27話 『愛』
ほとんど眠れないまま、午後八時過ぎに篤は諦めて体を起こした。雫はいない。二階にいるのだろう。どうしたものか、と考え始めたところで腹の虫が鳴った。目につくのは雫の持って帰ったビニール袋だ。手に取って中身をのぞき込んだ。彼女も言っていた風邪薬と、頭を冷やすシート、スポーツドリングが二つ、加えて手軽な栄養食がいくつか入っていた。それらを取り出していくと、底にまだ何かあった。なんだろうと思って取り出したそれは、ブラックの缶コーヒーだった。
これを店で盗む彼女の姿を思い浮かべると、篤はこれまでにない罪悪感をわずらった。思い返せば最低な言葉で彼女を追い払ってしまった。激しい後悔が打ち寄せる。彼女は自分を少しでも喜ばせようと、車で十五分はかかる道を歩いて往復したのだ。それも横殴りの雨に打たれながら。
――謝らなければ。
篤は二階に駆け上がり部屋を片っ端からノックした。三つ目の、六畳ほどの部屋に彼女はいた。
「なに」扉の隙間から彼女の髪だけが覗いた。彼女は篤を見てくれなかった。「体は、もう大丈夫なの」
「ああ。……すまなかった。酷いことを言って」
「あの、篤さん」
「ん?」
「私の事、嫌いになった?」
どうしてその問いが出てくるのか、篤には分からなかった。
「なんでそうなる、なあ入れてくれ。直接話がしたい」
返事を聞こうともせず、篤はドアをこじ開けるようにして部屋に入った。
「だ、だめ」と雫が周章するも、もう遅かった。小さな部屋にただ一つ佇む机には、開いたウイスキーとタオルが置いてあった。「……あはは」
「飲んでたのか」
篤が彼女の顔を見ると、確かに頬が赤くなっていた。それを誤魔化すように雫ははにかんだが、そのせいで一層なまめかしく見えた。
「そ。ちょっと、そんな気分になっちゃって。それでグイッと」
「このタオルは? ……ん、濡れてるじゃないか。こぼしたのか」
そう尋ねるが、雫は否定も肯定もせず、ただ俯いて立っていた。言いたくない、というより、恥ずかしさがあるようだった。
「どうした」普段の〝らしさ〟を激しく欠いた彼女を、篤は腰を落として目の位置を合わせ覗き込む。そして異変の訳を知った。「――泣いてた、のか」
「うっさい……」雫は言った。「誰のせいだと思ってるの……篤さんが、怒鳴ったりするからだよ……」
きらり、と彼女の目元が瞬いたかと思うと、一滴の雫がまっすぐ落ちた。
「雫、俺――」
「私、慣れてると思ってた。怒られるのも。泣くのも」彼女は笑ったが、それは次第に形を失い、本物の感情を映し出した。「……だけど篤さんに怒鳴られて……私……」
「言わなくていい」
あの夜に殺すはずだった女性を、篤は抱き寄せた。誰にも注いだことのない、愛情をもって。
「俺が悪かった。ごめん」
彼の声は上擦っていた。彼に包まれた雫はせきを切ったように泣き出した。あやすように、篤は両腕に彼女を感じながら左右にゆっくりと揺れた。篤さん、篤さん、と雫は彼の胸に縋っている。何度かに一度、彼は彼女の名を呼ぶ。それを続けている内に、二人の顔は冷たかったものから、徐々に晴れやかになっていく。雨はやみ、喜びが咲き、笑声がこぼれた。篤の胸を借りていた雫もその赤みが差した顔を上げて、「篤さん」と、これまでと違う声色で言った。
「あのね。一つお願いが――」
篤は彼女の顔を上向かせ、キスをした。長い間、ただ唇を重ねた。一度離れ、お互いが名残惜しいのを感じ取るとまた重なり合った。二人は一晩中、片時も離れなかった。
夜が明け、目が覚めても二人は一枚の毛布にくるまっていた。
「篤」
雫が言った。
「〝さん〟はどこ行ったんだ?」
彼女の髪を撫でながら篤が訊く。
「呼んでみたかっただけ」不意に崩れてしまった表情を、彼女は篤の懐に潜り込んで巧妙に隠した。「でも、やっぱり篤さんって呼ぶよ。さっきの呼び方は……取っておこうかなって。なんだか勿体無くてさ」
胸中に沸き立った情動に、篤は素直に従った。一言、雫、と呼んで、彼女が顔を上げると不意打ちの口づけをした。短い悲鳴が二人の中で響いた。
「もう、なに」腕を使って篤から離れるものの、すぐに雫は至福を思い出した。仕返しに一瞬のキスを、さらに舌を喉から鎖骨へと這わせていった。「お返し」
「こら、くすぐったいだろ、止めてくれって。……なあ、覚えてるか」篤は言った。雫は若干不満そうに舐るのを止めた。「遊園地で話しただろ。これから先、どうするのか」
どこか躊躇いがちに雫は頷いた。彼女はその話題に触れたくなかったのだ。
「たくさん話したよね。私は北海道、篤さんは沖縄とか。アメリカとロシアって案もあったっけ。冗談半分で――一緒に死のうか、とも言ったよ。もしかして行先、決めたの?」
「行先はまだ。だけど、二つ決めたことがある。まず、心中はしない」篤は言った。雫は笑いつつ、憂いを覗かせた。だがその想いの陰りは、続く篤の言葉によって細大漏らさず霧散した。
「雫、俺と一緒にいて欲しい。それがどこかは……分からないが。こんなふうに一緒に住もう。仕事は、現地で頑張って覚えるから。農業でも工場でもいい。俺、誰も傷つけない仕事がしたいんだ。給料は安くたって構わない。君と暮らせるだけの稼ぎがあれば、それでいい。……毎日こうやって雫を抱きたい。望み過ぎなのは分かってる。それでも俺は――君を愛してる。どうしようもないくらいに。君の為ならなんだって出来るくらいに……」
不安に押しつぶされそうになって、篤は黙ってしまった。相手が必ずしも自分と同じ考えを持っているとは限らない。脳のキャンバスに描き連ねた願望を雫に強要したくない。それでも、受け入れて欲しいと希っていた。
だが迷う素振りすら見せずに、まぶたを閉じて雫は頷いた。
「絶対、一緒にだからね」彼女は囁いた。「それが叶うなら、いつだって、どこへだって。私、あなたのそばにいる」
ああ、今なら死んでもいい、と矛盾する思考を篤は持った。
「キスしてくれ」
雫は快く了承した。
「ありがとう。篤さん」唇を離して彼女は言った。「あの夜、殺しに来てくれて」
「これからは一緒に生きよう」相手の背に回した腕に力が入る。彼の言葉は自分にも言い聞かせているかのようだった。「大丈夫さ。きっと上手く行く」
仲冬の冷え込む山腹に、ポツリと空き家が建っている。買い手の付く気配のない、孤独な家がある。今、そこに行く当てのない男女が棲みついている。もちろん手続きなどは踏んでいない、不法な居候だ。住んでいる二人にとっても、それぞれが以前住んでいた住居より環境は悪く、年月による劣化は酷かった。ある場所は木材が割れそうな悲鳴を上げた。割れた窓ガラスは管理者が渋ったのかそのまま放置され、おかげでリビングの風通しは最高だった。それでも二人は、愛が生まれたこの家を好きになった。一生忘れなかった。
「明日、ここを出よう」
「うん」
二人は日が暮れる前に買い物に行った。それきり誰も、空き家に戻ってこなかった。




