はるか彼方、友とゆかば(Aパート))
月の隠れるような、深い夜だった。
もともと大陸の中央にある交易都市に過ぎなかったイヴァンは、王国と魔国の統一戦争後、帝国として成立してからは帝都として、帝国の威信を賭けた大都市へと発展していった。今もなおその途中である。
「若旦那。……困りますねェ、あんまりワガママ言ってもらっちゃ」
そんなイヴァンの静かな裏通り──昼間であれば、国中から人が集まる目抜き通りの裏側である──に、男が二人たっていた。一人は大柄で作業着姿の男で、頭を布で巻いている。もう一人は、それよりふた回り以上は体格が下であった。気弱そうな黒髪の、少女と見紛うばかりの少年である。まるで小動物のように体を震わせている。
「別に難しいことじゃないでしょう。カモノの金庫からちょっと金をくすねてもらえりゃ、それで俺は満足なんですよ。そうしてもらえれば、若旦那の秘密は守りますよ」
そうした発展途上都市において、商人達は存外に権力を持っている。とりわけ、イヴァンの生鮮食品を一手に仕切る『カモノ食品』は、その販路の大きさと食品という命に直結する分野であることから、政治的にも物申せるほどの権力を持っていた。
そこの一人息子、跡取り──それが若旦那と言われる少年の正体であった。
「それとも、なんですか。……あの蔵にそんなに大切で見せられないものを隠しているんですか? 金よりも大事なものを? ぜひ、みてみてえなあ。ねえ、若旦那ったら」
男はカモノの従業員の一人である。元は戦争に行っていたのを、父親が引き取って働かせている男だ。しかし、元の粗暴さは隠せず、悪辣さは鳴りを潜めなかった。若旦那が頻繁にカモノの家の敷地内にある持ち蔵へ出入りするのを見咎めていたのを良いことに、直接彼に対して要求をするようになったのだ。
はじめは小遣い銭だったのが、日を追うごとに彼の手当てほどの金額になり──今こうして、帝都一般臣民の得ることができる金から見てもひと財産になるほどの金を要求されるまで、そう時間はかからなかった。
「まあ、今すぐってんじゃないんですよ。俺は旦那様から信用されてますからね。こうして若旦那のお供に出る限り、『説得』には時間をかけますから。ただ、俺の口は軽いもんですから、重しでもしてもらわないことにはね……」
「わ、わかったよ……。もういい加減にしてくれ。蔵のことをだまっておいてくれるなら、お前のことを悪いようにはしないから……」
「若旦那は物分かりがようござんすねえ……じゃ、俺はァッ!?」
男が喉を詰まらせたのは、偶然ではなかった。彼の首に細い紐が光り、喉を押しつぶしている。建物の上から、誰かがそれを引っ張っているのだ。体がもちあがり、押しつぶされた苦悶の声と、足を振り乱す哀れな男の姿が、わずかに切れた雲の間から月明かりに照らされる。
「見てらんないね」
色素の薄い茶色の髪が、月明かりに透けていた。白い簡素な羽織物が、風に揺れている。誰かが建物の屋上に腰掛け、二人を見下ろしているのだ。その手の先から、鋭く細い糸がわずかに揺れながら伸び、男の首にかかっていた。
「僕の我慢の限界を超えてきたな。名前は……なんだったか。なんでもいいや」
その人物はひとりごちると、手を少しだけ地面に近づけ──立ち上がりながら、そこから勢いで一気に糸を引いた。苦しんでいた男は、それを誰にも伝えることが叶わず天へと登っていき──文字通り昇天した。影になって隠れているが、苦しげな表情であることは間違いないだろう。
若旦那は腰を抜かしていた。漏らしていなかったのが奇跡に近かった。死んだ。確実に、絶対に、もうあの男は生き返らない。それが目の前で、それも彼が『守っていた』者の手で行われたことに、彼は困惑を覚えていた。
それは洞窟に風が吹き抜けるような寒々しい絶望を、彼の心に巻き起こした。
「サクラ!」
肉が落ちる音とともに、サクラと言われた『それ』は笑った。神がそうあれ、と言われて作られたものがあるとしたら、サクラのような笑顔を見せるだろう。彼は完璧に見えた。少なくとも若旦那には。
「なんだい。礼はいらないよ。僕が勝手にやったことだからね」
まるで落ち葉が風に揺れるように、建物から自然に降りると、サクラはいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「勝手にやった? 誰が殺してくれって言った。僕は──」
「我慢するつもりだった、かい? ばかばかしいね。そうやって我慢してばっかりで何があるっていうのさ? あいつは君に金の無心をした。ああいう輩はね、黙っててもいつか僕を見にくるものさ。その上でもっと君に金をくれと言うんだよ。……それなら死んでくれた方が都合がいいよ。そうだろ?」
サクラはそう断じ、若旦那の手を引いた。彼の後ろに、血だまりの中に沈んだ従者だった者が沈んでいるのが見えた。サクラを始めて自宅の蔵の中で見たとき、美しいと感じた。誰にも見られたくないし、隠しておきたいとすら思った。
その感覚は正しかった。誰にも見せてはいけないし、隠しておかなくてはいけなかったのだ。
「今夜はいい日だよ。散歩に行こうよ。夜はまだ長いんだしさ」
サクラはそれが良いことだと心底信じているようだった。強引とも取れる勢いで若旦那の手を引く。その度に、彼の罪が遠のいていく。サクラがそう言うのなら。彼の脳裏からは、だんだんとあの哀れな従者のことが消えていった──。
帝都社会学研究会は、その日も執り行われていた。有志による政治経済の勉強会──その実態は、イヴァンに居を構える闇の断罪人達が、晴らせぬ恨みを抱えた弱き人々の代わりに、復讐を代行する──その仕事を割り振るための会である。
通常であれば、だ。その日は趣が違った。
会長であり、名うての義賊、そして今はイヴァン憲兵団拘置所の牢名主である女──独眼のリリア、その人による直々の言葉から、会は始まった。
「今日はみんなに『号外』のことを伝える」
「号外? いきなりなんの話だ、元締め」
会の長テーブル、一番奥。銀髪の大男がぶっきらぼうに言った。テーブルの下で足を組み、お世辞にも態度が良いとは言えぬ男──エルは不遜なままであった。
周りの男女も同じ気持ちではあった。号外。会に置ける、緊急案件を指す言葉だ。それも生半ではない事態に発展していることさえある。
「先日、カモノ食品という会社の従業員が殺された。まあそいつはいい。そういう事もあるだろうさ。問題は、妙な手口の殺しがここ最近増えてきてるってことだ」
「妙な手口──とは?」
エルの隣が指定席になっている、背の高いシスターが言った。
「細い糸を使って、相手の首にかけて釣り殺す──そういう殺り口だ。みんなも知ってのとおり、この会に所属する会員のやり方にだけは、あたしは関与してない。ブン屋にも、そこだけは調べさせていない。会員の自主性に任せている。……だが、会を通さないで断罪を請け負うのは完全な掟破りだ。この首吊りの犠牲者の何名かは、ブン屋がウラを取って目通しをしている最中の的だったんだよ」
会がにわかにざわついた。どう取り繕っても言い訳できない、完全なる掟破りだ。
「すると何か、元締め。我々の中に裏切り者がいて──依頼の横取りをしている者がいると」
上座であるリリアの左側すぐにかけていた、騎士崩れのような剣士が静かにそう結論づけた。
「そのとおりだ。そこで、しばらく会を中断したい。ブン屋を筆頭に徹底的な調査をするつもりだ。みんなには迷惑をかけるが、ここはこの会の世話役のあたしの顔を立てて堪えてもらいたい」
「おう、何を言いなさるんでぇ元締め。この会は、恐れ多くも独眼のリリアに世話役を引き受けてもらってるんで成り立ってんだ。会員の俺たちに文句なんぞあるもんかい。なあ、みんな!」
エルがそう啖呵を切るのへ、その場の会員達はそうだ、と同意の声をあげた。
事実、リリアのお陰で会はうまく回り、会員達は食いはぐれることもなく活動していけるのだ。そこを非難しようと言うものなど誰もいない。
テーブルの真ん中に陣取る男──仕立屋のカリスと名乗っている──以外は。
「何。もう会は勘付いたと?」
カリスは会の終わったその足で、小さな喫茶店へと足を運んだ。
帝国は基本的に南部にある大港にある交易所以外で海外交易を行っておらず、その規模も小さめである。
その中でも大半を占めているのが、紅茶やコーヒー豆といった嗜好品である。帝国で作るには気候が違いすぎ、交易するにしても依存したくないというのが、それらを主だった交易品として選んだ理由である、とされている。
よって、帝都イヴァンでは喫茶店というのは、まだまだ富裕層のためのサロンのような扱いだ。
芳しいコーヒーのかおりを嗅ぎながら、カリスとその雇い主──交易品を中心に事業を展開する食品問屋、トナミ屋は眉根を寄せていた。
「本当に大丈夫なのでしょうな。カリス殿、あんたを雇ったのは、会に金を余計に取られずに、安全に敵を消せるからですよ」
「わかってますよ。……しかし妙な事が続いてましてね。俺以外に、俺と同じ殺し方をする人間がいるようなんです」
カリスは腕のいい仕立て屋として、裏に回れば断罪人として生計を立ててきた。
仕立て用の糸を使った殺しは、実を言えばかなり一般的な殺し方である。軽く丈夫で、持ち運びや隠匿にも優れているからだ。カリスも、殺し技の師匠とでも言うべき人物について、その技術を学んだ。
だから、特別驚きはしない。別の断罪人の仕業ということもあろう。
しかし、よりにもよってこのタイミングはまずい。
彼の企みは簡単だ。トナミ屋に取り入り、その専属の断罪人として力をつけ、いずれはあのリリアのような世話役として会を動かそうと考えている。
殺しは金になる。
当たり前だが、誰かのために敵を消すのは、想像以上の金を生む。敵を消せば、味方の力は増すからだ。
トナミ屋も、そうした効果と会というリスクを理解した上で、カリスの企みに乗った。
だからこそ、まずいことになった──コーヒーの薫りが今はうっとおしい。
「申し訳ありませんがね、旦那。俺もしばらくは身を隠しながら──その『掟破り』を探してみようと思うんですよ」
「そりゃ、なぜだい」
「考えてもみてくださいよ。俺と同じことをしてるってんなら、そいつはほとんど俺と同じだってことです。会がそいつを裏切り者だと思ってくれれば、時間が稼げる。うまく行きゃ、会も出し抜けるかもしれねえ」
トナミ屋はコーヒーカップを持ち上げて口に運び、静かに笑った。
「なるほどね……あたしが迷惑被らなくて済むわけだ。やって見る価値はあるね」
カリスはコーヒーを飲み干し、注文表をトナミ屋に差し出して席を立った。
「旦那にゃ、迷惑はかけませんよ。……お足以外はね」
ドモンは朝から憂鬱だった。
まず、妹の叱責から始まった。ドモンの妹セリカは、通っている帝国魔術師学校の卒業を控えており、その卒業論文にとりかかっている。その出来は、彼女が進路として希望している講師の雇用の可否に直結する。
うまく行かなければなにもかも無駄になる。それは彼女に重責を強いることになり──ドモンに対し苛つきとして表出するのだ。
「お兄様。……先日、ご近所のタルガ様の奥方から伺いましたが──捕縛術の研修、あまり芳しくなかったとか」
「……朝からやなこと聞きますね、君は」
セリカはパンをちぎりながら──その手は過剰に力がこもっているように感じる──兄に目を合わせてしっかりと言った。
ドモンとは対象的な眼力の強さ、そして同じ血を感じさせる黒いくせっ毛の少女である。
まだ二十歳になったばかりであるが、これまたドモンとは対象的に生真面目なしっかりものと評判だ。大抵それは、不甲斐ない兄への叱責に使われるのであるが──。
「私もお兄様の稼ぎに頼っている身。つまりはお兄様にしっかりして頂かないと、私は破滅です。おわかりですね」
「わかってますよ。実家は僕らのこと完全に見捨ててますからね」
「ならば、研修からしっかり真面目にしてくださいまし! せっかく憲兵団に任官できたのですから、クビにならないように頑張るのが筋というものでございましょう!」
正論、とにかく正論である。
セリカはそう言いのけることが許されるだけのまじめさと結果を常に出している女だ。
実家の反対を押し切り、一人帝都で生活を初め、名門である帝都魔術師学校に入学するなど、肝も座っている。
ドモンがそんな彼女の下に行ったのは、二年前の内戦がきっかけである。
悪化する国内情勢と治安に加え、騎士団や遊撃隊(帝都外の広域的な治安維持を担当する部隊)まで駆り出しても人が足りない。憲兵団は由々しき自体にお恐れながらと行政府に訴え出て、貴族の次男次女以下であれば家柄を問わず任官を許可するという触れ書きを出したのだった。
問題はその方法である。なにせ帝国は予期せぬ内戦と、国父たるアケガワケイは政治オンチのまま姿を消したせいで、内部はガタついていた。戸籍は宛にならないし、自称貴族が本物かどうかなど誰も判別できない。
幸い、事実上帝国を継いだ総代アルメイは、治安維持の重要度をよく理解していたので、憲兵官吏の新規任官については滞りなく許可が降りた。彼女は触れ書きに一文追加することで、無用な混乱を軽減することに成功したのだ。
即ち、二名以上の確たる身分保証ができぬものは例え帝国貴族筆頭六家であろうと任官させない、と記載したのだ。
ドモンはそこでようやく、実家を飛び出してから──尤も彼も勘当同然で実家を叩き出されたのだが──一度も会っていない妹のことを思い出したのだ。
セリカは特に拒絶はしなかったが、久々に会った兄にも毅然とした態度でこう言い放った。
「兄妹ですので、助け合うのは当然でございましょう。もちろんその身分保証、お受けします。ただし、私も条件があります。幸い食べるのは困っておりませんが、内戦の影響から学費が上がってしまいました。このままでは色街に身を沈めるのも時間の問題です。お兄様、助け合うのは兄妹ならば、当然でございましょう?」
思った以上に、内戦は早く終わってしまった。ドモンのような剣士が戦で身を立てる機会など、二度と訪れまい。それに、セリカは笑えぬ冗談を言う人間ではない。本当に困っているのだろう。兄はにべもなくその申し出を受け、生活費を出す代わりに憲兵団の官舎である屋敷に妹と引っ越すことになった。
そして、武者修行の最中に仲良くなったサイという剣士──帝都内の剣術道場で評判の男であった──の叔母が、騎士団の内勤をしているというので口利きと身分保証をしてもらい、ようやくドモンは職を得ることができたのである。
「とにかく。お兄様も私も、安泰とは程遠い身。いつでも気を引き締めねばならないのです。お分かりですね」
「わかりましたから、朝からそう言わないでくださいよ……」