71 氷海で唄ったオルニス 65『深紅のドラコーン』
「ヒュプノスプロートン!」
(眠れ! 眠れ!!)
アシェルは、心の中で叫んでいた。
なんせ、サファイア相手だ。もしかしたら、効かない可能性だってある。
突然、顔を覆われたサファイアは、アシェルの手を掴んでいた。
その手が、力を無くし、だらりとすると同時に、サファイアの身体も崩れ出す。
アシェルが、サファイアを受け止めると、エリュシオンは、止まっていた息を、ようやく吐き出した。
「アシェル……助かった」
腕に抱えたサファイアの顔に、アシェルが顔を近づけ、魔力を注ぎ込んでいる。
「…………」
エリュシオンは、目を逸らして、それが終わるのを待っていた。
「エリュシオン、終わったぞ」
「早くしなくちゃ……! サファイアが眠ったことで、強化の効果が切れる」
アシェルから、サファイアを受け取って、2人とも急いで、飛びあがった。
ちょうどその時。
イポヴリキオンテラスが氷に体当たりする。
今まで耐えていた氷が加護をなくし、ヒビが入りはじめ、それは、あっという間に広がった。
「お前ら! 早く逃げろ! ここはもうダメだ!」
追いついたアレクシスが、声を張り上げていた。
低いような、高いような、大気が震える咆哮があがり、カリスティオクリュシュタは完全に崩壊し始めた。
蒼い海を思わせる、鈍い光を携えた鱗に、長くて巨大な身体。
不気味な赤い目は、真っ直ぐエリュシオンの方を向いている。
エリュシオンは嫌な予感がした。
「行くぞ!」
飛んでいくアシェルのすぐ後ろに、エリュシオンもついていった。
崩れた氷が、海に浮かぶ。
大きな水音をたてて、イポヴリキオンテラスが長い尾を打ちつけた。
「うわっ! あぶねえなぁ!」
大きな氷が、アシェル達めがけて飛んでくる。
そこを、アレクシスが奇矯の力ではね返していた。
「急げ!」
アシェル達が逃げると、イポヴリキオンテラスも追ってきていた。
「頑張れ、岸までだ」
アレクシスがそう言った時だった。
「エリュシオン!! どうした?! 何してるんだ?!」
突然沖に向かって、方向を変えたエリュシオンに2人が立ち止まった。
思った通りだ。
エリュシオンの口が動く。
「…………」
「なんだ、あいつは?!」
連れ戻そうとしていたアレクシスを、アシェルが止めた。
「標的にされてるって」
「標的って、エリュシオンが、か?」
「いや、恐らく、サファイアだろう」
さっきのあの状態じゃ、敵と認識されてもおかしくはない。
「多分、このまま岸に向かえば、イポヴリキオンテラスが、津波ごと、タラッサを飲み込む」
「人の避難が進むまで囮になるって言うのか?! バカな!」
アレクシスが膝に拳を打ち付けて怒鳴った。
「なるほど。だが、ヤツがこっちまで来ようが来まいが、被害はさして変わらん」
2人が振り向くと、その人物を見て目を見開く。
真っ赤な鎧、真っ赤な長い髪。
人目を引く、竜に跨り、長い槍を担いで、アサナシアが、怖気付いている様子もなく、腕を組口許に勇ましい笑顔を、浮かべていた。
夕陽にあてられ、いっそう紅く燃えている、武将の姿。
『深紅のドラコーン』
かつて、戦場を駆け抜け、制してきた彼女を人々は、そう、呼んでいた。
「まさか、拝めるとはな」
アレクシスは眉を上げた。
「余計なことを言っている暇はないぞ? もうすぐ、唄が来る。チャンスはその時だ。王子らも、民の避難に手を貸せ」
「ですが! エリュシオン達が!」
「心配はいらん。時間くらいつくってやる」
(そうか!)
アサナシアに手を差し出し、アシェルが言葉を託す。
「そのまま、研究所に行けと伝えてください」
「心得た!」
燃えるような顔で笑い、アサナシアがアシェルの手を叩いた。
「まず、挨拶でもするか」
「お待ちください! 唄がまた聴こえてません!」
「あぁん? お前は細かいこと気にするな。どうせ、1発2発かましているうちに、届くだろう?」
後ろに控える騎士たちが、慌てて、暴れたそうなアサナシアを止めている。
その様子をアシェル達は苦笑いして見ていた。
「早く行け! 次の津波が来たら氷の壁は崩れる」
アサナシアは、サファイアが凍らせた津波だったものを指さした。
「頼みます!」
アシェル達が急いで岸に向かって飛んでいった。
その途中で、向かい風のように唄が飛んできた。
「この声は!」
「……あぁ、父上だ」
氷の城の展望台には、唄っているアンセル王の姿が見えた。
「こんな、唄は初めてだ……」
アシェルは呟いた。
猛烈な怒りを感じ、鳥肌がたった。
けたたましく、轟音が鳴り、氷の破片が飛んでくる。
後ろを見ると、アサナシアが騎士達を引き連れて、唄で怯み始めたイポヴリキオンテラスに、1発浴びせていた。
「早く行こう!」
すくみそうになる気持ちと闘いながら、ようやく岸まで辿り着く。
ここまで来ると、唄の効果はだいぶ弱くなっている。
だが、それでも恐怖で足を止めている人が見えた。
通信機に魔力を通す。
『岸側に、唄で足がすくんでる人が何人もいる。来てくれ!』
『了解しました』
とにかく、1人ずつでも助けていくしかない。
アシェルは、一番最初に目についた、うずくまっている少年を白虎に乗せた。
「母が! 母とはぐれて!」
少年は、真っ青な顔でアシェルの腕を掴んだ。
「今は! 逃げることが先決だ! 後で探すしかない!」
少年を安全なところまで連れて行くと、もう一度戻って、同じことを繰り返す。
他の騎士たちも頑張ってくれているようだ。
「アシェル! サファイア様たちは?!」
居ても立っても居られない、ジュディが我慢できず、アシェルのところまで来た。
「あいつらは、あの怪物に目をつけられていて、岸に来れない」
「そんな! 置いてきたのですか?」
「違う、あそこから直接、研究所に行くよう指示を出した。時間は、オピオネウス国王が作ってくれる」
それを聞いたジュディは、息を吐き出して、気持ちを改めたように、胸に手をおいた。
「それなら、安心して救助に専念できます」
残すように言って、ジュディはすぐさま、避難活動に戻って行った。
※
とにかく、チャンスを伺うしかない。
エリュシオンが、眠ったサファイアを抱えて、ジリジリと睨む、イポヴリキオンテラスの動きを探っていた。
その時。
(唄?)
一瞬目を離した隙に、轟音がなり、氷の破片が飛んで来た。
この状況に、似つかわしくない、豪快な笑い声が聞こえる。
「あははは! 見てみろ! あいつ全く無傷だぞ!」
「アサナシア陛下!」
「王子に、伝言を頼まれているぞ。『そのまま、研究所に行け』だそうだ」
転移魔術を使う時には、10拍ほどの時間が必要になる。
「時間を作ってやる。的は、私が引き受けようぞ!」
「助かります」
「しかし、本当に高性能な娘だな。眠ってても魔石が身を守る、か」
サファイアの魔石から出された結界は、ケリュネイアごと包み、唄の影響を受けずに済んでいた。
エリュシオンが転移陣を描き始める。
それにれ気づいた、イポヴリキオンテラスが口を開け、冷たい息を吐き出した。
そこを、アサナシアが立ちはたがり、障壁を展開する。
周りにいる騎士も一斉に障壁を唱え、それは何重にも重なった。
「早くしろ! 長くは持たない」
それでも、障壁は、怪物の吐き出した息の猛威で、拍をおき、少しずつ壊れていった。
1.2.3.4.5…………
早く!
かつて、こんなに、急いで描いたことがあっただろうかと自分でも思うほど、早く、的確に、エリュシオンが転移陣を作り上げた。
「さすが『コイオス』だな」
「ありがとうございます。御恩はいずれ」
「いいから行け!」
最後にエリュシオンが頷き、紫色の転移陣にら吸い込まれていった。
消えていった2人を見て、アサナシアがニヤリと笑った。
「それでは、暴れさせてもらおうか! お前ら、しっかり避けるのだぞ? あははは」
槍を高々と掲げ、ばっさり、と障壁ごとイポヴリキオンテラスの攻撃をぶった斬った。
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