燕樹の力を。
生暖かい風が、腐敗臭を、運んできた。贓物の匂いだろうか・・。酸味が、きつく、鼻をつく。これは、血だ・・。鉄臭い。しかも、今、生きているであろう人間の血液。吹き上がる血液が、叫び声と共に、あがっていった。
「何であれ・・。」
驚きもしない。冷静だ。いつも。生きている気がしない。現実に起きている実感が、しないのである。いつも、心あらずの、日々なのだ。自分が、誰で、どういう人間なのか、わからない。いつも、自分を探している。樹朗汰と、いると、心が、和む。人として、生きていけるような気さえする。そう、思う事自体、もう、自分は、この世に、生を受けた生き物ではなかったのか・・。
「うぅ・・。」
背丈ほどの、草むらから、姿をみせたのは、黒々とした剛毛に覆われた化け物であった。背は、ひしゃげて曲がり、突き出た両腕からは、長い爪が伸びていた。ほんの少し、顔をのぞかせた月が、暴いたその姿は、見るものを、ぞっと、させた。ネズミの化け物である。長い毛は、何かに濡れそぼっていた。毛先から、幾筋もの、液体が、ぬらぬらと、おちていた。血走った両目からは、理性という文字は、見当たらなかった。
「ふぅ・・。」
それは、息を吐いた。長く、細く、生臭い息を・・。紅く裂けた口からは、先ほどの、獲物の贓物が、垂れ下がっていた。とすると、滴りおちているのは、獲物となった血液か・・。
「!」
危うく、吐きそうになった。大抵の、ビジュアルには、馴れているが、どうも、臭いだけは、苦手だった。
「おぇ・・。」
紗妃は、両手で、顔を覆った。隙をつく形で、巨大なネズミの、化け物の、鋭い爪が、紗妃に、向けられた。
「危ない」
すんでの所で、血しぶきが、あがった。
「燕樹」
燕樹だった。水分を、含んだ鈍い音をたてて、ネズミ?は、地面に、転がり落ちていった。
「油断しましたね。」
それみたことかと、燕樹は、笑みを浮かべていた。
「私一人でも、大丈夫だった。」
「でしょうか・・。」
「大丈夫」
紗妃は、ムキになっていた。自分の力で、何とかし、燕樹に、貸しは、作りたくなかった。特に、樹朗汰に、関する事では、そうだ。
「さて・・。」
燕樹は、背中から、何やら、取り出して見せた。それは、身の丈ほども、ある長い刀であった。
「先ほどは、必要なかったのですが・・。」
月明かりに、照らし出された燕樹の、両手は、黒々と、光っていた。グローブをしているのではない。燕樹の、変化した両手は、黒い鱗に覆われており、間から、冷たい光を、放つ爪が、伸びていた。その爪先から、先ほどの、獲物の血液が、流れ落ちていた。
「これは、必要でしょう」
地面に落ちていた屍に、刀を、突き刺した。
「さて・・。程なく、あなた様の、愛おしい方が、ここに着くでしょう・・。後は、役人を、呼ぶことにして・・。」
振り返ると、また、紗妃が、鼻を覆っていた。
「もう、いい加減にしてください」
「だって、本当。臭いだけは、ダメ」
燕樹は、笑いながら、紗妃の、背を押すのだった。血塗られた草むらには、細い月明かりだけが、残っていた。