8
蔓がうねうねと揺らいでいる。
その動きに合わせて聞こえてくるのは、嗚咽である。
泣き出してしまった靫に、蜜蜂は優しく問いかける。
「どうしてそう思うの?」
すると、靫は少しだけ顔を上げてくれた。
「だって、わたし、余所者の血筋だもの」
かすれた声で彼女は答える。
「その子だってそうよ。人間に持て囃される種族だとしても、月の森に棲んでいい者ではない。お会いしてくださったとしても、月の女神さまこそ、わたし達を厳しく罰するはず。ひょっとしたら、とても辛い判断をなさるかも。わたしの存在も否定なさるかも。だから、女神さまは頼らずに、その子は蛹のうちに、苦しまないうちに、殺してしまう方が楽だと思ったの――だから」
靫が不安に思う理由を私は静かに考えた。
それだけ、余所者の血筋であることは苦しかったのだろうか。
彼女には怯えのようなものも感じられた。
私には彼女の過去は分からない。
それでも、察することはできた。
絶対的強者のはずの彼女は、怯えているのだ。
間違いない。
そんな靫に蜜蜂は強い口調で語り掛けた。
「そんなの、可能性に過ぎないことだ」
まなざしはとても厳しい。
だが、声には優しさも含まれている。
「君の抱く不安だけが世界の全てではないよ。女神さまのご判断は確かに分からない。でも、君が私たちの味方でいてくれるのなら、私は君の味方にもなれる」
「――味方?」
真っ赤な目をこちらに向けて、靫が首をかしげる。
そんな彼女を見て、蜜蜂はようや姫蜂を解放してみせた。
だが、凶器の恐怖から解き放たれた姫蜂もまたその場に留まり、不思議そうに蜜蜂を見つめている。
「女神の判断を恐れないでほしいんだ。試さなければ結論なんて分からない。試す前から恐れていてはダメだ。どんな結果になろうと、私は変わらず君の存在を否定しない。だから、この子の存在も否定しないでほしいんだ」
強い言葉に靫も姫蜂も困惑する。
「私からもお願いします」
私もまた、蜜蜂に続いた。
「女神さまがどうご判断されようと、私はあなたのことを要らないなんて思いません。庇うことだってできるわ。だから、お願い。この子の存在をお許しください」
真面目な訴えに、靫は考え込む。
姫蜂は静かに小さな主人の様子を眺めている。
いや、見守っているといった方が正しい。
私もまた、小さな魔女の思考を見守った。
彼女の頭にはどんな未来が予想されているのだろう。
この森の未来を考えるほどの素晴らしい頭脳があるのならば、この蛹の中の子が羽ばたいても構わない方法を思いついてはくれないだろうか。
蜜を産むことしかできない私には、せいぜいこの子を狭い家の中で養うことしかできないだろう。
中にいるのは男の子か、女の子か。
無事に羽化したあとで、中の子が幸せに暮らせる方法を探すにはどうするべきか。
もともとは逃がすつもりだったが、それがいけないというのならば、この子が未来を手に入れる方法をぜひとも知りたかった。
そんな思いが届いたのだろうか。
靫はやがて思考をやめ、私と蛹をじっと見つめてきた。
赤い目にはもう敵意などは映らない。
落ち着いて視線を返すと、靫はふうと息を吐いた。
「……分かりました」
靫は力なく言った。
「そのひとを盾にされて、少しだけあなた達の気持ちが分かった気がします。あなた達がそれほどまでにその子を生かしたいのなら、今のわたしはもう邪魔ができません」
赤い目がこちらに向く。
その視線を受けて、姫蜂がそっと立ち上がり、靫の傍へと歩んでいった。
不安そうに震え、それでも気高く応答する小さな魔女を、姫蜂はぎゅっと抱きしめた。
温かそうなその感触にさりげなく身を寄せて、靫は私たちに向かって言った。
「その子が羽化するまで、考え直してみます。今後、いずれの種族にせよ、人間の世界の血統が迷い込んだときはどうするべきか。月の女神さまにも勇気を出してお話をしてみましょう。森の未来のために。私の味方になってくださるというあなた達のために。……そして、わたしやその子のような、血統に生まれた者のために」
靫がそう言って指を鳴らすと、音を立てて屋敷の扉が勝手に開いた。
外への出口が急に現れ、少々戸惑う私たちに、靫は涙の乾かぬ顔で笑いかけた。
「もう行ってください。お騒がせして申し訳ありません。心配せずとも、召使の揺りかご候補も、別の蛹を探します。弱肉強食こそ我が森の掟。……それでも、あなた達の蛹はもう襲いません。あなた達がわたしの味方になってくださるのなら、約束いたします」
では、もう戦わなくていいのだ。
そう思った瞬間、体の力がすとんと抜けてしまった。
蜜蜂と二人でどうにか立ち上がると、あまりにも安心して気が抜けてしまいそうだった。
これから先、靫との約束を果たすうえで、もっと恐ろしいこともあるだろう。
大事に抱える〈縹〉の羽化後も、気の抜けぬ毎日を送ることになるかもしれない。
これまで以上に、私も賢くならねばならないだろうと思う。
しかし、もらったチャンスに辟易するなんてことは絶対にない。
挑めるということこそ、贅沢なものだった。
「感謝する。約束だ。……ふたりでまた会いにくるよ、靫」
蜜蜂は短くそう言うと、私の腕を引っ張った。
蛹を落とさないように気を付けながら、私もそれに従った。
靫も姫蜂も、もう私たちを邪魔をしてこない。
ただ二人で私たちを見送るだけだった。
そうして屋敷の外の土を踏んだ時、私は改めて空の下に蜜蜂と蛹とさんにんで出てくることののできた喜びを感じたのだった。
抱えているこの蛹は、もはやただの宝物ではない。
明日も、明後日も、明々後日も、その先も、私は蛹に話しかけ続けるだろう。
未来を信じて眠り続ける〈縹〉の蛹。
羽化して現れるのは、どんな胡蝶だろう。
その姿を見ることは楽しみだ。
希望あふれる未来のために、私が出来ることは何だろう。
蜜蜂と一緒に帰りながら、屋敷が遠ざかるのを感じながら、私は何度も考えた。
そうしているうちに、いつの間にか家に着いたのだった。
こうして、私たちは何気ない日常に戻ることができた。
捕食者に襲われず、枯らされず、食われず、ただ死に向かってのびのびと小さな幸せを積み重ねていける世界に戻ってきた。
我が家の中に蜜蜂と入り、いつもの場所に蛹を寝かせ、ようやく心から落ち着けた。
「さて、これからが大変だね」
共に寝そべりながら、蜜蜂は言った。
「約束した以上、真面目に考えなきゃいけない。〈縹〉が羽化するまでに、環境を整えないと。私もどうにかこの立場を利用して、女王陛下のお力添えいただけないか訊いてみる。まずは月の城の訪問まで、靫たちと共に頑張らなくては。……明日からは忙しくなりそうだ」
手を繋がれ、私も繋ぎ返す。
「そうね……それでも……なんだか希望ある方法が見えてきそう。あなたのお陰よ。ありがとう」
「当然のことさ。いつも美味しい蜜をもらっているお礼だ。君が望んでいるのなら、私はずっと傍にいるつもりだ。……それに」
「それに?」
訊ね返した瞬間、蜜蜂は急に私の体に覆いかぶさってきた。
まずは唇を重ね、そのまま深く、深く、重なっていく。
圧迫感と共に、奇妙なまでの安心感を覚えていると、蜜蜂は唇を離して答えてくれた。
「ここで恩を売った方が、君をもっともっと好きにできるでしょう?」
揶揄うように怪しく笑うその顔は、不気味さと共にぞくぞくとした魅力を感じてしまう。
常に一緒にいられるわけではない関係だけど、だからこそ私はこのひとが好きだ。
たまたま心を奪われ、拾うこととなった蛹は、どうやらこのひとと私を強く結び付けてくれたようだ。
時が経てば、私の一番の宝物は割れて台無しになる。
しかし、その中から胡蝶が出てくるさまを、ぜひともこのひとと一緒に見たい。
愛しい恋人の温もりを味わいながら、私は彼女に囁いた。
「じゃあ、好きにしてみせて」
我ながら冷やりとする誘惑だったが、蜜蜂は微笑みを浮かべ、私の頬に手を這わせた。
思えば、今日の蜜吸いはまだだった。
これから起こる素敵な時間を思うと、楽しみで仕方がない。
「前に言った羽化した胡蝶との関係だけれど……」
そう言いながら、蜜蜂は行動に移る。
首筋に口づけをされると、体内の蜜が即座に反応する。
思考が滞りそうな中で、私はどうにか話を聞いた。
「いろいろ教えなきゃならないのなら、君との蜜吸いも許可しなくてはね」
「……いいの?」
「いいんだ。若い胡蝶の教育としてならね。ふたりであの子に色々と教えてあげよう。私たちと一緒に住むことになったとしても、人間の世界に帰ることになったとしても、困らないように。……今日は、その予行練習……かな」
その囁きが嬉しくて仕方なかった。
蜜と一緒に幸福感があふれてきそうな中、私は蜜蜂に頷いた。
大切な蛹が見守る中、私と最愛の人の絆は深まっていく。
不思議な色の蛹との日々は、思っている以上に大変なものだろう。
羽化した後もきっと大変だ。
それでも、ともに頑張れる人がいる限り、希望は常に私の傍にいてくれる。
蜜吸いの甘い時間を感じながら、私は未来に思いを寄せた。
縹色の蛹。
その存在は、私の奇妙な物欲を満たしてくれただけではない。
この先も、これからも、私と蜜蜂の関係を深めてくれるに違いない。
そんな期待と明日からの覚悟を胸に、今だけは蜜蜂の甘い口づけの味に酔いしれた。