心臓の位置
あの日から、悠斗の日常は何となく崩れていった。綾と話をすることはなくなり、避け合っているなという認識を互いに与え合うくらい関わらなくなった。
食事も一緒にとらない。顔も合わせない。すれ違うことすらもほとんどない。足音が近づいていると思ったら、その足音が立ち止まり、彼女の部屋に戻ってしまう。悠斗も戻る足音を立ち止まって聞いている。聞こえなくなってから動き出す。
一緒の家に住んでいるはずなのに、悠斗と綾は他人以上に距離間のある生活を送っていた。
そんな二人の状況を知ってか知らずか、吾妻冬獅郎は家に寄り付かない。前と同じように深夜にひっそりと帰ってきたかと思ったら、
「次の金曜日。皐月をこの家に連れてくる。綾に紹介しないといけないから」
と五日後の予定を何故か教えてくれた。
弟はたいして気にも留めず、首を小さく縦に動かしただけだったが、
「それで……悠斗にもいて欲しいんだ。その場に」
「何で?」
「何ででも」
兄の声は犯罪者が自供するときのような薄汚れた威圧感を纏っていた。
体の内側が震え、胃が痛む。両親が死んだ日と同じような感覚。当時はそれが罪悪感だなんて知らなかったけれど、弟のことを絶対に守ると言ってくれた兄の言葉は残っている。白血球が殺してくれない。
悠斗は何も言わずにベッドの上に座り続けていた。
兄はため息も吐かず、笑顔も見せず、そのまま部屋を後にした。
心臓が動くのと同じような感覚で、すぐに金曜日がやってきた。
朝は人間がどれだけもがこうと、毎日決まった時間にやってくる。
前日の夜から今朝にかけて睡眠はしていたつもりだが、体がだるい。家中に充満した重苦しい空気のせいだろうか。
それは今朝になって一段と重くなった。
体も空気も、きっと人間関係も。
背伸びをする力もなく、あくびをする気力もない。
それでも悠斗は立ち上がり扉の前まで歩く。前髪をかき上げてしばらく立ち尽くし、考える。
兄は綾に今日のことを伝えていないだろうなと。
わざわざ帰ってきたにもかかわらず、綾にばれないように弟の部屋に入ってくる不自然さ。小声で話す理由も。
それは綾に今日のことを伝えていない、伝えておいて欲しいですという兄からのサインだと思う。
「……ああぁ!」
悠斗はもう一度前髪をかき上げながら、低く唸った。
そんなの自分で言えばいいのに。理解できなかったと言って、言わなければいいことなのに。
そう考えると、もしかしてこれは綾に伝えてはいけないことなのではないかとも推測できる。兄は綾に伝えなかった。ということは伝えるなということではないか。
やはり兄の考えていることが分からない。英雄の弟でも、英雄なのは兄であって、頭脳明晰なのは兄であって、弟は兄と比べればバカな人間だ。
そして、そんな吾妻悠斗より自分はバカな存在だと杏南は言っていた。
つまり兄から言わせれば、この中で一番頭脳明晰なのは杏南ということになる。もうよくわからない。
誰が悪魔なのか、誰もが悪魔なのか。
「どうして欲しかったんだよ。バカだから分かんねぇよ……」
悠斗はベッドの上に座って、項垂れた。
時間はそれでも否応なしに過ぎていくから、服を着替えるために立ち上がる。着替え終わると廊下に出てリビングへと向かう。
皐月さんを迎えるために料理を作ろうと思ったのだ。
綾には今日のことを、一言も知らせずに。
そのせいなのかは分からないが、調理は全くと言っていいほどはかどらなくて、ニンジンを切っている包丁で自分の体を傷つけたくなって。
刃先を自分の体に向けて、目を閉じる。
我に返ったのは、刃先が右胸の三ミリメートル前に位置していた時だった。
「……ふはっ……はははっ……はははは」
悠斗は自分の行動に驚いて、嘲笑して、包丁と一緒に切り刻んだニンジンもゴミ箱に放り込んでしまった。
「心臓の位置すら……正確に知らねぇんだよな俺は」
そのままソファまで移動して、座って、待ち続けた。
「兄ちゃんは、知ってるんだろうなぁ」
唾液がそれでも口の中に溜まる。




