第五話 要請
着信音が鳴った。
雑踏の中でも埋もれない音だった。
人の声。車の走行音。信号待ちのざわめき。
その全部を押し退けるように、硬質な電子音だけが耳へ届く。
茂は足を止めない。
歩幅も速度も変わらない。
ただ、ポケットの振動に合わせて視線だけが落ちる。
スマホを取り出す。
【K市害獣警報センター】
小さく、ほとんど呼吸の揺れに等しい吐息が漏れた。
拒否でも嫌悪でもない。理解が体に落ちた瞬間の反応。
「はい」
声帯は何の感情も帯びない。
『K市害獣警報センターです』
「どうも」
歩行は続く。前方の人影、交差点、距離、速度。意識の半分は依然として状況確認に割かれている。
『少し、相談なんですが』
――またか。
制度的には曖昧な言い回し。
だが、この電話では何度も聞いた種類の言葉だった。
正式要請ではない。
拒否もできる形。
責任の置き場だけを、ぼかす呼び方。
意味は最初から決まっている。
――面倒な案件。
茂は反応しない。
驚きも、確認もない。ただ、相手の続きを待つ。
この導入で話が軽くなることはない。
それも、もう知っている。
『中型が出ています』
予想の範囲内。
驚きは発生しない。
『場所が……少し厄介で』
言葉の間。僅かな濁り。
状況の性質を先に物語っている。
「……屋内ですか」
感想ではない。
条件の確定。
『はい』
即答。
『保育園です。現在、登録側も動いていますが……』
再び間が入る。
『火器の運用が難しい環境で』
人の視線が密集し、射線の安全は保証できない。
誤射のリスク。跳弾。二次被害。
火器を出した瞬間、状況は悪化する。
『状況次第では、近接対応が必要になる可能性が高いと判断しています』
判断主体はセンターではない。現場の空気だ。
そしてその言葉の裏にある意味もまた明確だった。
――お前向きの案件だ。
『出動、お願いできますか』
依頼口調。
だが、断ることもできる。
ただ、その前提で掛けてきた電話ではない。
茂の思考はすでに計算領域へ移行している。
頭の中で数字が並ぶ。
混戦確率。
補正凍結率。
負傷時の期待損失。
回収控除。時間コスト。
それらを差し引いた先に、成功時のリターンだけが残る。
「現場見て決めます」
反射的に出る定型返答。
感情の介在なし。
『……助かります』
ほんの僅かに混じる安堵。
本来、この電話には出ない種類のもの。
「はい」
スマホをポケットへ戻し、歩く。速度は変わらない。
頭の奥に残るのは、感情ではない。
ただ一つの認識だけ。
――稼げる現場なら受ける。
センターからの通話が終わってから、数分後だった。
端末が静かに震えた。
今度は音付きの通知、個別連絡の現場情報メール
茂は歩みを止め、画面を開いた。
着信履歴の余韻はまだ指先に残っている。
表示されるのは追加情報だけだ。
案件番号。
位置情報。
補足条件。
視線が流れ、一度息を吸う。
驚きではなく、計算の更新だった。
進行方向を変えるが、急がない。
急いだところで、この種の現場は決して楽にならない。
それを、これまでの現場で嫌というほど理解していた。
最後の交差点を曲がった瞬間だった。
視界の奥で光が滲む。
赤色灯。
青色灯。
規則的な点滅が朝の光景に不自然な色彩を重ねている。
距離が縮まるにつれて、異様さの正体が明確になる。
数が多すぎた。
保育園は、すでに完全に囲まれていた。
警察車両。
救急車。
消防。
それぞれが整然と配置されている、だがその秩序自体が異様だった。
そして外周。
猟友会。
橙色のベスト。
迷彩のジャケット。
銃を携えた人間たちが静かに展開している。
それでも——誰一人として銃口を建物へ向けてはいなかった。
規制線は二重。
近隣住民は規制線の外に押し出され、ざわめきが続いている。
騒ぎはない。
悲鳴も、怒号もない。
無線が鳴る。
「接触なし」
「視認不可」
「内部動静不明」
慌てる者も、突入も、発砲もない。
それだけで状況は理解できる。
――撃てない現場。
保育園の建物は、異様な静けさに包まれていた。
生命の気配は感じられる。
だが、動きはない。静けさだけが場を支配していた。
誰も建物を正面から見ようとはしなかった。
視線ではなく、耳で状況を拾っている。
無線が鳴る。
短く。
乾いた音。
「内部で物音」
その瞬間、空気が確かに変わった。
誰も応じない、声を返す者はいなかった。
直後、建物の奥で、音が弾けた。
重い衝突。
遅れて何かが崩れる気配、硬質な破砕音が短く連なる。
誰かが息を止めた。
視線が一斉に建物へ吸い寄せられる。
悲鳴ではない。
叫びでもない。
短い音。
潰れたような音。
そして――音が消える。
静寂。
無線が鳴る。
「内部、音途絶」
誰も建物へ近づかない。
誰も動かなかった。
動けなかった。
空気だけが、確かに変質していた。
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