吾妻冬獅郎として
夜。悠斗はベッドの上に仰向けに寝ころがり、目を開けたまま考えていた。
あの日、綾が出かけた時よりも浮かない顔で帰ってきたこと。
よほどのことがあったのだろうということは分かった。コーヒーはあれから飲む気にもなれない。裏切りの味がしてしまう気がするから。
杏南とは本当に小さい頃からの付き合いで、その性格は熟知しているつもりだ。杏南が綾を傷つけたのかと考えてもどこか釈然としない。
綾は綾で何も言うことはないし、二度ほど何も言わずに出かけていった以外は、何度忠告をしても家政婦のように家事を率先して行うだけ。
二週間ほどそんな生活が続いて、悠斗の色彩感覚は一ずつ張りつめていた糸が切れるみたいになくなっていく。嫌われているわけではない。恨まれているともちょっと違う。
それでも綾と一緒にいることが苦痛だった。それを悟られないようにすることが綾にできる唯一の心遣いだと思い、表情には出さなかった。
いつものように綾と接して、綾の笑顔を引き出そうとしてみる。そうすることが自分の責任なのだから。
綾がそれに応えてくれるのは、いつになるのだろう。
また事故を装って風呂にでも突入してみようか。
――いや、それはダメだな。
そんなわけの分からない考えを抱くほどに、悠斗は現状に息苦しさを感じているのだ。あの時見せてくれた素の表情が懐かしくて、夜になるとそれを思い出そうとしてしまう自分がいることも、ついに認めてしまった。
もちろん、彼女の裸体を想像したいからが理由ではない。
杏南もあの日以来姿を見せないから、余計に不安は募っていく。やっぱり杏南と綾の間で何かがあったのだろうか。
悠斗は起き上がる。ベッドの上に座って、両足の裏が床に触れると肺が機能停止したみたいに苦しくなった。咳き込んで、濁った声のような息を吐き出してから、意を決して立ち上がる。土踏まずまで床に触れないと体が支えられない。それくらい体が重く感じたけれど、ゆっくりとドアの前まで歩く。
立ち止まって、また引き返す。
ベッドの上に座って、オーバーなほどの猫背。太腿の上に乗っている肘の感触が、妙に印象深かった。扉を二度、控えめにノックする音が聞こえてきた。
悠斗は、無視した。またノックが聞こえた。
「入るぞ」
悠斗が返事をする前に兄の声がして、扉が開く。
「……兄ちゃん。帰って来てたの?」
「ああ、ほんのついさっきな」
悠斗は兄の姿に驚いたものの、兄が自分の家なのにこそこそと弟の部屋まで向かってきた理由は分かっていた。
「そっか。……で、何の用?」
悠斗は兄がドアを閉めるのを待ってから話しかけた。兄と同じように小声になってしまったのは、兄の心情を鑑みた結果だったのかもしれない。
「いきなりだな。兄ちゃんとしては……もっと時候の挨拶的な『薄くなっていく洋服と共に女子の胸の谷間に男が目を奪われていく季節となりましたが』的なことから弟との会話を」
「ごめん。今、そんな余裕ないんだ」
兄の冗談に合わせる余力が残っていなくて、声も左右に揺れ動く。
「そっか。まあじゃあ……単刀直入に言えば綾のことなんだが」
兄はドアに背中を預ける。自分の体を使ってでも、この空間を完璧に外部と断絶させたいみたいだ。
互いがまっすぐ見れば視線はちょうど交わるけれど、兄は俯いている。
「どうだ? 綾は。元気でやってるか?」
「まあ、それなりに……だと思う」
悠斗もずっと目を伏せている。
おそらく「それなりに」といった発言が、嘘だと自分で分かっていたからだろう。
「そうか、ならいいんだ」
兄はそう言って天井を見つめる。大きく息を吐く。兄は喫煙者ではないが、吸い込んだ煙草の煙を吐き出すみたいに見えた。
「うん。家事も色々とやってくれてるしさ。結構……助かってる」
本当のことを言ったつもりで、嘘を重ね続けているという事実もまた本当で、この部屋は梅雨時の湿った空気をもたらす梅雨前線より更に灰色だった。
きっと兄に嘘を見抜いて欲しかったのだと思う。天才の兄なら弟の嘘を見抜けると信じていたのだと思う。
「やっぱりお前と綾は相性ピッタリだな」
小さく笑いながら言った兄の姿は、自分を嘲笑しているようにしか見えなかった。
そうやってありもしない恋愛照合理論を利用するのは、きっと弟の嘘を見抜いたうえで、何も言えなかったのだろうと思う。
悠斗は余計に兄を見ていられなくなった。
「だから、それ嘘なんだろ? 恋愛照合理論なんて」
「信じるか信じないかはお前次第だって。でも、兄ちゃんは確信してる。……だってお前は俺の弟なんだから。それに、お前ら二人、小さい頃に二、三回くらい? 会ったこともあるんだ」
「会ったことがあるって、誰に?」
「いや、だから綾に。あれはそうだなぁ……、鉄の家に遊びに行った時、お前もついていくって言ってそれで」
「その話、もういいよ。思い出した」
悠斗はすぐにその話を辞めさせた。鉄と言葉が聞こえた瞬間に、何とかしなければという使命感が湧きたったのだ。
当然、思い出したというのは嘘。全くそんな記憶はない。綾も覚えてはいないのだろう。
「そうか。なら恋愛照合理論を信じてみてもいいんじゃないか? お前ら二人、めちゃくちゃ楽しそうに遊んでたぞ。それに確か二人は」
「そうだったっけ? それは思い出せないけど」
また言葉をかぶせる。今度はその理由も分からない。本当は全ての出来事を思い出せていない。
でも、自分が興奮した時に呼び捨てで『綾』と言ってしまったことは思い出した。そのことに今の今まで気が付かずに――ということは違和感の欠片もなかったということだ。
「でも、ま、俺はお前のこと信じてるから。俺はなかなか家に帰って来られないし、二人っきりで、色んなことできるしな?」
「べ、別に何も!」
急にからかわれてしまって、声が上ずる。
「……するつもりないから」
しかし、冗談を言ったにしては暗すぎる兄の顔を見ると、作られている笑顔に嫌気がさす。
その目はもう見たくないんだ。
「そっか。ま、そこら辺はお若い二人に任せるとして、だ」
「兄ちゃん……あのさ」
意図せず兄に話してしまおうとしている自分がいる。
「何だ? もしかしてどうやって告白したらいいか聞きたいのか?」
「そういうことじゃなくて……兄ちゃんは、知ってたの?」
分かり切ったことを、聞いてしまった。
これは今までの生活でため込んだストレスのせいなのか?
「ん? 何を?」
「だから! あいつが……綾が、鉄さんの、妹だってこと」
「……まあ、当然な」
兄は平然と答えた。
「だったら何で? 恨まれてるかもしれないのに、それを家に連れ込んで……危険だとか思わなかったのかよ⁉」
悠斗は無意識に叫んでしまった。ベッドから立ち上がっていた。
筋肉に力が入り、その締め付けが骨を圧迫し、数十倍に跳ね上がった地球の重力に体が必死で抵抗しているみたい。
「普通思うだろ? 何でトラウマを自分から近くに……その……その…………あっ――」
ようやく自分が取り乱していたと自覚した。
「ごめん、兄ちゃん」
我に返った後で、言ってはいけなかったことだったと思うと体から力が抜けていく。腰から砕けるように落ちていき、ベッドの上に体が乗った。
クッションがきいていて、二回ほど小さく体が上下した。
「でも、俺はもう兄ちゃんのあの目を」
「それでもだ」
兄の声は力強く、どこか覚悟めいていた。
「それでも、俺には綾を幸せにする使命があるんだ。皐月に言われて、ハッとしたんだ。悩んでるより、他にやることがあるんじゃないのかって。だから……俺はそうすることに決めた。俺はお前を信じてる。弟しても、一人の人間としても。恋愛照合理論は嘘をつかないって。お前ならできるって」
「何もできないよ。俺には。だって兄ちゃんから信じられるような……人間じゃ」
「そんなことない。綾はもう家族なんだ」
「意味わかんないよ。たったそれだけのこと」
「俺も皐月から言われたことはそんな程度のことだった。人からすれば些細な事でも、人は変われる」
それを言われると何も言えない。
崩れていく兄のために何もしてこなかった事実を思い起こさせられて。
「兄ちゃんは、元が違うから。天才だから」
弟の言葉で、兄の顔が歪む。弟は舌打ちを堪える。聞いてしまう。
「天才なのに……何で兄ちゃんはその時、鉄さんを選んだんだよ?」
きっとこれはあれだ。コンプレックスが爆発しているんだ。夜空に浮かぶ花火だから、すぐに消えてなくなってくれるさ。
天才な兄とこれまで生きてきて、自分ばっかり犠牲にする兄を見てきて。
――いや、全ては弟のせいだ。吾妻悠斗という人間が吾妻冬獅郎の弟であったばっかりに、全てがおかしくなってしまったのだと思う。
でも、それでも、親友だったんなら私情を挟んだっていいんじゃないか。
自分の知らない人間が死んだって、俺だったら何も思わない。その方が絶対辛くないじゃないか。
「俺は兄ちゃんみたいに優しくないんだ」
なのに俺を信じるなんて、機械人間みたいな選択を繰り返す兄に……そんなこと言われたくない。俺が吾妻冬獅郎という人間よりも優しくて、できた人間みたいに言わないでほしい。
綾だって、鉄さんさえ死ななければ普通に暮らせていたはず。もっと心の底から笑顔になれて、本当の家族と生きている。兄ちゃんだってあんな風にならなかった。
「……それは、仕方なかったんだ」
「仕方なかったって何だよ? 兄ちゃん頭いいんだから、兄ちゃんより頭いいやつなんていないんだから、誰選んだって変わりなかっただろ? 兄ちゃんの言うことが絶対だったんだろ? それに、そんなに苦しむくらいなら兄ちゃんが能力使って、一番強いのは兄ちゃんなんだから」
「使えないんだ! 使おうと思っても、使えないんだよ……」
はっ? と言ったのが自分だと、数秒後に気付いた。ありえない。だって、降伏させたんだろ?
「いや、そんなの、ありえな」
「俺が一番分かってた。でも、使えないんだよ。……使えなくなってるんだ」
兄ちゃんの情けない声を久しぶりに聞いた。
やっぱり、こんなの人間的に間違っているのに、国のためには間違ってなどいない。
「兄ちゃん。ごめん。……ごめん」
「それに俺は参謀なんだ。そんなやつがのこのこ戦場に出て行ってどうするんだ。俺がもし負けようものなら、この国は終わりなんだ。抑止力なんだ。国の能力者ってのは……そうなっちゃったから」
「兄ちゃんごめんって!」
「俺だけなんだから! 能力者が、生き延びることを第一に考えなきゃ仕方ないだろ。招いたのは俺の判断ミスだ。一人の命で脱却できるような、その程度の危機だった」
と、それでも力なく付け加えていたのは、機械人間ではない証だった。
「……ごめん」
弟の口からそれ以上何かを挟めるはずもない。兄は少し上を向いて、自身を嘲笑う。その顔は腐った果実を貪って生きてきたようで、見るに堪えない。
「ま、俺はその能力自体、使えなくなってるんだけど。本当にヤバい状況だよ。俺が能力使える前提で結んだ同盟なのに。何とかしないといけないのにさ」
上を向いて歩いたら涙が零れないとか……誰がそんな嘘ついたんだ。
「……うん」
悠斗は小さく頷く。何に対しての肯定なのかよく分からないけど、出てきた言葉。兄の凄さを再認識させられる。
兄の言うことが本当なら、兄は嘘つきの天才だ。弟の方がもっと嘘つきの天才だ。
本当に……本当に。
「ああ、すまん。ちょっと取り乱した」
袖口で両目を覆い一往復。たったそれだけで、兄の涙は止まる。
「でも……さっきのがばれたら終わりだから、絶対他言するなよ? 誰にも」
「分かってるよ。それくらい俺でも」
今ぶっきらぼうに返事をしてしまったのは、兄に対する苛立ちではなく、自分に対する苛立ちだ。
「後な、俺はお前が思うほど頭がいい人間じゃない。誰よりも頭がいいってことは、誰よりも頭が悪いってことだ。誰かにとっての英雄が、誰かにとっての悪魔であるのと同じように」
悠斗は何も言い返せなかった。兄の心の傷を抉り出した自分のことが憎くて憎くてたまらない。兄は頭がいいのだから弟の考えていることくらい全て見越したうえで、色んなことを選んでいる。
きっと兄は、頭がいいばっかりに全ての結末が判断できて、それに従わざるを得ないことが、誰よりも頭が悪いことなのだと言っているのだろう。
「ま、つまりあれだ。お前は綾のことだけ考えてればいいってこと。じゃ、俺はまだやり残してた仕事あるから、もう行くわ」
「うん。じゃあ仕事、頑張って」
それを普通の声で言うだけで、精根尽き果てた。死にそうだった。兄が部屋から出て行くと悠斗はベッドに倒れ込み、過呼吸を抑え込むので精いっぱいだった。




