牢の中
冷えた空気が頬を撫でる。鼻から入ってくる空気は冷たさと同時に湿気をおび、どこか土臭い。
ぴちょん、ぴちょん、と水が落ちる音がする。
靄がかかっていた意識が覚醒してくるのと比例して触角も覚醒する。冷たい。頬が冷たいものに押しつけられている。身体を起こそうと手をつくと、じゃりっとした土の感覚がした。石の上に薄く張られた土の感覚である。
一姫はゆっくりと身体を起こし、目を瞬いた。ぼやけていた視界が明確になる。とても見にくいと思ったのは目がくもっていたからだけでなく、辺りが薄暗いからだと気づく。しばらくぼんやりしていると目が慣れて辺りが見えるようになってきた。頭を動かして右から左に景色を見る。
視界が格子に区切られている。床は石が敷き詰められていて、橙色の光にぼうっと照らされている。
「牢屋みたい……」
いつか見た映画のワンシーンのようだった。悪人が捕まって入れられていた牢屋に酷似している。
「牢屋ですよ」
男の声が答えて一姫は飛び上がって驚いた。
「誰!?」
呼びかけると何かを叩く音がした。格子を掴んで音のした方を見てみると、向かいの格子の向こうで男が手を振っていた。
「右近……」
長めの黒髪をした、色白で面長の男である。髪が多少ぼさぼさになっていること以外は儀式の時に見た服装そのまま、汚れてはいるが浅葱色の単衣を着ていた。
「左近もいますよ」
右近が一姫から向かって左を指差す。格子に額をつけて見てみると、格子の間から出た指がパタパタと動いていた。
「離されてしまったんですよね……。隣でも向かいでもないところに入れられてしまいました。おかげで話さないと意思疎通ができません」
「共謀できないようにだろう」
残念そうにわざとらしく肩を下げて言う右近に左近が淡々と答えた。
「二人は話さなくても意思疎通が出来るもんね」
「えぇ。双子ですからね」
ふふんと胸を張って得意そうに笑う右近。三十代後半の男にしてはお茶目だ。その姿が面白くて一姫は微笑んだ。
「右近は相変わらずだね」
実は右近左近のことは一姫も良く知っている。小さい頃はよく足垂の敷地内で遊んでもらっていたほどの仲である。故に一姫にとって、右近と左近は年の離れた兄のような存在だった。親と言うにはまだ彼らは若い。それは右近や左近にとっても同じことだった。一姫は妹同然であった。
一姫の笑顔を見た右近は目いっぱい張った胸をなでおろした。
「それはそうと一姫様。お身体は大丈夫ですか? 此処に運び込まれた時、ぐったりしていたので驚きましたよ」
言われて一姫は体のあちこちを調べてみた。特に怪我もなければ気分がかったり頭が痛かったりなどの症状もない。至って健康体であった。
「大丈夫みたい。でも、どうしてここに入れられたのか分からない……」
記憶を遡ってみる。碧緒の出生の理由を知ってしまい、こんなところにはいられないと碧緒の部屋に行って彼女を連れ出そうとしたところまでは覚えている。
「一姫様を連れてきた者は、碧緒様の部屋で暴れたからだと言っていたが」
「私がたま姉の部屋で暴れた……?」
一姫は眉を寄せ、頭を押さえた。
碧緒が己の出生の理由を知りながら全てを受け入れたことを知ったあの時、頭が怒りや悲しみ、悔しさなど様々な感情で焼かれるように痛かったのを覚えている。
頭の中、感情がぐちゃぐちゃになってどうしようもなくなった。訳が分からなくていっそのこと壊れてしまえと思った。
「もしかして……私の力が……」
暴走したのかもしれない。ぞっと一姫の背に冷たいものが走った。
覚えていない、何も。まだ自分が覚えている範囲で力が暴走してくれた方が良かった。無意識ということは、自分がきづかないうちに大切な人を傷つけ、その果てに殺してしまってもおかしくないということである。それはとてつもなく怖ろしいことだった。
一姫は自分の肩を抱いて震えた。
「たま姉は……たま姉は無事なの?」
右近を見る。
「誰かが怪我をしたということは言っていなかったですが、此処に入れられるだけのことはしてしまったようですよ」
教えてもらっても心は落ち着かなかった。身体が震える。
自分が怖かった。大好きな姉を守ろうと思っていたのに、結局自分のしたことと言えば守るべき相手を危険に晒しただけなのである。しかもそれを覚えていない。
「私……たま姉を助けられないかもしれない……」
初めて一姫は弱気になった。今まで相手がどんなに自分より優れていても、自分を育てた親であろうとも、一姫は碧緒のためを想って突き進んできた。いくつもの規則を破り、友の命さえ危険に晒し、精いっぱい、自分の出来ることをしてきたつもりだった。碧緒のために。
「全部私の自分勝手だ……。そうだよ……たま姉は全部分かっててお父様の言いなりになってた……」
碧緒のために。そう思ってきたことが全て間違っていた。
碧緒が己の出生の理由を知り、それを受け入れ、何の騒動も起こさなかったことを思い出すと今でもふつふつと怒りが沸き、じわじわと悲しみが滲んでくる。どうして碧緒がそんな運命を背負わなければならなかったのだろうと憤りを感じる。
それだけではないのが問題だった。同時に、己の価値も揺らいだのだ。碧緒がいなければ碧緒の運命は己が背負うはずだった。しかし碧緒がいることで一姫にはその価値さえもなく、実の親に『生まれてきたことが間違いだ』とまで言われたのである。
頭の中が真っ白になるほど辛くて悲しかった。絶望とはこういうことかと思った。
「私は私のことしか考えてない。だって……たま姉の生まれた理由を知って、悲しいと思ったけれど、何より悲しかったのは私自身の生まれた理由に気づいてしまったからだった。私はたま姉の代わりでしかなくて、たま姉がいるから私には価値がない……。私には、存在する価値がない……」
声が涙で濡れていく。ずるずると鼻をすする音が響いてくる。
「それが、悲しいの……。たま姉のことよりもずっと……私、最低……」
一姫はずるずるとその場にへたり込んだ。
感情が爆発したのは結局碧緒のことを思ってではなく、己のことを思ってだった。
「全部お父様の言う通り。私は生まれてきたことが間違いで、私は厄介者だから大人しくしてた方がいいんだ……。私のすること全てが間違い……。私は、傷つけることしかできない……」
碧緒の困ったような笑顔や悲しい笑みを思い出す。己の力が暴走して迷惑をかけたことを思い出す。それでもいつも碧緒は己の肩を抱いて慰めてくれた。全てを許し、優しく背を撫でてくれた。それが同時に思い出され、一姫は嗚咽を漏らした。
気づいてしまった。
「あぁ……守られていたのは私の方だ……。この世に生まれた時から、私はたま姉にこの命を守られて……。それだけじゃなく、たま姉はいつも私を許してくれた……その度に私はここにいていいんだって……思ったんだ……。たま姉が私の生きる理由になってくれてたんだ……。その私が、たま姉を守ることなんて出来ない……だってたま姉は守られる人じゃなくて、守る人なんだから……」
悔しい。悲しい。情けない。いろいろな感情が腹の中で渦を巻いている。吐き気さえしてくる。
格子に額をつけ、一姫は泣いた。もう、どうすれば良いか分からなかった。
本当に自分勝手だったと思い知らされた。いらぬお節介だということは分かっているつもりだった。それでも碧緒の純粋な心で思った通りの未来を見てもらいたかったから、碧緒の心の内を探り、本当の気持ちを聞き出そうとした。そうしてその通りになるように力を貸すことができればと思ったのに、自分のしたことと言えば事態を引っ掻き回しただけだ。それも一歩間違えれば碧緒を傷つけていたかもしれなかったのである。
今まで信じてきたものが揺らいでいる。どうしていいのか、分からない。
「一姫様」
それまで黙って一姫の話を聞いていた左近が一姫を呼んだ。
「一姫様は碧緒様を何から守りたいのですか?」
ひっく、ひっく、とひゃっくりが返ってくる。左近はじっと答えが返ってくるまで待った。
「お父様から、っく、たま姉を絡めとろうとする運命、からっ守りたい」
嗚咽を漏らしながら一姫は答えた。
「運命からですか。そんなものから碧緒様は守れませんよ。運命など不可視。人は自分が見えるものからしか守れません。一姫様は碧緒様の運命が見えているのですか?」
一姫は黙った。確かにと思った。
一姫はしばらく考えた。
「……たま姉、は、誰かから言われたことっをすぐ、に、受け入れちゃう。すぐに、従っちゃう。それ、を、変えたい……」
「碧緒様はただ他人に従って動くようなお方なのですか?」
「違う」
すぐに否定した。一姫は今まで碧緒は父の言いなりになっている可哀想な人物だと思っていた。それが間違っていることに気づいた。
今まで一姫は碧緒を誤解していた。碧緒は一姫の中身までしっかり見てくれていたのに、一姫は碧緒の表面しか見ていなかったのである。
「たま姉は……自分で全部考えてる。お父様の言うことや竜臣様の言葉に従おうとしているんじゃなくて、たぶん、たま姉が考えた最善策をとってるんだ……。それはたぶんみんなのため……それからたま姉自身のため。儀式を断れば私が犠牲になることを知ってて受け入れたように……。たま姉はお父様や青梅お姉様のようにある程度先を見通せるんだ……」
いつの間にか涙が引いていた。一姫は己の涙が引いていることに気づいていない。
「それでも尚、一姫様は碧緒様を竜樹様から離そうと、竜臣様から離そうとするのですか?」
反射で口を開きかけて一旦閉じ、しっかり考えてから口を開いた。
「しない」
それから一姫は強張っていた肩を下ろした。
「できない。たま姉は自分の気持ちを意図的に隠すことはあっても、感情がないわけじゃない。だからたま姉がそうしたいと決めたことは、たま姉の気持ちそのものだ。たま姉は竜臣様と結婚したいんだ。その理由は……たぶん話してくれないから分からないけれど、たま姉はちゃんと竜臣様と結婚したいんだ。言いなりになってるんじゃない」
「そうですね」
向かいから声が聞こえた。顔を上げると右近が優しく笑っていた。
「それを踏まえて、碧緒様にしてあげられることを考えましょう。例えばそうですね……相談に乗ったり、考えるための時間を作ってあげたりするのはどうでしょうか」
「そうですね」
今度は一姫が笑顔で頷いた。先程まで絶望に包まれた顔で泣いていた人物とは思えないような変わりようであった。
「あ、そういえば。一姫様が気を失っている間にこれを預かりましたよ。目覚めたら渡してほしいと、碧緒様からの贈り物だそうです」
右近が懐から何かを取り出し、掌に乗せた。ふっと掌のものに息を吹きかけると、それはひらひらと宙を舞って格子の間を抜けていき、格子の間から伸ばした一姫の細い手に収まった。一姫は柔らかい感触のするそれを牢の中で広げてみた。
「ハンカチ……」
柔らかい布でできたハンカチだった。ハンカチの右下には桜の刺繍が入っている。
「牢の中で心細くなって泣いてしまうだろうから、だそうです」
くすり、笑って右近が碧緒からの言葉を伝えた。一姫は思わず微笑み、桜の刺繍を指でなぞった。
「もう、たま姉ったら……」
言いながら、一姫は涙でぐしょぐしょだった顔をハンカチでぬぐったのだった。




