第1話 閑古鳥の鳴く事務所(前編)
五月のある日の昼下がり。
『さぁ、最終コーナーを回って、長い直線に入る!』
部屋にはスマートフォンから競馬の中継が流れている。
『先頭はイガワテンリュウ。ここまで逃げ粘って、坂を駆け上がってくる! 二番手まではおよそ五馬身。おっと、大外からミタカセイフが抜け出してきた!』
「しゃあっ! 行け、ミタカセイフ。お前に単勝を賭けているんだ!」
競馬中継を聞いている男性が、大きな声で騒いでいる。
彼は安倍陽太。雑用から大事件まで、様々な仕事を引き受ける何でも屋『安倍相談事務所』を経営する三十九歳になる所長だ。
そんな事務所にはあんまり仕事の依頼も舞い込むことがなく、日曜になるとこうやって毎週のように競馬に打ち込んでいるのである。
「イガワテンリュウの逃げ切りじゃよ。あれだけわっちが助言をしたというのに、二着馬の単勝を一万も買い込みおって……」
「お前にロマンが分かるか! いっけーっ、ミタカセイフ、差せーっ!」
あまりにうるさい声に、事務所で助手を務めている少女が扉を開けて部屋に入ってくる。見た目は高校生くらいだが、とても落ち着いている少女だ。
彼女は狐里管子といい、事情あって事務所に住み込みで手伝いをしている。
『追いすがるミタカセイフ、逃げ粘るイガワテンリュウ! この勝負はきわどい。今、並んでゴールイン!』
そんなやり取りの中、競馬のレースが決着する。
実況はきわどいと言っているが、実際画面越しでもきわどい状況だった。
「三連単は11-5-9じゃよ。まったく、今回ばかりは見ておれんとわっちも予想したというのに、どうしてひとつも聞かぬのかなぁ……。複勝にしてくれていれば、その一万は四万円になっていたのにな。この分では今夜も油揚げの照り焼きになりそうじゃわい」
管子は夕ご飯が寂しくなりそうなことを悟って大きなため息をついている。
ごくりと息をのむ陽太を放って、買い物に出かける準備を始めている。
『勝ったのは、11番イガワテンリュウ! 最後は首の上げ下げ、ハナ差でレースを制しました!』
「だぁああああっ!!」
「だから言うたじゃろうに。わっちは買い物に行くからな」
管子の言ったとおりの着順で決着したレース結果に、陽太は嘆いた顔のままで固まっている。
よく見る陽太の情けない状態には目もくれず、管子は淡々と事務所を出て買い物へと向かっていった。
きわどいところで単勝を逃した陽太は、そんなことにも気がつけないまま、しばらく立ち直れないでいた。
それから一時間後、事務所に管子が戻ってくる。
「ただいまじゃよ。いやぁ、タイムセールのおかげで節約できたわい」
見た目が高校生だというのに、なんとも主婦じみたことを言っている。
冷蔵庫に物をしまった管子は、陽太の様子を見に部屋へと戻ってくる。
「なんじゃ、まだ呆けておるのか。だから、わっちのいうことを聞けと申したに。まったく、わっちにバイトをしろというのか。そんなことを言う前に、少しは依頼を受けたらどうなのじゃ」
管子は、すっかり閑古鳥の鳴いている事務所の状況を憂いている。
今のご時世、いくらでも依頼はありそうだというのに、この安倍相談事務所は名前の固さと所長の胡散くささで、なかなか普通の依頼が舞い込まないでいる。それだというの、肝心の所長がこの体たらくである。管子の気苦労も並のものではなさそうだった。
夕食を用意していると、唐突に管子が反応を見せる。
「陽太、どうやら客のようじゃぞ」
「ああ? こんな時間にか?」
管子の反応に、陽太は露骨に嫌そうな表情を浮かべている。
時計がさす時刻は既に午後六時を回っている。普段通りであるなら、夕食の時間にあたるため、陽太はこんな反応を示しているのだ。
事務所の営業時間は午後の五時までだ。普通なら時間外で追い返すところだが、管子が何かを感じ取っているようだった。
「ふむ、におうな」
管子の反応を見た陽太は、顔を思いっきり引きつらせている。
「おい、まさか引き受けるつもりじゃねえよな」
「そのまさかじゃよ。さっ、出迎えに行くぞ」
「おい、飯の時間だぞ?」
「なぁに、わっちの勘じゃ、話を聞いてから食べても問題はない。さっ、行くぞ」
管子は陽太が引き留めるにも関わらず、さっさと玄関へと向かっていってしまった。
面倒なことになったと思いながらも、陽太は仕方なく管子の後を追いかけていった。
玄関まで向かうと、そこには少し若い感じの女性が立っていた。その姿を見た瞬間、陽太の様子が急変する。
どこからともなく取り出したくしで髪の毛を整えると、ピシッと背筋を伸ばして出迎えに向かう。
「あの、うちに何のご用でしょうか」
「あっ……」
声をかけられた女性は、突然のことだったからかびっくりしている。
「こんな時間に女性の一人歩きは危険だ。中へと入って下さい」
「……はい」
女性はおそるおそるという感じで、事務所の中へと入っていく。
女性を優しく案内する陽太の様子を見ていた管子は、ジト目を向けて呆れている。
「まったく、面倒ごとは嫌ではなかったのか。鼻の下を伸ばしおってからに……」
ぼそっと吐き捨てた管子は、眉間にしわを寄せた渋い顔のまま、二人の後を追いかけていった。
こんな時間にやって来た女性。話して彼女はどのような相談でやって来たのだろうか。
事務所に通された女性は、何かに怯えたようにひどく震えた状態でソファーに腰掛けていた。




