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自分のことになると




 どれくらい座っていたのか分からない。

 誰かが家の中に入ってくる音が聞こえて、階段を上ってくる足音が聞こえて、体重をかけ続けていた尾骶骨が痛がっていることにようやく気が付いた。

 意識した途端にじんわりと襲いかかる痛みに、物理法則はどういう状況でも普段通りに適応されるんだなと悲しくなるし、悠斗のため息を掻き消すように部屋の中に二度響いたノックの音は、スタッカートのように無常に消滅する。


「入るぞ」


 と、どこか鬱屈しているような兄の声に、悠斗は立ち上がり身構えた。

 ドアが開くと、いつものあっけらかんとした兄の顔はない。笑うことを許さない緊迫感の塊のような雰囲気の兄がいる。その後ろには柔和な皐月さんの姿もない。

 ただ俯いて、手を前で組んで、証言台で裁判長からの判決を黙って聞いている罪人のようだ。


「あれ? 綾は?」

「まだ部屋じゃない? たぶん今日のこと、知らないから」

「綾に教えなかったのか?」

「兄ちゃんがもう伝えてるかと思って」

「そっか。……ま、それはそれとして」


 まだ言葉の途中だぞという雰囲気を漂わせながら、兄は皐月さんとともに部屋の中に入ってくる。

 兄は綾がいつも座る席に皐月さんを座らせ、自身もその横に座ると、ようやく、


「じゃあ呼んできてくれ」

「俺が? 兄ちゃん行けば?」

「いや、俺は皐月がいるから」


 そう言われては反論できない。兄の横にいる皐月さんがいつもの皐月さんだったなら、悠斗も徹底的に食い下がっただろう。

 しかし、今兄の隣にいるのは、別人だと言っても信じられるほどの表情を浮かべた皐月さんなのだ。


「わかったよ」


 悠斗は渋々了承して部屋の外へ出た。後ろ手でドアを閉めると、本日何度目かすら分からないため息がまた出てくる。力が抜けてドアに寄りかかると、腐敗臭を感じて顔を歪めた。奥歯を噛みしめている自分がいた。

 この家の空気は、ため息で吐き出した空気しか残っていないのだろう。


 嬉しいとか楽しいとか、そんな感情と縁を切ってどれほどになるのかを考えると虚しさが募っていくから、悠斗は覚悟を決めて歩き出す。早歩きで、一度でも足を止めてしまっては、次に動き出せるまで何時間かかるのだろうか。

 仮にそうなった場合、兄も皐月さんも待っているのだろうか。


 ――きっと待っているのだろうと思う。


 綾の部屋の前までは一〇秒とかからないで着いた。悠斗の部屋の隣が兄の部屋で、その隣が綾の部屋。廊下の一番奥に位置する。

 そういった部屋の関係上、悠斗が廊下の端まで来ることは掃除のとき以外なく、その掃除も綾がやってくれるから、そこまで歩いたこと自体が久しぶりだ。

 部屋の扉をノックするため、右手で握り拳を作り胸の前まで持ってくる。その拳を見つめながら呼吸を整えて二度、木製のドアに軽くぶつけた。


 反応は返って来ない。


 聞こえなかったのかと思い、もう一度ノックをする。


「何?」


 ぶっきらぼうな返事がドア越しに聞こえた。

 悠斗はすぐそこにいる綾を出迎えようとドアノブを握ったのに、開こうとすると体がピクリともが動かなくなる。


「ちょっと来てくれる? 兄ちゃんが結婚相手連れてきたから」


 結局ドア越しに、用件を伝えた。


「どうして?」

「兄ちゃんが紹介したいって、言ってるから」

「今は……でも、いい」

「いいって、言われても」

「一人でいたいから! 今は」


 含んだ言い方。

 それは誰に会いたくないから? 

 誰とも会いたくないから?

 そんなんじゃダメだ。

 お前の方が……壊れそうじゃないか。

 綾の弱った声に、何とかして連れ出さなければという思いが爆発した。


「皐月さんも! 結婚相手の七草ななくさ皐月さんも、お前に会いたいって、言ってるから――」


 その瞬間にドアが開いた。

 急に開いたために、ドアが悠斗の額を直撃した。


「あ、ごめん」


 悠斗は脳内に響き渡る鈍い衝撃に耐えつつ、申しわけなさそうに悠斗を赤くなった額を見上げる綾に目を向ける。


「いや……いいけどさ。急に開けるなよ」

「うん。……ごめん」


 綾の顔には明らかに涙の跡があった。その涙が、今は止まっていた。


「で、さっきの話。名前。本当に?」


 綾の声は冷淡すぎる。

 無理やり感情を押し殺しているみたいに。

 弱った声の方が、ましだったかもしれない。


「本当にって、何が?」

「だから……」


 そう言いながら床を見つめて、体が震えだして、怒りというより憎しみのせいだと思う。


「あんたのお兄さんの結婚相手が、七草皐月って本当かって聞いてるの!」


 綾が皐月さんのことを呼び捨てにしたのも、怒鳴ったのも、気がかりだったのに、


「そうだけど、それが?」


 迫力に負けて、悠斗は正直に答えてしまった。


「何よそれ。やっぱり……やっぱり」


 綾の手にいつの間にか何かが握られている。


「はっ?」


 綾が言った言葉の意味も分からず、悠斗は自身に向けられた注射針を呆然と見つめていた。体が恐怖で怯えて動かない。その理由が分からない。


「許さない! 絶対に……絶対に!」


 綾の暴走も止まらなかった。憤怒に満ち溢れた目で、無防備な悠斗の二の腕に注射針を突き刺そうとする。


「あ……あああ」


 悠斗の体はそれでも動かない。硬直した体。制御できない。思い出す。先端恐怖症でも何でもないのに。


「あぁぁぁあああああああぁぁぁああああ!」


 悠斗は叫んでいた。身の危険が迫っていると感じたわけではなく、ただ純粋な恐怖と、フラッシュバックする景色に耐え切れず。

 網膜の裏側に映り込む記憶を脳が勝手に再生して、現実だと理解し直して。

 迫る針の先端も、綾の怒りで歪んだ顔も、現実なのに。

 拒絶したくても、体が動かない。


「――辞めるんだ。綾」


 わずか数センチの所でその針は止まった。吾妻冬獅郎が綾の手首を掴み、動きを制止させていたのだ。


「君が恨んでるのは悠斗じゃなくて、俺の方だろ?」

「だったら! まずあんたを殺す。鉄兄の、鉄兄の……仇を」

「ああ、それなら好きにしてくれていい。俺は鉄を、置き去りにしたからな」

「何で⁉ 親友だったんでしょ? 何で助けてくれなかったの? 何で……鉄兄は生きて帰って来ないのよぉ」


 悲しそうで、辛そうで、苦しそうで、握力も維持できなくなったのか、注射針が床に落ちていった。

 それは転がって悠斗の足元を通過し、背後の壁に当たって止まる。必要がなくなったと冬獅郎は手を離し、綾の腕が重力に従って落ちていく。


「それは俺がそうしたから。俺の頭が良かったから、それを……鉄を、君のお兄さんを殺すことを選んだから」

「そうじゃないだろ兄ちゃん!」


 綾のことを君と呼ぶ。家族だって言ったのは誰だよ?

 そんな兄の他人行儀な姿も、暗い声も許せなかった。

 自分のことが許せなかった。


「仕方なかったって言ってたじゃん? 本当は拒否したかったって、戦争だったからって、だから……俺は逃げてばっかりの最低野郎なんだよ! 俺が一番、誰よりも一番殺されるべきなんだ。生きてちゃいけないんだ」


 悠斗は叫んでいた。感情に身を任せようとした。

 きっと、こんな状況でなければ自分の薄情さを吐き出すことができないから。それくらいに自分が最悪な人間だと知っているから。

 憔悴しきった顔で自分のことを見つめる綾の視線にも、驚いたように目を見開いた兄の顔も、気持ち悪くて、吐き気がして。 


「どうした悠斗? いきなり何を?」

「俺は……使えるんだ。兄ちゃんと同じで、能力者なんだ。隠してたんだよ」


 自分自身に対する憤りが悠斗の口を動かし、言葉を走らせる。


「悠斗、いったん落ち着けって」

「その前に兄ちゃんは俺に言うことあるだろ!」

「ちょっと気が動転してるんだな。大丈夫、一旦落ち着こう、な?」


 そういうことではない。兄ちゃんが言うべき言葉は、そういう取り繕われた言葉ではない。


「何で? 兄だから? 英雄だから? 戦場に俺がいれば、俺が参加してたらもっと楽に、もっと楽に色んな人が救えた。こいつの兄ちゃんだって、死なずに済んだかもしれないのに、俺は逃げてたんだ。自分勝手に、人を守れるのに放棄して……人殺しと同じなんだよ俺は!」


 自分が戦争に参加して、能力者としてたくさんの人間を殺していれば、自分が殺すはずだった人間から殺される人間は助かったはずなのだ。


「悠斗? 一体どうしたんだ? 落ち着こう。な? 混乱してるんだよ? きっと」


 兄はそれでもなだめようと、兄として振る舞おうとするから余計に辛い。

 俺は、そんなことされる人間じゃないんだ。


「あれだよ、悠斗のせいじゃない。全部兄ちゃんのせいだ。兄ちゃんが色んなこと背負わせたから、それで」

「違うよそんなの! 俺は兄ちゃんがいるのをいいことに、逃げてたんだ。自分がしたくないからって、トラウマだからって、兄ちゃんが守ってくれるからって。だから……言えなかった。能力のことも、兄ちゃんが俺を一切疑わないで犯人捜しなんかしたりするから、事実を認めたくなくて……殺したの俺なのに。父さんと母さんを殺したのは……俺なのに」


 自分の心臓の鼓動が大きくなったと感じたのは、誰の声も続かなかったからだろう。

 兄は天才なのに、参謀なのに、悠斗の兄なのに、言い返せていない。

 気まずそうに顔を背けた兄を見ていると、また腹が立った。


「犯人探すし、疑わないし、兄ちゃんばっかり傷ついて、それを一番身近で見てきたのに、怖いから、苦しいから……言わなかった。能力のこと」

「違う。悪いのは悠斗じゃない」


 やっぱりそうやって兄ちゃんは俺を責めない。両親を殺したのは俺だって言ってるのに。何で? だから、苦しいんだよ。世界一お人好しな英雄の弟になんかならなきゃよかった。


「悠斗を守ってきたのは、あの日起こったことのすべての原因は……俺にある」

「いい加減にしろよ! ちょっとは俺を責めろよ! 自分のせいばっかり、自分を傷つけてばっかり……何で私情を挟まなかったんだよ? 弟がこんなに私情挟んでるのに、自分勝手に逃げてきたのに、兄ちゃんはもっと自分のことも考えろよ!」

「でも俺は、決めたから。あの日、俺は悠斗を守るって、あの時決めたから……ずっと」

「俺は守られる人間じゃないんだよ! 殺せよ!」


 悠斗は初めて兄を殴った。右頬を一発、渾身の力を込めて。

 兄は半歩ほど後ろによろけて、俯いてそのまま黙った。赤くなった頬をさすりもしない。口から流れる血を、拭おうともしない。

 悠斗はなおも詰め寄って、兄の襟元を掴むと、


「兄が弟を守らないといけない決まりでもあるのかよ? 歳上ばっかり我慢して、自分を殺して、そんなこと誰が決めたんだよ? 俺は……兄ちゃんから奪った。俺が父さんと母さんを殺したんだぞ?」


 悠斗は泣いていた。兄の兄としての姿を見て泣いていた。

 弟を責めるでもなく、手を振り払うでもなく、心苦しそうに視線だけ横にずらした兄を見ていたら、自分に対する憎悪がとめどなく暴れ出す。


「なぁ、兄ちゃん。何とか言えよ」

「……知ってたよ。それくらい」


 兄は小さく、まだ自分の方が悪いかのように呟く。

 その言葉の意味が悠斗にはわからない。


「はっ? 知ってたって」

「言った通りだよ。悠斗の能力が暴走して、父さんや母さんを殺させてしまったことくらい、知ってたよ。それに俺は自分勝手なこと、いつだってやってきた。私情なんか挟みまくりだよ」

「意味分かんねぇ。殺させてしまったって……その言い方おかしいだろ! じゃあ何で⁉ 何で犯人なんか捜してたんだよ? 俺への気遣いなんてしなくてよかったんだよ。全部知ってたんなら 兄ちゃんは何で俺を恨まないんだよ?」

「だからあれは、全部俺の責任だから」

「何でそうなるんだよ⁉ あれは俺が」

「俺が作ったんだよ! ……あの薬は、俺が」


 横を向いたまま、不意に大声で、口を大きく開いて、その反動で目は閉じて。

 兄の体が震えているという事実が腕を通して、悠斗の体に伝わってくる。


「弟の能力を暴走させて、弟に殺させて、一生拭えないような傷を負わせたのは俺なんだ……俺なんだよ。だったら守るのは当然だろ? 兄としても、人間としても」


 悠斗の腕から力が抜け、腕が下へ落ちていく。振り子のように体の両側で揺れ動きながら、悠斗の記憶がさらに鮮明になっていく。


「極秘裏に進んでいた能力者製造計画で、実験台に選ばれたのがお前だった。俺の弟だったけど、だったからきっと、上から言われて……その時の俺は了承して」


 兄の言葉も聞き取りながら、意識の中に浮かび上がるあの日の記憶。


「だって人工的に能力者を作れば、俺以外の能力者が増えれば、少しは俺の苦労も、って楽になるって思って」


 悠斗の脳裏に鮮明によみがえる、忘れていた会話。父との会話。

 兄と同じような能力者になりたいかと問われ、「うん。なりたい」と無邪気に答えた自分の声は今、不協和音となって頭蓋骨内を駆け巡る。


「その時は、二種類とも完璧に作ったはずだった。この俺が失敗なんかするはずないって思ってた。……だけど、ああなった。なってしまった。だから結局は、俺が殺したんだ。父さんと母さんを殺したのは俺なんだ。俺なんだよ!」

「でも、俺はそれを受け入れた」


 悠斗の呟きは声になっていなかったと思う。頭の中にあの時感じたことの全てが鮮明に思い出される。

 ハンマーで頭を殴られたみたいに、急激に感じた激痛と遠のき始めた意識。呼吸が荒くなって、勝手に精製された氷が父親の体を突き刺し、母親の腕を氷漬けにし、氷が砕けると共に母親の腕は粉々に粉砕された。

 激痛に歪んだ母親の顔を最後に、悠斗の意識は完全になくなった。

 目を覚ましたら部屋中血だらけで、父親も母親も死んでいた。


「だから俺は悠斗を守るって。もう悠斗に何一つ苦しい思いはさせないって。人を殺させやしないって……だから、俺は」

「でも結局は、やっぱり俺のせいじゃん」


 兄がどれだけ屁理屈を並べても、自分の方が正論だと知っているから悠斗は淡々と言い返す。


「俺がやるって言ったんだ。こいつの兄が、兄ちゃんの親友を死なせたのって、やっぱり俺じゃん。俺が戦場に行ってたら、もしかしたら」


 自分がやった行為は、目の前で倒れている人を見捨てるのと同じ行為なのだ。

 兄は、そう思っていないのだ。


「それは違う。俺がそれを認めなかったんだ。隠したんだ。悠斗に能力が定着してたことを知った上で事実を隠したんだ。暴走した能力は定着しなかったって嘘の報告して、何よりも最強な戦力になるって分かった上で知らないふりして、私情なんていくらでも挟んできたよ! 俺はそういう奴なんだよ……」


 冬獅郎は膝から崩れ落ちた。こんなにもやつれて衰弱した兄を見たのは、初めてだ。あの時以上だ。


「だから……本当に殺されるべきは俺なんだ。俺は自分勝手に、多くの人間を殺してきたんだよ。英雄なんかじゃない。俺は英雄なんかじゃなくて……ただの悪魔だ」

「でもそれは俺を守るためで」

「それすらも理由にしてたんだよ。きっと……いつからか自分のやってることを正当化するために、弟のためとか言って、弟に罪を擦り付けるみたいに、弟がいるから人を……鉄を殺したって、弟のせいだって。だから、弟の前であんな酔いつぶれたりできたんだ。お前のせいだって、俺がこうなったのはお前のせいだって思ってたから」

「もういい。そんなのどうでもいい」


 兄と弟の水掛け論にしびれを切らしたのは綾だった。擦れた唸り声が続き、頭を抱え、髪の毛をぐちゃぐちゃに掻き乱しながら、綾は呟くように言う。


「何? じゃあ、鉄兄は……あんたたちの傷の舐め合いのためだけに殺されたの? そのために死んだの? そんなの、私だけ……私だけ…………被害者ずらして、バカみたいじゃん」


 力なく座り込んで、床に額を押し付けて綾はむせび泣く。拳を床に叩き付ける。


「違うんだ綾。悪いのは俺なんだ。悠斗は何も悪くない。悪いのは全部俺なんだ。だから、綾の気が済むなら。俺をいくらでも殺してくれ」

「冬獅郎、そうじゃないでしょ⁉」


 リビングの方から聞こえた声に悠斗は反応する。怒っていて、やっぱりここにいる三人と同じように涙声で、兄を非難する皐月さん。

 悠斗の視線も、綾の視線も、吾妻冬獅郎の視線も、当然のようにそこへ向かう。

 頬から落ちた涙の粒に向かう。


「殺されるんじゃなくて、家族になるんでしょ? 死んでどうするのよ? 頼まれたんでしょ? だったらあなたが死んだって何も変わらない。あなたには家族を守る使命があるの。簡単に死ぬなんて……鉄に、冬獅郎が殺してきた人たちになんて言いわけしたって許して貰えるはずないでしょ?」


 皐月さんの言葉に、兄は呆然と黙り込む。

 弟の体はまだ震えている。

 綾がゆっくりと動き出す。


「そうだ。誰より悪いやつがいるじゃないか。あんな説教じみたこと平気で言えるなんて、あいつこそ、誰より死ぬべきだなんだ」


 誰が発した声か、悠斗にはすぐに判断できなかった。綾が発した言葉だと到底思うことはできなかった。

 ただただ純粋に憎悪に満ちた目も、周りを凍てつかせた鋭利な言葉たちも。

 綾から駄々漏れになった殺意で、悠斗の体は硬直していた。

 隠し持っていた短刀を片手に、綾は皐月さんの元へ走り出していた。


「弄びやがって、殺す。鉄なんて呼ぶなァ!」

「……ぁあ、皐月! 逃げろ!」


 情けなく兄がそう叫んで、悠斗もようやく顔だけ動かすことができるようになった。

 皐月さんはただ笑って、一歩も動かなかった。

 ナイフが刺さると、ほんの少しだけ表情が歪んだ。


「それでいいの」


 皐月さんの口が、そう動いたように見えた。皐月さんの右脇腹に刺さったナイフと体の僅かな隙間から吹きだす血液。悠斗の体も震え出す。

 返り血を浴びた綾の肩は興奮で上下し、皐月さんの右足を伝って床を侵食し始めた血液が、綾の足元に到達する。

 皐月さんは変わらず笑顔だ。


「……ごめんね。綾ちゃん」


 柔らかくて暖かい声はいつもの皐月さんのものだった。自分を殺そうと、自分の体にナイフを突き刺した綾の震える体を、優しく優しく抱きしめる。


「私は、あなたに恨まれて当然。こうなって当然。ごめんね、あの時逃げて。謝るのが、遅れちゃって」


 ナイフの柄から綾の両手が離れた。床の上落下したナイフはこの場から逃げたがっているように見える。綾の体の両端でゆらゆら揺れるその掌には、べったりと血液が付着し、指先から床の上へ一滴ずつ滴り落ちる。


「何で、あなたも抵抗しないんですか? 私ばっかり誰かを恨んで、殺そうとして……なのに、謝る。殺そうとしてる相手に、何でそうやって、笑顔を」

「だってあなたの言う通りだから。あなたから殺されて当然なの。……ごめんなさい」

「でも! あなたがさっき、簡単に死ぬなって……」

「自分のことになると、やっぱり死ぬ方が楽なのかもね。あなたを人殺しにしちゃうのに、やっぱり……ごめんな…………さい」


 皐月さんの目が閉じられた。綾の体を抱きしめていたはずなのに、その手が離れ、立つことも叶わなくなって、そのまま血で汚れた床に倒れ込む。

 皐月さんの肌色の頬には血がべっとりと張り付き、血飛沫は辺り一面を覆い尽くした。


「皐月! 皐月! しっかりしろ!」


 兄が駆け寄る。皐月さんの体をゆする。


「何で、私は……私だけ楽になりたいからって…………」


 綾は悲痛な声を上げながら、血のべったりついた掌で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。

 悠斗はそのまま、何もできなかった。

 血がどうしても、体が震えて動かない。





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