1.ぶつかるパフェ
――振り返った時には遅かった。
キッチンの先輩が作ってくれたいちごパフェは無惨にも抱えたトレーの上で倒れ、中身が目の前の人物のシャツにべったりと付いている。
俺、八尋 緑はおそるおそる顔を上げた。
そこには芸能人のようなオーラを放つ美青年が立っていた。
「あーあ……。これ、俺が頼んだやつ?」
青年は特に怒った風ではなく、むしろ少し笑いながら俺にそう言った。
「あっ……、そうです。申し訳ございません! すぐ作り直しますので……」
慌てて倒れたグラスを元に戻すが、青年の白いロンTにイチゴソースの赤い色がしっかりと付いてしまっていて、俺は青ざめた。その辺の安いTシャツではなさそうだ。
バイト五日目にしてやってしまった。
アルバイトができる中学卒業後の四月一日を待ち、ようやく働けるようになった矢先の出来事だった。
ランチタイムの山場を終え、キッチン見習いの俺は先輩に「ごめん、これだけ持っていって」と頼まれてパフェを運んでいた。新たな客が来たのに気を取られ、うっかり人とぶつかりパフェをひっかけてしまったのだ。
「どうしよう……。すみません、こっち来てください!」
パフェを乗せたトレーをバックヤードに置き急いで戻ると、俺は青年をトイレ前の手洗い場まで連れていった。
「本当にすみません……」
持ってきた新しいダスターで必死に汚れを拭きとるが、赤いシミは取れそうにない。
クリーニング代……と頭をよぎり泣きそうになりながら青年の顔を見上げると、青年はシャツではなく俺をじっと見ている。
どきりとしてダスターを握る手に力がこもった。茶髪にピアスの彼は俳優みたいに顔が整っている。必死にシャツを拭いていたので気づかなかったが、俺が引っ張っているせいで、ズボンの腰の部分から彼のボクサーパンツのゴムと割れた腹筋がちらりと見えている。
慌ててそこから目を逸らすが、顔が熱くなった。
シミ取りを再開しようとするものの、青年がじっと俺を見つめているのが手洗い場の鏡に映っていて集中できない。俺は黒い髪をキッチンの帽子に突っ込み、もらったばかりの制服はすでにあちこち汚れている。対する目の前の青年は高そうな服をゆるっと着こなしている。平均的な身長の俺より十センチくらい背が高くて、シャツを拭く俺を覗き込むようにしている。まるで主人と召使いみたいな構図だ。
ひたすらに手を動かしたが、赤いシミはじわりと広がっただけでシャツが白さを取り戻すことは出来なさそうだ。
俺は観念して手を止めた。
「あの……、クリーニング代……」
相当な痛手だが仕方がない、と声を絞り出したそのとき、青年が口を開いた。
「インスタのアカウント教えてよ」
「え?」
インスタ……アカウント……?
俺はぴたりと動きを止めた。
「もしかしてやってない? XとかTikTokは?」
矢継ぎ早に聞かれ、必死にその単語を記憶から辿った。SNSのことかとようやく気が付き、相手は俺の連絡先を聞いているのだろうと理解した。
SNSのことはよく分からないが、きっと連絡手段としてメジャーなのだろう。そこから請求してくるつもりだろうか。警戒したが、残念ながら俺は彼の要求を実現できない理由がある。
「すみません……僕携帯持ってないので……」
目の前の彼はキョトンとしている。俺だって信じてもらえるとは思っていない。
「クリーニング代、持ってくるんで待ってて下さい」
もうキッチンに戻らないといけないし、染みは落ちそうにない。俺は奥歯を噛み締め声を絞り出した。
急いでロッカーに行き、財布から出したなけなしの千円札を握りしめて戻った。クリーニング代など見当もつかないが、俺が出せる精一杯なのでこれで足りて欲しいと祈った。
「申し訳ございませんでした」
顔も声もどんよりとしたまま、青年の手にお札を押し付けた。青年は「ちょっと……」と言っていたが、俺は振り返らずにキッチンへ戻った。
「すみません、パフェ倒しちゃったので作り直します」
キッチンの先輩は「えー!」と言ったが怒ってはいないようだった。
俺はできる限り丁寧にパフェを作った。最後に苺をクリームの上に乗せ、ミントの葉を飾る。
バイトに来たのにお金を失うなんて……。
俺のため息は換気扇の音に紛れてかき消えた。
パフェを運ぶのはホールの女性の先輩にお願いした。元々俺が運んだのはホールの手伝いのためだったし、ちょうどキッチンが忙しくなってきたところだ。事情を説明すると、彼女は快く引き受けてくれた。
彼女はパフェを運ぶとすぐに戻ってきた。
「これ、返すってよ」
「え……?」
彼女の手には千円札が握られている。
「気になるなら自分で聞いておいでよ」
彼女はそれだけ言うと自分の業務に戻っていった。
俺はその後調理をしながらどうすべきか悩んでいた。すると彼女がキッチンカウンターから顔を覗かせた。
「パフェの人、会計だよ。八尋君行きな」
迷っていると「ほら、早く」と連れて行かれた。
レジに行くと、先ほどの青年にじっと見つめられた。彼のTシャツには俺が付けてしまった赤い染みがある。
男女四人で来ていたらしく、青年の周囲を派手な集団が取り囲んでいる。女性達はアクセサリーと露出が多く、青年にまとわりついている。もう一人の男性はダボっとした服装で一歩引いたところからニヤニヤしながらこっちを見ている。青年は女性達がくっつくのを顔色ひとつ変えず振り解いている。彼の目線は俺に固定されており居心地が悪い。
「服汚してしまって本当にすみませんでした」
俺は深々と頭を下げた。
「マジでいいって! それよりさ、携帯ないってほんと?」
「はい……」
携帯を持っていないと言ったときの相手の反応は二パターンある。
一つは信じてくれない。
もう一つは大袈裟に「ありえない! 不便!」と騒ぎ立てる。
どちらも億劫だなと思っていると、青年の周囲は俺の回答を聞いて爆笑しだした。いくらなんでも馬鹿にしすぎではないか。
「ウケる! タカヤフラれてんじゃん!」
予想外の「フラれる」という単語に俺はギョッとした。もしかしてナンパを断る口実のように思われているのだろうか。
三人が青年を指差して笑っている。青年は不貞腐れたような顔を見せた。年上かと思ったが、意外と同じくらいの年かもしれない。
「ねえねえ、こいつフォロワーめっちゃいるんだけど知らない?」
男が青年を指差して話しかけてきた。俺はふるふると首を横に振った。青年は「まじでやめろって」と迷惑そうにしている。
もしかして本当に芸能人なのだろうか。俺はテレビはよく見るがその顔に見覚えはない。じっと見つめると、青年は照れくさそうに顔を逸らした。こんなに顔が整っているから見られることには慣れていそうなのに、照れる姿にこちらまで気恥ずかしくなった。
「もー、余計なこと言うなよ。やっぱ駄目か……」
青年は困ったように自分の髪をくしゃりと掴んだ。
青年がなぜ俺の携帯にこだわるのかよく分からないが、服を汚してしまったことはさっさと忘れて欲しい。
俺は手早く会計を済ませて「ありがとうございましたー!」と頭を下げた。
そして青年と目を合わせずに彼らを見送った。
今の世の中、携帯を持っていない人物など世界に存在しないも同然なのだ。俺と周りは違う世界に生きている。
見えない分厚い透明な壁。
ファミレスのドア越しに、俺は騒ぎながら遠ざかる彼らを見送った。
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