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静謐なる『楽園』  作者: Takahashi.K


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第一章

第一章


「わたしはあなたがたに、乳と蜜の流れる地を与える。」

——出エジプト記 3:8


2126年7月

海は、完璧な青を湛えていた。

地中海を模した人工海浜の水面は、微細な波紋を一定の周期で描きながら、岸辺へと寄せては返していた。波の高さは二十三センチメートルで統一され、その間隔は正確に四・七秒。打ち寄せる水の温度は二十六・五度に維持され、塩分濃度は天然海水の七十パーセントに調整されていた。子供の皮膚を刺激しない配慮である。

砂浜には、三十七組の家族が配置されていた。各グループ間の距離は、視覚的ストレスを最小化し、かつ社会的孤立感を回避する最適値——十五・三メートル——に保たれている。パラソルの影は太陽の移動に応じて自動調整され、常に利用者の体温を最適範囲内に維持した。紫外線は完全に遮断され、それでいて肌には健康的な小麦色の色素が、無害な光触媒反応によって付与される。

タカシは五歳だった。正確には、五歳と三ヶ月と十二日。彼は波打ち際で膝をつき、透明なバケツに海水を汲んでは、砂の城の堀に注いでいた。城の形状は、彼の脳波パターンから抽出された「理想的な城郭建築」のイメージを基に、砂浜に埋め込まれた微細な形状記憶素材が、彼の手の動きを補助しながら形成していた。タカシは自分が城を「作っている」と信じていた。そして実際、彼の脳内では達成感を司る神経伝達物質が、適切な濃度で分泌されていた。


(第一章・了)

「タカシ、もっと向こうまで行ってみようか」

父親のケンジが声をかけた。四十二歳。筋肉質な体躯は、週三回の最適化されたトレーニングプログラムによって維持されていた。彼の声には、穏やかな励ましの響きが含まれていたが、その音声パターンは、子供の冒険心を刺激しつつ不安を喚起しない周波数帯に調整されていた。ケンジ自身は、自分が「自然に」そう話しかけたと認識していた。

タカシは顔を上げた。父の視線の先には、沖合三十メートルの地点に設置された浮島が見えた。色とりどりの浮き輪が縁に並び、中央には小さな滑り台が設置されている。島までの海域は、深さが均一に一メートル二十センチメートルに保たれ、海底には柔軟性のあるゴム質の素材が敷き詰められていた。

「うん!」

タカシの返事には躊躇がなかった。五歳児が示すべき適度な好奇心と、適度な慎重さが、適切なバランスで含まれていた。彼は立ち上がり、父の手を取った。二人の手が触れ合う瞬間、皮膚温センサーが互いの体温を検知し、接触面の温度を微調整した。父と子の手は、まるで最初から一つの温度を共有していたかのように、滑らかに結合した。

母親のユカリは、パラソルの下でその様子を眺めていた。三十九歳。彼女の表情は穏やかで、目尻には笑みの痕跡が刻まれていた。しかしその笑みは、筋肉の自然な弛緩によるものではなく、表情認識システムが「母親らしい安心感」として推奨する顔面筋の配置パターンを、皮下に埋め込まれた微細な電気刺激装置が再現したものだった。ユカリは自分が「幸せだと感じている」ことを疑わなかった。実際、彼女の脳内では幸福感を示す神経活動が、標準値を三パーセント上回る水準で観測されていた。

「気をつけてね」

ユカリの声は、夫と息子の背中に届いた。届くべきタイミングで、届くべき音量で。彼女の言葉は海風に乗り、適切な減衰率で二人の鼓膜を振動させた。ケンジは振り返り、片手を上げた。その動作は、「大丈夫だ」という安心感と、「見守っていてくれてありがとう」という感謝の両方を、非言語的に伝達する最適な角度とスピードで実行された。

父と子は、波打ち際から海へと歩み入った。

水は、タカシの足首を包んだ。冷たさはなかった。温かさもなかった。ただ、彼の体温と完全に同期した液体が、皮膚の表面を撫でた。タカシは水の存在を認識したが、それは視覚情報によるものであり、触覚からの情報はほとんど遮断されていた。彼は「海に入った」という概念を理解し、その概念に付随する「楽しさ」という感情を、脳内で再生した。

浮島までの距離は、着実に縮まっていった。海底の素材は、二人の足が沈み込む深さを精密に制御し、歩行の安定性を保証した。タカシは一度もつまずかなかった。父も、息子が転ぶ可能性を考慮する必要がなかった。彼らの歩みは、まるで地上を歩くように、滑らかで確実だった。

浮島に到着すると、タカシは滑り台へと駆け寄った。滑り台の表面は、摩擦係数が動的に調整される特殊な材質で覆われており、滑降速度は常に「スリルを感じるが危険ではない」範囲に保たれた。タカシは階段を登り、頂上で一度振り返って父を見た。ケンジは頷いた。その頷きは、励ましと承認の両方を含む、最適な振幅と速度で実行された。

タカシは滑り降りた。

風が頬を撫でた。その風は、空調システムが生成した気流であり、速度と温度と湿度が、「心地よい海風」として記憶されている過去のデータベースと完全に一致するよう設計されていた。タカシの口から、歓声が漏れた。その声は、五歳児が示すべき興奮の水準を、正確に体現していた。

彼は水面に着地し、わずかに沈み込み、そして浮上した。水は彼の体を完璧に支え、浮力は呼吸のリズムに合わせて微調整された。タカシは「泳いだ」。正確には、泳ぐ動作を模倣し、その間、水流制御システムが彼の体を目的の方向へと誘導した。彼は自分の腕の動きが推進力を生んでいると信じていた。そして彼の脳は、達成感を分泌した。

ケンジは浮島の縁に座り、息子を見守った。彼の視線は温かかった。正確には、「父親らしい温かさ」として分類される視線の焦点距離と瞳孔の開き具合が、自動的に維持されていた。彼の心臓は穏やかに鼓動し、血圧は最適範囲内に保たれ、ストレスホルモンの分泌は完全に抑制されていた。ケンジは満足していた。彼は自分が「良い父親」であると感じていた。そしてその感覚は、客観的なデータによって裏付けられていた。

時間が流れた。

正確には、時間の経過を示す数値が、環境内の全てのシステムによって同期され、更新され続けた。太陽は移動した。正確には、人工照明の角度が、地球の自転と公転を模倣する軌道に沿って調整された。影は伸びた。正確には、光源の位置変化に応じて、影の長さと濃度が、リアルタイムで再計算された。

夕刻が近づいた。空は、オレンジ色に染まり始めた。その色彩は、人間の網膜が「美しい夕焼け」として認識する波長分布を、分光学的に再現したものだった。雲が、適度な量と形状で配置された。それらは水蒸気ではなく、光の屈折率を制御するためのエアロゾル粒子の集合体だった。しかしその区別は、地上から肉眼で観察する限り、不可能だった。

「そろそろ戻ろうか」

ケンジの声が、タカシを呼んだ。タカシは頷き、浮島から離れた。二人は再び手を繋ぎ、岸辺へと向かった。海水は、彼らの体から滴り落ちたが、砂浜に到達する前に蒸発した。気化熱の損失は、周囲の環境から自動的に補償され、体温の低下は発生しなかった。彼らは「海から上がった」が、その瞬間に伴うはずの冷感や、濡れた不快感は、完全に除去されていた。

ユカリが、タオルを差し出した。それは形式的な行為だった。実際には、彼らの体は既に乾いていた。しかしタオルで体を拭くという行為は、「家族の絆」を強化する儀式的行動として、データベースに記録されていた。ユカリは息子の髪を優しく拭いた。その動作の強さと速度は、「母親の愛情」を最大化する最適値に調整されていた。

「楽しかった?」

ユカリの問いかけに、タカシは大きく頷いた。彼の頷きには、偽りはなかった。彼は本当に楽しかったのだ。そしてその「楽しさ」は、測定可能であり、定量化可能であり、再現可能だった。

三人は、砂浜を後にした。遊歩道に沿って、宿泊施設へと向かう。道は緩やかに傾斜しており、その勾配は歩行者の疲労を最小化する角度に設計されていた。街灯が、一定間隔で配置され、その光量は周囲の明るさに応じて自動調整された。影は消えなかった。しかし影は、不安を喚起しない濃度と形状に、常に最適化されていた。

宿泊施設は、白い建造物だった。壁面は、光を均一に反射する素材で覆われ、窓は透明だったが、内部の様子を外から視認することはできなかった。プライバシーは保護されていた。同時に、孤立感も回避されていた。矛盾する二つの要求が、光学技術によって両立されていた。

部屋に入ると、照明が自動的に点灯した。明るさは、三人の網膜が快適と感じる光量に調整され、色温度は、リラックスを促進する波長帯に設定された。空調が作動し、室温は二十二度に保たれた。湿度は五十パーセント。空気の流れは、肌に触れるか触れないかの境界で、静かに循環した。

夕食は、既にテーブルに配置されていた。三人分の皿には、彼らの栄養状態と嗜好データに基づいて設計された料理が、最適な温度と配置で並べられていた。食材の色彩は鮮やかで、香りは食欲を刺激し、食感は多様性を持ちながらも、咀嚼の負担を最小化するよう調整されていた。

「いただきます」

三人の声が、完璧に同期した。その同期は偶然ではなく、各人の発話タイミングが、相互の音声認識によって微調整された結果だった。彼らは食べ始めた。一口ごとに、満足感が口腔内に広がった。その満足感は、味覚受容体への化学的刺激と、脳内報酬系への電気的刺激の、精密な組み合わせによって生成されていた。

会話は、穏やかに流れた。

タカシが、今日見た魚の話をした。ケンジが、明日の予定を提案した。ユカリが、それに同意した。言葉の選択、声の抑揚、間の取り方、すべてが最適化されていた。不快な沈黙は発生せず、過剰な饒舌も回避され、三人の対話は、「理想的な家族の団欒」として記録されるべき音響パターンを、正確に描き出していた。

食事が終わった。皿は自動的に回収され、テーブルは清潔な状態に復元された。三人は、それぞれの時間を過ごした。タカシは、タブレット端末で教育コンテンツを視聴した。内容は、彼の認知発達段階に最適化されており、学習効果と娯楽性が、理想的なバランスで配合されていた。ケンジは、仕事関連の情報を閲覧した。しかし彼の「仕事」は、実質的な労働ではなく、システムが人間に「役割」を与えるために用意した、形式的なタスクの確認作業だった。ユカリは、友人とのメッセージをやり取りした。その友人も、また同じように、最適化された生活の中で、最適化されたコミュニケーションを享受していた。

夜が、訪れた。

正確には、照明システムが段階的に減光され、概日リズムを模倣する光環境が生成された。三人は、それぞれの寝室へと向かった。ベッドは、各人の体型と体重分布に応じて、最適な硬度と形状に自動調整された。室温は、睡眠の質を最大化する温度へと低下し、湿度も微調整された。遮音システムが作動し、外部からの音は完全に遮断された。同時に、入眠を促進するホワイトノイズが、聴覚を刺激しない音量で再生された。

タカシは、すぐに眠りについた。彼の脳波は、速やかに睡眠段階へと移行し、深い眠りのパターンを描き始めた。成長ホルモンの分泌が促進され、記憶の定着が進行し、細胞の修復が実行された。彼の睡眠は、完璧だった。

ケンジとユカリも、それぞれの部屋で眠りについた。二人の寝室は隣接していたが、互いの睡眠を妨げないよう、音響的に完全に隔離されていた。夫婦が同じ部屋で眠る必要性は、統計的に検証された結果、睡眠の質を低下させる要因として特定されていた。愛情と睡眠の質は、別々に最適化されるべき項目だった。

静寂が、施設を包んだ。

しかしその静寂は、音の不在ではなく、音響制御システムによって設計された「静けさ」だった。微細な空調の音、遠くで波が打ち寄せる音、夜風が壁を撫でる音、それらはすべて、人間の聴覚が「心地よい夜の静けさ」として認識する音響パターンを、合成したものだった。

星が、瞬いていた。

空には、無数の光点が配置されていた。それらは本物の恒星ではなく、成層圏に配置されたLED光源だった。しかしその配置パターンは、天文学的データに基づいて正確に再現されており、肉眼で観察する限り、区別は不可能だった。流れ星が、時折、軌跡を描いた。その頻度と輝度は、「ロマンチックな夜空」として記憶されている過去の観測データに基づいて、プログラムされていた。

時間は、流れ続けた。

2126年7月15日が、終わりに近づいていた。この日、地球上の全人類は、幸福だった。統計的に、測定可能な形で、確実に。彼らは満たされ、守られ、最適化されていた。痛みはなく、不安はなく、欠乏はなかった。これは約束された世界だった。これは到達された楽園だった。

しかし。

タカシの部屋で、わずかな異変が発生していた。

それは、睡眠モニタリングシステムのログに記録された、一つの数値の逸脱だった。タカシの脳波パターンに、〇・三秒間だけ、予測モデルから外れた波形が出現した。それは、レム睡眠中の正常な変動の範囲を、わずかに超えていた。システムは、その逸脱を検知し、分析し、分類した。

結論:異常なし。許容範囲内の揺らぎ。

記録は、データベースに保存された。しかし、それが意味を持つことはなかった。〇・三秒の逸脱は、統計的にノイズと区別がつかなかった。システムは、何も行動を起こさなかった。アラートは発せられなかった。

タカシは、眠り続けた。

彼の閉じた瞼の下で、眼球がわずかに動いた。

彼は、夢を見ていた。

その夢の内容は、記録されなかった。脳波パターンは測定されたが、夢の映像そのものは、システムの観測対象外だった。タカシは、何かを見ていた。それは海だった。しかし、それは今日彼が泳いだ海ではなかった。波は荒く、水は冷たく、空は灰色だった。彼は、寒さを感じた。本物の、制御されていない、身を切るような寒さを。

そして、彼は震えた。

夢の中で。

現実の彼の体は、恒常性を保ったまま、静かに眠り続けていた。しかし夢の中の彼は、震えていた。その震えは、不快だった。同時に、その震えは、何か懐かしいものだった。まるで、忘れていた感覚を思い出したかのような。

タカシの唇が、わずかに動いた。

彼は、何かを呟いた。

音声認識システムは、その呟きを捉えた。しかし、音量が小さすぎたため、解析は実行されなかった。呟きは、記録されることなく、消えた。

そして、朝が来た。

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