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「マスター?」

「何?」

 私は、オーダーのブレンドを差し出したアルの顔を見て眉をひそめた。


 店内には、今日はバロックが小さく流れている。きれいな旋律のリコーダーは、なんとなく物悲しいメロディー。お客さんのひそやかなざわめきと、微かな食器の触れ合う音。

 金曜の夜の『リースリーナ』は、それなりにお客さんが入っていた。


「顔色、悪くない?」

「別に」

「具合悪いなら、少し休んで……」

「何ともない。ほら、早く持って行け」

 もともとアルは色が白いけど、それにしたって今のアルはいい顔色とは言えなかった。さっきバイト来た時には気づかなかった。いつの間にこんな顔色になってたんだろう。

 気になりつつもブレンドを出して戻ってくると、早紀がこっそりと聞いた。


「奏子、最近、マスターとけんかとかした?」

「けんかなんて……してないよ。なんで?」

「そう? なんか、見ててそんな感じだったから」

 早紀に言われて、小さくため息をつく。

 やっぱり、わかっちゃうよね。

 あのデートから一週間。私は、アルとまともに話せないでいた。その雰囲気を察しているのか、アルの私に対する態度もどこかよそよそしい。


 あの疑問、からだ。

 リシィの記憶が戻ったとして……私、が、どうなるのか。

 今のところ、明確な答えはもらえていない。けれど、今のアルの態度は、どうしても悪い想像へと結びついてしまう。

 自分が水の精だったということを思い出すだけならいい。けど、もし『乃木奏子』の記憶が『リシィ』の記憶に上書きされてしまうとしたら……そんなことアルが私に言えるわけがない。それを告げて、私が思い出したくない、と言い出すのを、アルはきっと恐れている。

 アルのために思い出したいと思ったのは本当。でも……


 そんなことを考えていたら、からん、とお客さんが入ってきた。

「いらっしゃいませ……あ」

「よ」

 手をあげたのは、野宮君だった。私服でいるところを見ると、一度家に帰ってからきたらしい。もうバイトも終わる時間。こんな遅くに、どうしたんだろう。 

 あいかわらず学校ではろくに顔もあわせないままだから、ちょっと気まずい。


「早紀、行ってくれる?」

 私は、ひそひそと隣の早紀に耳打ちした。

「奏子がいけばいいのに」

「いや、私、ちょっと……」

「野宮君だって、きっとその方が嬉しいと思うよ」

 そういって意味ありげに微笑む早紀の顔を見返す。

「……早紀……?」

「見ててわかるわよ。野宮君の気持ちが、とっくに私にないなんて」

「嘘……!」

「奏子だって、気付いてたから、ここのとこ野宮君とぎくしゃくしてたんじゃないの? てっきり野宮君に告白でもされたかと思ってた」

「ないないない! そんなことあったら、真っ先に早紀に言うよ」

 私の言葉に、にっこりと早紀が微笑む。

「ありがと。それはともかくとして、とりあえず、奏子、行ってらっしゃいな」

 そう言って、トレーとメニューを渡される。

「でも」

「ほら。ごちゃごちゃ言ってると、またマスターにどやされるわよ?」

 は、としてアルを見ると、何か手元に集中しているらしく下を向いていた。

 そうだ。あくまで野宮君は、ここではお客様。いつまでもほっといたら、アルに何を言われるか。

 私はグラスをトレーに乗せて、ゆっくりと野宮君に近づく。


「いらっしゃいませ」

 野宮君は、だまって私がグラスを置くのを見ていた。


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