた声で質問する。男は銃をしまいながら答え始めた。

「君が見た化け物の駆除だ」

全身が震え上がる。「無理です」という言葉が口を突いて出そうになったが、すんでのところで飲み込んだ。

 男は淡々とした口調でさらに続けた。

「あれは人妖(じんよう)と呼ばれている。普段はヒトの姿をしているが、ある特定条件下で化け物に変わる。それを始末するのが我々の主な任務だ」

 人妖。聞いたことのない名前だった。人が化け物に変わるという話も、神話や伝説ぐらいしか知らない。それが突然、身の回りで起きたというのか。

 疑問はまだなくならなかった。特定条件とは、具体的に何なのか?

 そのとき、着信音が鳴った。男が、シャツの胸ポケットからスマホを取り出す。

千路(せんじ)だ。どうした? ……了解」

無表情のまま一言二言で通話を切り、華陽たちに向き直った。

「〇八〇〇、朝食を持って多目的集合だ」

「朝から会議でもあんの?」

離れていた少年が、華陽の傍に戻ってくる。質問に対し、男は否定せず、鍵を投げると同時にこう告げた。

「三橋を連れてきてくれ。何かあったらすぐに連絡しろ」

少年は鍵を受け取ると、不満そうに鼻を鳴らした。

 男が部屋を出て行く。静寂が室内に戻った。

「あのクソ野郎が、ごめんな」

少年は受け取った鍵で華陽の拘束を解いた。四肢の自由が戻ったとはいえ、身体が鈍重としているのは変わりない。身体の動きが鈍いことに気づいてか、少年が手を差し出した。

 華陽は、その手を掴むことなく自力でベッドから這い出た。

「下の名前、何ていうの?」

少年に訊かれ、華陽は俯きながら答えた。

「華陽です」

「かっこいい響きだな。漢字ではどう書くの?」

「中華の華に、太陽の陽です」

「強そう。俺、帝都(ていと)っていうんだ。帝王の都市で帝都……全然俺のほうも強そうな名前だったな。よろしく」

桜木帝都は、部屋の時計に目をやった。七時四五分だった。

「並ぶかもしんないから、さっさと朝食取りに行こうか。体育館で配られてるんだ」

「並ぶ……?」

「あ、そっか。ここ、避難所になってるんだ。人妖がうじゃうじゃいるから、外を出歩けないだろ?」

帝都の話を聞きながら、華陽の目は時計のすぐ下にあるカレンダーに注がれた。六月だった。体調不良で早退した日は、確か五月だったはずだ。

 帝都の後に続き、医務室らしき部屋を出たタイミングで、華陽は質問した。

「すみません。今日って、何日ですか?」

「六月十日」

耳を疑った。つまり、あれから三週間眠っていたことになる。

「そう。大分長く寝ていたんだよ。あと、無理して敬語使わなくていいから。多分同年代だろうし。華陽って何年生?」

「あ、えっと……高一」

「マジ? 年上? 俺、中一だわ……敬語使ったほうがいいですか?」

「あ、いや、全然、大丈夫です」

「そう。よかったー」

 廊下に出ると、朝食を取りに行く時間だから人集りができていた。その光景が、三年前被災したときの避難所の光景と重なる。

 朝食待機列は、想像ほど長い列ができているわけではなかった。部屋か、あるいはグループごとに取りに行く時間等を調整しているのだろう。それでも、並べば三十分は掛かるだろう列は続いていた。律儀に並んでいては、八時には間に合わない。

「俺たちは団員だから、並ばなくても貰えるんだ。おいで」

帝都に言われるがままに、行列を横目に体育館に入った。避難民の成す列とは別に、『血盟士団専用』と札のあるゾーンがあった。帝都は迷いなくそちらに向かい、何か事情を説明しては二つ弁当を受け取った。一方を華陽に渡す。

「よし。じゃ、多目的へ行こう」

華陽は、受け取った弁当箱の上に乗った「おてもと」を不安そうに見つめていた。

 多目的室を覗くと、すでに満席だった。前にはプロジェクターの投影シートが広げられ、オンライン通話の待機画面が表示されていた。帝都が華陽を連れて、こっそり中に入ると、後方の席から手招きする中年男性の姿が見えた。帝都に引かれ、男性の隣の空いた二席に並んで腰を下ろす。

「帝都。お前、前のほう行こうとしてただろ?」

男性はお茶を飲みながら小声で訊ねた。白衣と無精ひげ。首から下がっているカードには「茂水古石(しげみずこいし)」と記載されている。

「よく見える席のほうがいいじゃん? 前行っちゃ悪いの?」

「悪いに決まってるだろ! 向こうは団長が来るんだぞ?」

その視線が華陽を捉える。帝都は理解したのか、決まり悪そうに俯いた。

「そういやそうだった。茂水、サンキュー」

「しっかりしてくれよ? 収容所なんて行きたくないからな。それはそうと――」

茂水が改めて華陽と向き直る。

「初めまして、三橋華陽ちゃんだっけ? 茂水です」

「見ての通り、ヤブ医者だ」帝都が脇から付け加える。

「ヤブじゃねえよ、ちゃんと免許持ってるから! それにしても、とうとううちの班にも若くて可愛い子が来てくれたかー」

茂水がわざとらしい口調で言う。隣から帝都が、

「でもお前、どうせ中で引きこもってんだから一緒になること少なくね?」

冷静にツッコミを入れた。さらに、帝都とは逆隣りから、

「キモ」

幻滅したような声が返ってくる。見ると、華陽が目覚めたときに最初に見た女性だった。すぐに、茂水が噛みつくように口を開く。

「キモって何だよ! 傷つくだろ!」

「勝手に傷つきな。あんたみたいなジジイが名前にちゃん付け呼びなんて時代錯誤もいいとこよ。華陽ちゃん、キモかったらジジイキモいですって言ってあげてね」

「あ……はい」

「はいなのかよ」

茂水が大袈裟に机に突っ伏す。その横で、帝都が女性のほうを見ながら紹介した。

「あれが(あま)()。華陽が来るまで紅一点だった。つっても、実質男みたいな感じだけど」

天見舞(まい)()です。男どもに頼れないこととか、何でも相談してね」

華陽は控えめに頭を下げた。そして、恐る恐る帝都に訊ねた。

「……ここにいるのが、班の皆さん?」

「うん。あとは千路と、もう一人いる」

帝都がそう言い、前方を見渡そうとしたところで、室内が暗くなった。相対的にスクリーン画面の映像がくっきりと表示される。雑談の一切が止み、静寂に包まれた。

 スクリーンに表示されていた待機画面が切り替わり、スキンヘッドの強面壮年男性が映し出された。

『朝の大事な時間を奪ってしまい申し訳ない。私が、血盟士団(けつめいしだん)の団長・田村(たむら)だ。現地に派遣された団員が増えてきたこともあり、今一度認識合わせを行いと思った次第だ』

血盟士団。これが、華陽がこれから協力することになる組織の名前らしい。団長の話に耳を傾けながら、弁当を開封する。

『まず、現在起きている大規模人妖暴走事件の概要だ。五月一日、蔵王(ざおう)山の封印(ふういん)(いし)が破壊され、約千年ぶりに人妖の暴走化が発現した。現時点では宮城(みやぎ)県仙台(せんだい)市の西側地域および山形県の東部一部と南陽(なんよう)地域がやられている』

 南陽がやられている――その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。真っ先に祖母の顔が浮かんだ。続いて病院、華陽が通っていた学校、通学路、普段行く店や図書館、公園、そこで見かける人々や営まれている日常が呼び起こされる。それらがすべて、化け物たちに破壊された。ぶん殴られたような衝撃が尾を引く間にも、映像が田村の顔から年表に変わった。

『今回の事件に関わるので、軽く組織の歴史についても触れたい。血盟士団が結成されたのは平安時代中頃。当時はまだ暴走した人妖がそこら中にいた。これらを退治するために作られたのが始まりだ。しかし、蔵王で暮らす一家・染谷(そめや)家が封印石を作ったことによって、暴走人妖が出現することはなくなった。以後、血盟士団は存続すらしたが活動することはなくなった』

画面が年表から、今回の事件の概要の画面に切り替わる。

『封印石の破壊と同時に、染谷一家は一名を除いて全員死亡。残った一名は逃走中だ。封印石を再度作成して大規模人妖暴走を収めること。これが最終ゴールだ。そのために、染谷の生き残りと合流し、大規模暴走が収まるまでの間の被害をなるべく抑えるようにしなければならない』

 話を聞きながら、華陽は開封した弁当をただ見下ろすことしかできなかった。視線は、食われるのを待つばかりのおかずと、隣の「おてもと」とを交互に往復する。

「何かわかんないことでもあるか?」

茂水が小声で訊ねてきた。華陽は全身を強張らせると、手付かずでいた「おてもと」をぎこちなく開封した。

「あのえっと……人妖は確か特定条件下で化け物に変わると聞きましたが、封印石がない状態というのが……その、特定条件下ということなんでしょうか?」

「そうだなぁ。だいたいそう思ってもらっていい」

茂水は脳内で咀嚼するように、じっくりと頷いた。

「だと……その、人妖は普段どこに隠れているんですか?」

「ん? 普通に暮らしてるぞ?」

一瞬、理解が追いつかなかった。

「えっと……普通の人と一緒にってことですか?」

「そう。普段は人間と変わんない。っていうか、俺たち人妖だし」

 華陽は叫び出しそうになるのを堪えようと口元を押さえた。そんな反応も見越していたのか、茂水は特段驚く様子もなく、弁当の卵焼きを食して続けた。

「戦車や戦闘機を使わないで暴走人妖を相手するとなりゃ、こっちも同じようにしなきゃならないわけよ」

 茂水の言っていることは最もだが、華陽はいまいち釈然としていなかった。

 町中を闊歩していた悍ましい生物たちの姿が脳裏を過る。到底知能などは持ち合わせておらず、ヒトを獲物としてしか認識しない化け物。あれになって戦うわけだ。敵を倒すためとはいえ、仲間を犠牲にするのも厭わないということだろうか?

 疑問に思いながらも、なかなか質問する勇気が出ないでいると、

「あんまり喋ってると注目されるぞ?」

帝都が間に割って入った。その視線が、スクリーンに映る田村の目に移る。威圧感を伴う、まるで人を殺していてもおかしくない瞳だった。華陽はぶるっと全身を震わせ、その場に縮こまった。目線は自然と下に向き、手元の割り箸が視界に入る。

 心臓が激しく脈打つのがわかった。呼吸の仕方を忘れ、頭の中が暗黒に食い潰されていく。危機感は激しさを増していく鼓動に掻き消され、次第に意識が曖昧に溶けていく――

「大丈夫か?」

茂水の小声で正気に戻った。華陽は意識して相手の顔を見上げ、小さく頷いた。

「すみません」

体調不良で授業を止めてしまったときのような、気恥ずかしさを伴った罪悪感に駆られた。割り箸から目を背けながら、顔を隠すように俯く。

「気にすんなよ……痛っ」

帝都が笑顔で答えた矢先、茂水が頭を鷲掴みした。

「馬鹿野郎。どう見ても顔色おかしいだろうが」

茂水は溜息を吐き、静かに椅子を引くと、華陽を手招きした。華陽は茂水以上に慎重に立ち上がり、こそこそとついていくことにした。足を忍ばせる間、周囲やスクリーン越しの視線にびくびくしていた。見つかるのではないか。咎められるのではないか。しかし、茂水が庇うようにしてくれているお陰か、部屋を出るまでばれることはなかった。

 廊下に出た途端、胸を塞いでいた鈍重な空気が体内から抜けていくのがわかった。華陽が目を覚ました部屋の階に続く階段を通り過ぎ、茂水は突き当りの「保健室」の扉を開いた。華陽が忍び足で続き、足を止めるのを見計らって、茂水はドアをぴしゃりと閉める。

 無言で手前の空のベッドを促され、華陽は腰を下ろした。

 茂水は奥のベッドにも人がいないことを確認すると、事務椅子に腰を下ろし、一回転させた。

「知らない人間だらけの空間にいて疲れただろ? 少し休んでな。ついでだし、あそこで聞けなかったことがあれば、遠慮なく聞いてくれていいぞ」

「すみません」

少しして、礼の言葉を告げるべきだったと気づき、胸内で溜息を吐く。華陽の顔色が優れないのは事実だったのだろうが、それとは別に華陽があの中で最も――唯一話しやすい相手が自分であることを見抜いたのだろう。

 実際、同年代や若い大人が苦手だった。自分の考えや意見を正直に晒したら、嫌われるのではないか? 変な人間だと思われるのではないか? 知らないところで話題にされて笑われるのではないか? そんな恐怖を覚えるからだ。それより世代が上がってくると、そういう心配が減ってくる。千路は単純にとっつきにくく、若者たちとはまた違う恐怖を覚える。班内で話しやすい人間は必然的に決まってくる。

 華陽は居心地の悪さを覚えながら、恐る恐る口を開けた。

「人妖と戦うには、自分たちも人妖にならなければいけないというのは、その……他の団員さんが犠牲になることもあるってことですよね?」

 質問の意図がわからなかったのか、茂水は初め怪訝な表情を浮かべていたが、

「ああ、そういうことか」

眉間の皺が消え、またもや椅子を一回転させて華陽のほうを向いた。

「人妖は理性を保ったまま、バケモンに変わることもできる。俺らはこの状態を『妖化』って呼んでいる。対して、身も心もバケモンになった状態が『暴走』」

気の抜けた椅子の回転音が紛れる。華陽の顔つきは硬いままだった。

「皆さんは、妖化した状態で戦ってるってことでしょうか?」

「そ。だから、通常は団員同士で殺し合いが発生することはない」

椅子の回転が止まる。茂水が向かい合うと、華陽は目を逸らすように俯いた。部屋のドアが静かに開かれる音がしたが、気にすることはなく、代わりにやや躊躇い気味に口を開いた。

「妖化は、どうやってするんですか?」

「これから教える」

茂水とは違う声だった。驚いて顔を上げる。

 千路抗(こう)()は、入るとき同様、丁寧にドアを閉めた。茂水が机のペンを回しながらつまらなそうに口を開く。

「会議、もう終わったのか?」

「いや、トイレで抜けてきた」

渡会(わたらい)に任せてってか……で、ここはトイレじゃねーぞ?」

茂水がようやく顔を上げる。

 千路の後ろに姿を忍ばせる、小学校低学年ぐらいの少年がいた。恐々と華陽たちの様子を窺っている。

「具合が悪そうだったから連れてきた。熱中症に見えたので飲み物は与えたが」

千路はそう言い、持っていたタンブラーの中身を徐に飲み始めた。途端に、茂水が顔を青くした。

「おい。まさか、それを与えたんじゃ……」

 顔色一つ変えず飲み続けていた千路が口を離し、タンブラーを見つめる。その隣で、少年が背中に隠していたスポーツドリンクのペットボトルを見せた。茂水は大袈裟に安堵の息を吐いた。

「坊主。奥で横になってな」

茂水がだらしなく空のベッドを指さす。少年は無言で頷き、一人でベッドのほうに向かった。その様子を見届けると、千路は無機質な真顔で華陽と茂水を交互に見た。茂水は何を言わんとしているのかを悟り、口を開いた。

「会議が嫌になって抜け出したんじゃねえ、華陽ちゃんが気分悪そうだったから連れてきただけだ。あんな人混みの中で、怖そうなハゲ頭のジジイを大画面で見せられたら、そりゃあ気持ち悪くもなるだろ」

茂水が同意を求めるように視線を送るが、華陽は身体を縮こませたまま何も言えなかった。千路は無表情のままタンブラーの中身を飲み干し、華陽に視線を移した。まるで体調に問題なさそうか探るような眼差しだった。華陽はさらに身体を硬直させる。

 最中、保健室のドアをノックする音が聞こえてきた。三人の視線がドアに集まる。

 ドアが開き、若い男性の姿が見えた。筋肉質な体格の誠実そうな好青年だった。

「班長、会議終わりました」

彼はそう言うと、華陽の存在に気づいた。千路とは対照的な人当たりのよい笑顔を浮かべ、軽く会釈した。

「初めまして、渡会直人(なおひと)です。よろしくお願いします」

華陽はやはり、かくつきながら頭を下げることしかできなかった。悪い人には見えないながらも、「若い大人」という属性ただ一つで苦手意識に雁字搦めにされる。

 班員同士の挨拶が終わると、千路はさっそく口を開いた。

「三橋、具合はどうだ?」

「え……」

華陽は顔を上げ、その質問の意図するところを探ろうとした。

 ――妖化は、どうやってするんですか?

 ――これから教える。

「ひゃっ」

間の抜けた悲鳴が零れた。顔から血の気が引いていく。

 流れを掴めていない渡会が、疑問符を呈するように千路のほうを見た。

「三橋を連れて行こうと思う」

千路が訊かれるまでもなく淡々と告げる。

「さっそく実戦投入ですか」

渡会が困惑したように呟いた。茂水も、全面的に賛成しているわけではなさそうな渋い表情を浮かべ、頭を掻いた。

「大丈夫なのか? 華陽ちゃんが、というよりもお前たちが」

「飾っておくために引き入れたわけではない」

千路は冷たい声で言い放ち、華陽のほうを見て続けた。

「無論、無茶をして身を滅ぼすような真似をする気もないが」

 三人の視線を受け、華陽は固まっていた。

 化け物駆除の協力。確かに、受けるとは言った。しかし、いざ実施すると迫られると、耐えがたい恐怖と拒絶感に襲われた。

 町中に湧く大量の化け物。車を破壊して中の人を食う。悲鳴を上げる無抵抗な市民に群がり、貪る。あれと戦わなければならない。仮に妖化できたとして、倒すことはできるのか? 失敗はすなわち死だ。

 考えるだけで、引いていた身体の不調がぶり返してくる。

 無理だ。戦えない。声にこそ出せなかったものの、華陽の顔が胸内を代弁してくれた。

「今日はやめといたほうがいいんじゃねぇか?」

茂水が告げる。千路も同様に思ったのか、華陽から視線を外した。

「渡会。九時昇降口に集合と班員たちに伝えて欲しい」

「承知しました」

まもなく、渡会は保健室を出て行った。華陽が恐る恐る口を開く。

「あの、私はどうすれば……」

「元気になるまで休む、だな」

茂水が即答した。千路も口出しはしなかった。昂っていた華陽の心臓は、途端におとなしくなった。全身の緊張が一気に解かれる。

 千路のタンブラーに、茂水が赤黒い液体に満ちたパックを開封し、中身を注入した。保健室に生臭さとは別の独特な異臭が充満する。

 奥のベッドで、少年がむせ返るように咳をした。華陽も、布団に鼻を押しつける。気持ち程度、匂いがマシになった。

 タンブラーが満たされると、千路は礼を言って部屋を出て行った。

 華陽はベッドに横になった。化け物退治に行かなくていいと決まってから、不調は落ち着いていた。全身に染み渡るような安堵も、回復の後押しをしてくれたに違いない。しかし、こんなに元気なのに何をしているのだろうという罪悪感も、胸の中に渦巻いていた。

 突然、電話の音がけたたましく鳴った。茂水が面倒そうに、机の上の内線の受話器を上げる。

「はい、保健室。……はい、ああ……はい、承知しました」

受話器が置かれると、茂水はのっそりと立ち上がった。

「華陽ちゃん。ちっと留守にするから、よろしく。坊主のことも頼むわ」

華陽は自信なさそうに頷いた。

 茂水が部屋を出て行った途端、室内は静まり返った。時計の秒針がのんびりと時を刻む音だけが耳に届く。

 ゆったりと息を吐いた。体育の時間の準備体操で行う深呼吸よりも、心を落ち着かせるものだった。

 心地よい静穏。もっと浸っていたかったが、まもなくペットボトルのキャップを開ける音が打ち破った。喉を鳴らして液体を飲む音が続く。隣のベッドから、先程華陽が零したのと同じ類の溜息が聞こえた。

「お姉ちゃんも、ねっちゅうびょう?」

思いがけず話し掛けられ、華陽は飛び起きる。少年はまったく動じない様子で華陽を見つめていた。

「ううん。熱中症ではない……です」

子供は決して得意ではないが、一番緊張しないで済む相手だ。良くも悪くも、人を見る目が養われていない。同年代や大人たちと比べて、変な人間だと思われる可能性が低い。見てくれを気にしなくてよい分、話すのは楽だった。

「一人……なんですか?」

華陽がふと疑問に思ったことを訊く。自然と質問が浮かぶのも、子供が相手のときぐらいだ。少年は頷いた。

「パパはまだここに来てないと思う」

「他の場所にいるの?」

「わかんない」

 しばらく無言の時間が続いた。そこに気まずさはなかった。程なくして、

「お姉ちゃんは、お母さんのこと、聞かないんだね」

少年にそう言われ、華陽は気まずそうに顔を背けた。少年はスポーツドリンクを飲むと、こう続けた。

「パパのことを言うと、だいたいママのことも訊かれるんだ。病気で死んじゃったんだけどね。お姉ちゃんも、もしかして、ママいないの?」

同情という胸の中のずっしりとした重みが、ダイレクトに圧し掛かった。遅れて、やるせない後悔が押し寄せる。

 春を目前とした、肌寒い昼下がり。奇しくも、その日も体調不良で学校を早退していた。自宅で横になっていたとき、未曾有の大災害に襲われた。あまりに激しい揺れに自宅は崩壊し、華陽は下敷きになった。職場にいた両親は、後に津波に飲まれて亡くなったと聞かされた。

 頷くだけなのに、首が何かに固定されたように重く、力が必要だった。

「うん。お父さんもいない」

そこまで発したところで、ようやく笑みを繕うことができた。ひどく歪なものだったが。

 華陽はすぐにこう続けた。

「まだ幼いのに、一人で平気なのすごいね」

すると、少年は得意げな笑みを浮かべた。

 龍の絵が描かれた腰ポーチを外し、華陽に見せびらかす。そこには、オレンジ色の怪獣のキーホルダーがつけられていた。身体に少し傷がついているので、長らくの相棒なのだろう。

「ママがくれたの。レッドファイアスカイリザードっていう超強い奴でね、どんな敵も燃やして倒せるんだ」

少年は目をキラキラと輝かせながら、何千回も目に入れたであろうそのキーホルダーを見つめていた。ようやく、華陽のほうを向いた。

「こいつがいるから、俺、平気なの」

強がりにも見えなくないが、堂々とした目だ。華陽には少し羨ましかった。

 少年は、レッドファイアスカイリザードの話を熱弁すると、疲れなのか体調のせいなのか、眠りについてしまった。

 心地よい静寂が戻ってくる。ちょうどよい温度の空気に包まれ、カーテンの開いた窓からは直射ではない日光と青空が差し込んでいた。普段、校舎の窓際から眺める空と似ていた。雲が少ないせいもあるかもしれないが、広く見えた。しかし、青のくすみ具合は、校舎から見た記憶の中のものと変わらなかった。わずかに影が差した心も、概ね穏やかに刻む時に身を委ねていた。

 華陽が保健室に来てから二時間程度経過した頃だった。廊下から近づいてくる足音に気づき、入口のほうを振り向く。

 ドアが開いたのは同時だった。

「華陽ちゃん、変わりないか?」

入ってきた茂水が、訊ねながら奥のベッドに向かう。華陽が頷いたことなど見ていないだろう。そのまま、寝息を立てる少年の肩を叩いた。

 少年の寝ぼけ眼がゆっくりと開かれる。

「坊主。お爺さんとお婆さんが来た」

「……なんで?」

不思議そうに訊ねるのは、寝起きだからというわけではないようだ。茂水は一瞬、気まずそうに目を逸らし、華陽のほうに身体ごと振り向いた。

「荷物運びを手伝って欲しい。もちろん、体調が戻ってたらの話だけど」

「どこに行けばよろしいでしょうか?」

「体育館。わかるか?」

うろ覚えだったが、首を横に振ることもできず黙って頷いた。茂水はその様子を確認すると、

「よし。じゃあ、よろしく」

そう言い、少年と一緒に保健室を出て行った。取り残された華陽も、まもなく無人の部屋を後にした。

 体育館に到着し、手伝うことになったのは、トラックからの配給品の荷下ろしだった。ダンボール箱をひたすら運び、中身の仕分けを行うグループに引き渡す。三年前にも、似た光景を見た気がする。

 作業が終わると、完全に避難民だと思われていたのか、作業に徹していた血盟士団の団員から礼を言われた。虚しさを手土産に、保健室に戻ろうとする。

「華陽ちゃん!」

聞き覚えのある女性の声が耳に入った。びくりと身震いし、振り向く。

 天見だった。ダンボール箱をひとつ抱え、早足で近づいてくる。

「手伝ってくれてたんだね。具合は大丈夫?」

「はい」

華陽の視線は、ダンボールに記された「カゲンタイ 錠」の字を捉えていた。

「よかった。気持ち顔色もよくなってる気がするしね。それでさ、茂水知らない? 保健室にもいなかったのよね」

華陽が顔を上げると、天見は困ったように肩を落としていた。

「あ、あの、もしよろしければ、探してみましょうか?」

「ごめん、お願いしてもいい? これを渡して欲しいの。午後からまた出掛けなきゃいけないから」

天見が体育館の時計を見る。華陽も視線を追った。まもなく正午を示そうとしていた。天見たちは午後からも人妖狩りに行くのだろう。

 保健室で千路と交わした会話を思い出す。人妖退治から逃れるためのちょうどよい言い訳ができた。華陽は自らダンボールを受け取り、体育館を離れた。

 箱で顔の下半分を隠すように抱えながら、廊下を歩く。千路に遭わないか、内心びくびくしていた。昼の時間帯になったお陰で、食事を受け取りに行く避難民の人混みに紛れることはできていた。しかし、肝心の茂水も見当たらない。ダンボール自体はそこまで重くはなかったが、だんだん腕が疲れてくるのがわかった。

 一階の昇降口前、人のいない場所で一度荷物を下ろしたそのとき、目の前を勢いよくかけて行く子供の姿が見えた。腰ポーチからぶら下がるオレンジ色のシルエットが揺れる。

「アキちゃん!」

外のほうから、老年男性が呼び掛けた。見ると、老夫婦が心配そうに少年の背中を見つめていた。女性のほうは、頻りにハンカチで目を押さえていた。

 その場にいるのが心苦しく思い、華陽は保健室に戻ることにした。少年の後を追うことになると気づいたのは、その場を離れてからだった。今更引き返す先もなく、華陽は気まずそうに入室した。

 奥のカーテン越しに、嗚咽を漏らして泣く声が聞こえた。

 華陽はダンボールを手前に置き、忍び足でベッドに入ろうとする。

 保健室のドアが開いた。入ってきたのは、茂水だった。華陽はすかさず声を掛ける。

「茂水さん、天見さんからこれを……」

「あぁ……ありがとさん」

茂水は虚ろな目でダンボールを捉え、力なく椅子に座った。

「どうしたらいいですか?」

「その辺に適当に大丈夫だ」

指示通り、華陽は箱をその場に置いた。入れ替わるように、カーテンが勢いよく開き、少年が保健室を飛び出した。

 勢いよく閉ざされるドアが、呆然と目に映る。

「何度見ても慣れねぇな」

空虚な静穏に、ぽつりと影を落とした声が零れる。

「……お父さんと会ったんですね」

「――聞いたのか?」

「行方不明と言ってたので」

胸に渦巻く思いは複雑だった。どんな形であれ、親の最期に立ち会えたという羨ましさ。華陽の場合は、三年前の震災で亡くなった両親と対面できず終いだった。反面、幼くして肉親のショッキングな亡骸を目の当たりにしたことに対しては同情もあった。

 静けさを打ち破る内線に、茂水がのっそりと応じる。

 華陽は、開いた奥のカーテンの空いたベッドをぼんやりと眺めていた。外から差し込む日光はくすんでいた。

 通話が切れると、

「昼飯は朝と同じ場所で受け取れる」

茂水はそう言い残し、部屋を出て行った。

 とてもベッドから離れる気になれなかった。食欲が湧かず、朝食のときに貰ったお茶の残りだけで十分だった。何より、団員専用の配給所に行けば、千路とばったり鉢合わせする可能性が高い。そうなったら今度こそ、人妖駆除に連れて行かれること間違いなしだ。

 お茶を口に含み、静かに布団に潜った。すでに体温で温まってはいたが、不完全な温度だった。心臓が空虚な音を立てる。

 苛立ち交じりの溜息が零れた。

 自分がいかに役に立たない人間であるのか、痛感させられた。できるのは、荷物運びという代替の利くような軽作業だけ。本来、人妖駆除のために生かしてもらっているのだから、当然のように居場所はない。

 学校にいるときと、何も変わらなかった。

 人間は他人との関係の中で、少なからず損得勘定を働かせている。何かしら得なことがあるから、その人と一緒にいる。何も得られない相手や、こちらが損を被るばかりの人間からは距離を置く。社交性とは、すなわち共益関係を孕んでいる。

 学校を出れば変わるだろうと、少しは期待していた。結局、何も変わらなかった。環境が変わったところで、求められる素養はそこまで変化しない。

 他人が血を滲ませて手に入れたものを、ありがたく啜ることしかできない者は、永遠に蚊帳の外をさまよい続けるしかないのだ。

 今更失望なんてない。少し悲しく、苦しいだけだ。

 布団の中の暗闇が、余計に孤独を掻き立てた。眠れないまま、時間だけが過ぎていく。

 突然、保健室のドアが勢いよく開かれた。華陽は、叩き起こされたように飛び起きる。

「あれ? 坊主戻ってない?」

茂水が、奥のもぬけの殻のベッドを見ながら訊ねる。華陽も、驚いたように空のベッドに視線をやった。

「はい」

そう言いながら時計を見る。忘れていた秒針の音が耳に届くと同時に、あれからまだ三時間も経過していなかった。とはいえ、幼い子供が一人で抜け出すにしては、あまりにも長すぎる。

「お爺さんお婆さんのところに戻ったわけではないんですか? それか、友達と一緒か」

「いいや。さっき各階の点呼があったんだが、どこにもいないらしい」

「探してきます」

 人探しぐらいは、力になりたい。使命感に駆られ、華陽はベッドを飛び出した。

 特に少年の行き先に心当たりはなかったが、上階からおそらく祖父母と思われる少年を探す声が聞こえてきたので、一階の人目のない場所から中心的に回った。トイレ、掃除ロッカー、札のない用途不明の小部屋。子供が隠れられそうな狭い隙間。可能性のある場所を漏れなく探したが、少年の姿はどこにも見つからなかった。

 額の汗を拭いながら、一度昇降口の前に戻る。

 外から、拙い足音が聞こえてきた。振り向くと、探していた当人が靴紐を結んでいた。

 考えるより先に足が動いた。

「あ、アキくん……? お爺さんお婆さんが探しているよ?」

華陽が呼び掛けると、少年の動きが一瞬止まった。少し遅れて、華陽のほうを振り向く。その目は、幼い子供のものとは思えないほど険しかった。

 靴紐を結び終わり、少年は地面に置いていたバットを持って、走り去ろうとする。

「待って」

華陽は追い掛けた。足の速さに自信はなかったが、絶対に止めなければならないという焦りが後押ししてか、どうにか少年の横に並ぶ。

「外は危険だよ」

少年の足は止まらない。バットが地面を擦る音が、断続的に聞こえてくるだけだ。

「アキくん、帰ろう? 怖い化け物に食べられちゃうよ」

 ようやく少年が足を止めた。前だけを睨んでいた険しい視線が、華陽のほうに向けられる。

「化け物がパパを殺したんだな?」

バットを握り締める力が強くなる。華陽は慌てて口を開いた。

「そ、そんなバット一本で戦えるような相手じゃない。アキくん、戻ろう? お爺さんお婆さんも悲しむし、他の人にも迷惑が掛かる」

「そんなの知らねえよ!」

バットが地面に叩きつけられた。華陽はびくりと身をすくめる。

「お姉ちゃんにはバット一本持った子供にしか見えないかもしんない。でも、俺にはパパとママがいる。レッドファイアスカイリザードもいる。最強なんだ!」

ファンタジーの世界でしか通用しないような、稚拙で荒唐無稽な理論だった。しかし、華陽には反論することができなかった。もはや、どんなに正しい正論を並べても、彼を止めることはできないだろう――そう思わせるものがあった。

 少年は華陽を避け、再び歩き出した。

 華陽は引き留めようと手を伸ばしながら、少年を追う。ひたすら虚空を掴むだけだった。

 二人は校舎の敷地から外れた。街は、戦争災害後に放置された状態かのように荒廃していた。怪獣映画で見るような派手な物的損壊はないが、CGやジオラマの街並みよりも人気が感じられない。いわくつきの場所を歩いているような不安感が、そこら中に淀めいている。

「アキくん……帰ろう?」

「嫌だ。パパの仇を討つまで帰らない」

たどたどしく進む足音と、堂々と先を行く足音が交互する。

「お父さんの仇なら、他の人が取ってくれるって」

「それじゃあダメなの!」

 再びバットが地面を突いた。

 直感でわかった。もう何を言っても無駄だろう。華陽は一刻も早く避難所に帰りたかったが、少年を一人で置いていくわけにもいかない。攻めて、血盟士団員が来るまでは――そう思い、避難所のほうを振り向いたが、人がやってくる気配はない。引くにも引けず、だらだらと少年についていく他なかった。

 避難所から離れるにつれ、街並みは変わらずとも不気味な静穏を醸すようになった。夏に差し掛かっているというのに寒気がし、全身に鳥肌が広がる。自然と歩幅は小股になった。肩は強張り、猫背になる。

 いつの間にか、前を歩く少年との距離が離れていることに気づいた。華陽は小走りで駆け寄ると、肩をすぼめながら、少年のすぐ後にくっつくように歩いた。

 ジャリ、という物音がした。

「ひゃっ!」

華陽が小さく悲鳴を上げて飛び上がる。少年も一瞬、足を止めた。

 単に、瓦礫を踏んだだけだった。バクバクと鳴っていた心臓が、次第に落ち着きを取り戻す。華陽は安堵の息を吐いた。

 その矢先、突然、脇の家屋が崩壊した。粉砕した瓦礫が波となって、二人に襲い掛かる。

「うわあああああ!」

二人は叫びながら、全力でその場から離れた。

 残骸の雪崩は、二人を捉える直前で止まった。

「アキくん……帰ろう?」

華陽が息を切らしながら言う。ようやく少年も、素直に聞き入れる姿勢を見せ始めた。バットを握る力を弱め、爪先を華陽のほうに向ける。

 そのとき、目の前に何かが降り立った。二人は同時に振り向いた。

 銀色の体毛に赤い目。頭頂に生える、無数の刺を備えた大きな二本の(つの)。一見シカのようなそれは、肉食獣のような顔つきと顎の形、逞しい胴体を備えていた。

 全身から恐怖が呼び起こされ、華陽は硬直した。その傍らで、少年がバットを構えて怪物のほうに果敢に走る。

「パパの仇!」

少年の腰でオレンジ色のキーホルダーが揺れる。重いバットを不器用に支え、たどたどしい足取りで駆けていく。その様を、シカの人妖が赤い目で冷徹に見据える。

 二者の距離が縮まっていく。

 突然、シカが角を構えて走り出した。いきなり迫ってきた敵に驚き、少年は反射的にバットを振るう。

 バットは不格好ながらもシカの体を捕らえ、瓦礫の山に投げ飛ばした。汽笛と地鳴りの混ざったような禍々しい悲鳴が上がり、銀色の身体が家屋の残骸に打ちつけられる。折れた金属質の角が、華陽の足元に転がった。

「ひっ!」

華陽は、びくりと震えながらシカの角から離れた。

 少年は、瓦礫の中に倒れる憎き敵に、さらに追撃しようとしていた。聖剣を振り翳す伝説の勇者さながら、バットを堂々と振り上げる。日光を吸い上げ、神々しく光って見えた。

「パパを返せ。じゃなきゃ、死ね!」

悲しみを背負った叫びが、振り下ろされるバットに乗せられる。

 その瞬間、少年を横から何かが突き飛ばした。

「うわ!」

少年の身体が地面に傾き、バットが甲高い音を立てて瓦礫の山へと消える。

 仰向けに倒れた少年に、三つの頭を持つ黒い鳥が覆い被さるように止まった。長い指で身体を地面に押さえつけ、動きを封じ込める。

「嫌だ! 痛い痛い痛い痛い!」

三つの嘴が交互に脇腹を啄み、服に穴を空けて中の血肉を貪ろうとする。服の破れた箇所から傷が覗き、血が流れ出ていた。

「助けて! 痛いよ! 嫌だ! 死にたくない!」

少年の喉を枯らすような悲痛な叫びが、化け物の図体の下から聞こえてくる。

 華陽は当然、助けに入ることなどできなかった。血盟士団員を呼ぶのが最善の手だろう。そう思い、踵を返そうとする。

 しかし、すでに来た道には化け物の集団が形成されていた。痩せこけたイヌ型の人妖。羽の生えた無機質な甲殻類らしき人妖。首の長い漆黒に包まれた人妖――一体一体を視認する間に、数はどんどん増えてくる。

「助けて!」

背後からの必死な叫び声は、次第に弱々しくなっているのがわかった。

 硬い殻に覆われた人妖が、虫のような大顎を開閉させて華陽のほうに飛んできた。

 脳の奥に追いやっていた記憶が、掘り起こされた。

 大きく開かれた大蛇の口。びっしりと生え揃う鋭利な牙。両脚を縛られる感覚。心臓だけでなく、全身の血管が生命の危機を知らせようと激しく脈打つ。恐怖によって感情と理性が混濁し、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 ――終わりだ。食われる。

 ――どうやって逃げる? どうしたらいい?

 ――どうしようもない。

 この状況でもまだ、「生きたい」という根源的で強烈な渇望が残っていた。最後の生存欲求が、五感とあらゆる感覚を駆使して可能性を探ろうとする。絶望に打ちひしがれる自分とは別の誰かが――しかし同時に、自分自身でもある何かが――内側から突き動かそうとしてくる。

 ――生きるためには、食わなければならない。

 理性の介在しない、完全な野生の願望が心の底から湧き上がった。「三橋華陽」と自覚している自我を保ちつつも、奥底で息を潜めていた負の感情に身を委ねる。

 瞼を閉じる。口を開き、息を吸う。冷たい空気が肺を満たしていく。

 思考が冴え渡る感覚がした。興奮しているのに、理性が鎮座している状態。同時に、寄り添ってくれる誰かの気配を覚えた。隣にでも背後にでもない、もっと近い場所。家族でも知り合いでもない何か。不思議と胸が安心感で満たされる。

 右手が、地面に転がるシカの角を探り当てた。金属バットよりもずっしりとした重量が、腕に伝ってくる。

 瞼を開ける。恐怖の対象だったものが、捕食対象として目に映った。

 華陽は、自らを奮い立たせるように叫び声を上げ、少年に被さる黒い鳥に殴り掛かった。

 重いはずのシカの角が、空のペットボトルでも持っているように軽い。黒い鳥が羽を散らしながら地面に倒れる。その様を、宵闇に浮かぶ赤い満月のような目が見据える。

 一瞬たりとも、体勢を戻す隙を与えず、馬乗りになった。

「食ってやる」

尋常でない握力で、黒い鳥の首を締めつけた。

 敵は苦しそうに鳴きながら抵抗した。理性の失われた黒い瞳には、二本角を頭から生やした少女の鬼の姿が映っていた。

「畜生」

 暴れ続ける敵の胸に、華陽は拳を打ちつけた。何かを粉砕する感触が伝わるのと同時に、抵抗する力が失われた。

 華陽は高く跳躍して鳥の死体から離れ、他の人妖の群れに突っ込んだ。

 シカ角を振るうたびに、血肉が飛び散った。それでも生きている異形は、地面に押し潰してとどめを刺す。

 華陽は、背後で様子を窺う人妖の集団に向き直った。握っていたシカ角が、自然と刀へと変形する。

「お前らも食ってやる」

刀の一振りで、グロテスクな悲鳴と肉塊に溢れた。真っ二つにされた胴の断面から、内臓が露わになる。

 紛れもなく、醜悪な光景だった。しかし、今の華陽にとっては、ご馳走の並ぶ食卓と変らなかった。八重歯を剥き出しにし、肉体に食らいつく。

 赤黒い体液が地面に跳ねた。繊維を引きちぎり、肉片を咀嚼する。食事の邪魔をする敵が現れれば、刀で断頭し、あるいは串刺しにして、次の一口にした。

 間もなく、化け物で蠢いていた一帯は、不動の景色へと変貌した。

 刀を持つ手をゆっくりと下ろし、左手で口元を拭う。

 ふとその手を見ると、絵具でも塗したように、真っ赤に染まっていた。

「……あれ?」

つい今まで、夢を見ていたような感覚に摘ままれた。途端に、右手にあった刀の重みが消える。

 思い出したように周囲を見る。バラバラになった化け物の肉片が散乱していた。吐き気を催す異質な臭いが、そこら中に充満する。

「華陽!」

声に驚き、振り向く。千路班の班員たちがいた。

「大丈夫か?」

帝都が訊ねる。その奥で、渡会が地面に座り込む少年に寄り添っていた。天見も屈み込み、少年に何か声を掛けている。

 華陽は再び、自分の掌を見つめた。

 シカ角に撲殺される暴走人妖。刀で裁断される肉塊。かつて生きていたことを感じさせる骨と肉。内臓。生臭さとも違う異質な臭いを放つ大量の体液。噛みついたときの感触。紛れもなく、自分の意思でやったことだった。命を奪ったという実感が、遅れて脳髄に染み渡る。これでは、どちらが化け物なのかわからない。

「うっ――」

華陽は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。


『化け物』

震災で両親を亡くし、父方の祖父母に引き取られた先の中学で、自分の名前より多く呼ばれた呼び名。

『家に潰されたのに生きてたとか、化け物じゃん』

冗談だったのかもしれないが、間違いなくその一言が華陽の扱いを決定づけた。

『化け物が来たぞー! 逃げろ逃げろ!』

『ふるさとに帰れよ。ここは化け物の来る場所じゃないぞ』

面白がって気味悪がる同級生たち。ハサミを突きつけられ、パニックに陥ることもあった。

 華陽はその場で言い返すことすらしなかったが、心の中では否定していた。震災で生き残った人は自分以外にもいる。決して化け物ではなく、人間だと。


 間違っていたのは、華陽のほうだった。最早、彼らの言葉を裏づける材料しか揃っていない。

 暗くて、迷惑を掛けてばかりの役立たず。おまけに化け物。存在する価値などあるのだろうか? むしろ、消えるべきではないか? 自己否定が涙となって、とめどなく零れ落ちていく。

 そんな中だった。

「お姉ちゃん!」

元気な少年の声が耳に届いた。顔を上げると、全面笑顔を浮かべた少年がこちらを見ていた。

「助けてくれてありがとう! パパの仇もありがとう! めっちゃかっこよかった!」

 胸を押し潰すように渦巻いていた溝色の何かが、ふと溶けていくような感覚がした。全身に圧し掛かっていた錘が外れ、まとわりついていた灰色の空気が離れていく。

 華陽は両手で涙を拭った。

「三橋」

今度は低い声が呼び掛ける。霞む目をさらに拭うと、遅れてやってきた千路の姿が見えた。

「お疲れ様。よくやった」

相変わらずの無表情と、無機質な声だったが、怒っているわけではなさそうだ。

 校舎のほうから、茂水が血相を変えて飛んできた。険しい視線が、華陽と少年を順番に捉える。二人が無事とわかると、ほっとしたように胸を撫で下ろした。

「茂水」

千路がサングラスを軽く押し上げながら告げる。華陽を呼んだときよりも、明らかに厳しい声だった。

「どういうつもりだ?」

「悪い。坊主探しを手伝ってもらってたが、まさか外に出るとは思ってなくて……」

 サングラス越しの冷たい視線が、咎めるように睨みつける。

 茂水は頭を掻き、震える溜息を吐いた。

「申し訳ないが、俺が見るには限界がある。それ以上を求めるなら、千路、お前が監視をしてくれ」

「そのつもりだ」

千路は華陽のほうを向き、最後に渡会を見て、耳打ちするように呟いた。

「見込み通りだ」

渡会が、強張った表情で頷く。その意味が、このときの華陽にはまだわからなかった。

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