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バカだから?




 翌朝。スッキリしない気持ちのまま朝食を食べ終え、店へと向かう悠斗。綾と一言二言話したのだが、その時に『綾』と名前で呼ぶことはできなかった。兄のせいで、気にするとどうしてもできない。そのことで悠斗が気に病む必要性もない。


 兄から言われただけのこと。別にしなくてもいいこと。

 それでもやらなければいけないと思うのは、自分が嘘つきだからだ。

 もちろん、兄から信頼されていることも重なっているのだろう。

 弟のどんな部分を信じて、何を達成することを期待しているのか。直接的にそれについて言われたわけではないが、おおよその見当はついている。

 もしかしたら、兄にとってそれは達成しなくていい事なのかもしれない。

 けど、それでは、悠斗自身が許せないのだ。


「……ってか全然覚えてないんだよなぁ」


 鍵を開け、店の扉を開ける。ボサボサと髪を掻きあげ太陽に向かって息を吐いた。開店することが目的だが、陰鬱な空気を吸っているだけでは気分が悪くなる、外に出て深呼吸をしようという邪な気持ちも確かにあった。


「綾のこと。会ってるって言ったって」


 漏れ出した心の声。輝かしい陽光が照らして、影は面積に限りがるから、口から出ていくのだろう。

 心ここにあらずだった悠斗は、すぐ隣にいた人物に気が付けなかった。


「綾と昔、会ってたんだ」


 杏南は悠斗が息を吐き出し終わるのを見計らっていたかのように、タイミングよく話しかける。


「おっ、おはよう……久しぶりだな」


 相手が幼馴染でも、そんな登場をされては驚かざるをえない。杏南は冷たい海の波に身を任せているかのように、静かな瞳で悠斗を見上げた。


「うん。二週間ぶりくらい?」

「そんなにたってたか? まあ、うん。久しぶり」


 幾度となく話したことがある相手なのに、たどたどしくなってしまう自分に少し辟易したくもなる。

 仕方なく見上げた空は青く澄み渡っていて、なのに哀愁が漂っている気もするのは何故だろう。山のはるか向こう側に、灰色の雲が迫っているからだろうか。


「何よその態度? ちょっとよそよそしすぎない? ここはお見合いの席かっての」


 少し不機嫌な態度を見せた杏南だったが、すぐに笑顔に戻って、


「ねぇ、今日暇? 暇でしょ? 暇だよね。どっか行こうよ」


 悠斗に詰め寄る。腕に抱き付き、密着させてくる。胸、当たってるから、意外と柔らかいけども!


「待て待て、話飛び過ぎ。大体暇じゃないし」


 悠斗が腕を強引に引き抜くと、杏南は悲しそうな表情を浮かべ俯く。


「いいじゃん。店一日休むくらい」

「でも……その…………」


 悠斗は同意しかねていた。別に店を休むことを嫌ったわけではない。

 ただ、何となく綾を一人残して出かけるのが憚れたのだ。


「じゃあ、今日は私も一緒に店番する。それでならいいでしょ?」


 悠斗は綾に心の内を見透かされたのかと思った。体の後ろで手を組んで、悠斗の顔を下から覗き込むように見上げる杏南。いつもにも増して妙に色っぽい感じがする――って、胸元、胸元! 開きすぎ!


「で、でも、あいつと何かあったんじゃないのか?」


 目を逸らしながら、自分は慌てていたのだと思う。

 もっとタイミングを見計らって、オブラートに包んで聞こうと思っていたことだったのに、熱湯をそのまま差し出してしまった。


「あいつって?」

「ほら、綾と。……何か綾、あの日から元気なさそうにしてるから」

「そう……なの。あいつなんて呼ぶんだ」


 杏南の表情が曇り始める。

 その反応を見て、聞かない方がよかったかとも思ったがもう後の祭り。綾が明らかにそれまでより暗い表情をしているのも事実。

 それまでが明るかったわけでもないので、あの日からというのは語弊が生じる言い方なのだが、杏南と出かけたあの日という明確な事案があるから、そのせいにしたくなったのだと思う。


「……まあ、でも……そのことで、ちょっと話があるの」


 杏南が俯いていたために表情を窺い知ることはできなかったが、それがいいことではないとだけは悟った。天真爛漫な杏南の澱んだ声は久しぶりだ。海底のサンゴ礁が全く見えない。


「そのことって、……その、綾と喧嘩したことか?」

「そうじゃなくて、綾のこと」


 悠斗はその二つに差異がないのではないかと思った。何となく違いもわかる気がした。

 杏南は綾と表立って喧嘩しているわけではないのだと思う。杏南が深く考えずに言ってしまったことで、綾の顔が曇ったのを目撃したのだろう。

 朝の陽ざしは、二人にとって眩しすぎだ。


「で、綾のことって、具体的にどういう」

「実はね、私……見ちゃったの」

「見たって? 何を?」

「だから、その……見たの。別にそんなつもりはなくて、ただ……謝ろうと思って、店の前で待ってて、そしたら綾が出てきて、声かけられなくて……つけて行ったら」


 責めてもいないのに言いわけを並べられる。


「その、だから……その…………」


 だからといって、悠斗から根掘り葉掘り聞き出そうとは思わない。

 杏南が話すのを待ち続けていると、蛇足な言葉を付け加えるみたいにようやく、覚悟を決めたのか、


「見たの。綾が、話してるところ」

「……誰と?」

「だから……あまりよく見えなかったけど、確かあれは前の――」


 そこまで言って、杏南は口を閉ざした。

 目線が自身の背後へと向かっているのが分かった。

 悠斗も流石に察した。陰口は、いないところで言わないとただの悪口だ。


「杏南……来てたの。久しぶり」


 綾の明るく苦しそうな声が後ろから聞こえる。聞かれてしまったか?


「うん……久しぶり! 綾、元気してた?」


 一瞬だけ、杏南が発した言葉と言葉の間に微妙な空気が混じっていたが、なかったことにしよう。杏南は笑顔で悠斗を置き去りにしたし、いつも以上に元気よかったし。

 それによって悪目立ちする空白の時間が、悠斗にはいたたまれなくて、胸が抉られる思いだった。背後で行われる会話を黙って聞くしかなかった。


「うん。……あ、そう言えばどうだったの? あの後。お母さんに怒られなかった?」

「それ! めっちゃ怒られた。あんた買い物にどれだけ時間かかってんのよーって。だったら頼むなってかんじじゃない?」


 綾と何事もなかったように話す杏南の声を聞いて、悠斗は羨ましさも不憫さも感じていた。きっと二人の間の問題はそういうことなのだろう。

 悠斗は二人の会話から耳を逸らし、来店した客の対応に入った。

 その方が気持ち的に楽で、生きているという実感も湧くことはなかった。


「ありがとうございました」


 店の外まで客を見送るという過度な接客をした後で、二人の方を振り向くと、


「じゃあ、いってらっしゃい。また今度ゆっくり話そうね」

「うん」


 杏南が綾に向けて手を振っている。控えめに手を振り返した綾が、自分の方に近寄ってくる。

 もちろん、ただ出掛けるために。


「……ちょっと、出かける」

「ああ、あんまり遅くなるなよ」

「私は子供じゃない」


 すれ違いざまに小さな声でやり取りをした。杏南と話している時みたいな笑顔はなく、ただの無表情。

 悠斗は去っていく綾の背中すら見ることができず、息を呑み、立ち尽くしていた。

 吐き出す息が全て大きなため息であるかのようで、陰鬱な気分は高まっていくばかり。

 綾を見送った後の杏南の苦しげな表情も、絵画にしたいくらい綺麗だった。


「どうする? 後……つけてみる?」


 杏南は右手で左腕の肘を軽くさすりながら、横を向いている。


「いや、何となく……分かってるから」


 悠斗は店の扉を閉めると、鍵をかける。

 今から繰り広げられる会話は、誰にも聞かれたくない、聞かれない方がいい。

 そんな予感がした。


 店内には杏南と悠斗の二人だけがいて、迷宮の中に取り残されて、火の手が迫っているみたいな絶望感が漂う。一酸化炭素中毒で楽に死ねるだけ、そっちの状況の方がまだましだ。


「分かってるって……知ってたの?」


 口火を切る杏南。


「いいや。詳しくは知らない。けど、何となく分かってる……気がする。綾の様子とか、兄ちゃんの話とか聞いて」

「そう……流石、英雄の弟だね」

「そんなんじゃないよ。英雄なんて、世の中で一番なっちゃいけない人間だよ」


 自分の口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。

 慌てて杏南の顔を見やると、驚いたような表情をしていたというのに、


「そっか。私バカだから……私にはそれ、よく分かんないや」


 杏南は自嘲気味に笑い、俯いた拍子に溜まっていた涙が零れてしまった。


「……でも」


 杏南は手で涙を拭いながら言葉を続ける。頬を伝っていく涙を悠斗は目で追いかける。雨粒によく似た、でもそれとは明らかに異なる雫となった涙は、床にぼろぼろと落ちていくばかり。


「自分や、自分のお兄さんを殺そうとしている人と一緒に住むのは、その理由が分からないのは、……やっぱり、私がバカだから?」


 悠斗は顔を背け、店の隅に追いやられた防具コーナーを見つめていた。埃が装飾として良く似合っている。


「いいや、俺の兄ちゃんが英雄だから。……俺がその弟だから」

「何で? やっぱり、私には分からない。悠斗が危ないって分かってて、私はそれを知ってて、黙って見てるだけなんて無理。耐えられない……」

「ごめん……杏南」

「だって悠斗が殺されるかもしれないんだよ? なのに……なのに……」

「本当は、それでもいいのかもしれない。俺も、俺の兄ちゃんも……」

「ダメだよ!」

「……死んだ方が」


 きつくきつく、体が何かに締め付けられた。


「そんなことない!」


 杏南のつむじは二つある。そこを湿らせてしまはないように、悠斗は唇を噛んだ。杏南に泣かれた。喚かれた。

 胸の辺りに杏南の顔があって、押し当てられ、腰のあたりに巻き付いた腕はひどく冷たい。


「そんなの……私が嫌だよ。嫌なんだよ」

「分かってるさ。ただ、言ってみただけだ」


 冗談だよ、と続けると、杏南は悠斗を見上げ、睨み付けた。


「だったらそんなこと言わないで! 冗談でも……死んだ方がなんて、言わないでよ」

「ああ……悪かった」


 そう言ってみたものの、きっと「死んだ方が」といった自分が、本心なのだと思う。


「……でもそのこと、綾のこと、誰にも言うなよ。これは、俺たちの問題なんだから」

「何で? ……だって、いつ悠斗が死んじゃうか」

「大丈夫。杏南も知ってるだろ? 綾が、綾はきっと……そんなことしないって、だから……」

「何で綾のことはそうやって信じられるの? どうして? どうしてそんなにも信じられるの?」


 杏南の声に初めて、怒りが混じっていたと思う。

 悠斗にだって綾を信じられる理由は、上手く説明できないのだ。

 本心が殺されてもいいとどこかで思っているから……が、一番大きな理由だとは思うのだが。


「分からないけど……俺が英雄の弟で、兄ちゃんが英雄だから。天才の兄ちゃんが連れてきたってことだから……」


 恋愛照合理論ラブマッチングなどというでたらめな理由だったとしても、頭脳明晰な兄が連れてきたことに変わりないのだ。

 兄の本心も殺されることを望んでいるのかもしれない。


「やっぱり、よく分かんないよ。英雄って……なっちゃいけないものじゃなかったの?」

「英雄はいないと、世界は成り立たないんだ」

「何それ……。全然分かんない」


 悠斗は何も言い返せず、ただその場に立っていた。泣いていた杏南は、涙が止まる少し前に、


「……ごめん、悠斗。もう帰る」


 そう言い残して帰って行った。

 一人取り残された英雄の弟は、それでも静かに立ち尽くす。出てこようとする言葉をすべて飲み込んで、杏南の涙で濡れている胸のあたりを右手でクシャと握りしめて。


 それから少したって、悠斗は店を再開した。

 街行く人を眺めて、ブラックコーヒーが飲みたい。





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